2020/09/27(日)17:46
それは『空』というものなのだ。
『聖書』は予言の書である。とか、新約聖書の『黙示録』が予言の書である。とか、怪しい教団の信者さん(統一協会だけでなく)から、よく聞かされたよね。
その外、神秘主義に傾倒している人からも、たまに耳にしたこともありましたわ。
聖書が予言の書である。というのだったら疑問が浮ぶよね?
聖書が予言の書であるなら、何故、人間は悲惨な戦争を繰り返すのか?
飢餓で苦しむ人々が出ないように、何故、それを未然に防げなかったのか?
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数え上げたら限がない。
事が起こり、時が過ぎ去った後で『全ては大昔に聖書に書かれてあった!聖書に予言されていた!』と言っても、それは、こじ付け、でしかないのだよ。
事が未然に防げてこそに予言の価値があるのだから。
予言というのは、防犯・防災対策である。と私は思っているけどね。
予言というから、おかしくなっちゃうんだけどね。
予言。ではなく、助言というべきじゃないかな?
結局は錯覚なんだよね。
聖書の中に現代社会の縮図を見て、そう思いこんでしまう錯覚なんだよね。
何故、現代を生きる人が聖書は予言の書である。という錯覚に陥ってしまうのか?
それは、大昔に生きていた人々から、現代を生きる人々に至まで、似たような行いを繰り返してきたからなんだよね。
様々な、文化・文明が発達しても人間の本質は変わらないからだろう。
後ろ向きに考えれば、人間とは何と愚かな生き物なのだろうか?と思うだろうし。
前向きに考えれば、現代人が営んでいる豊かな暮らし向きや、豊富な知識は、先人達が失敗を繰り返しながら積み上げてきた成果ではないのか?と思うのではないのかな。
そして時が止まらないのと同じく、
人間があり続ける限り、それは続くのではないのかな?
その時々の事情や形を変化させながら、それは、これから先も延々と続くのではないのかな?