プラナーと見た夢
「プラナー Planar」、「テッサー Tessar」、「ゾナー Sonnar」、そして「ディスタゴン Distagon」と、どうして「ツァイス」はこうも魅力的なレンズばかり作れるのだろう? 勿論「ライカ」という好敵手がいたために、生き残りをかけて必死の開発を行った結果ではあるが、僕の場合は、何かしら「神がかり的」な神秘性をそこに感じてしまう。 それは、カール・ツァイス社という会社が、歴史の荒波に翻弄され、辛酸を舐めてきた会社ゆえに、僕の気持ちが、必要以上に惹かれてしまった結果なのかも知れないが。 今日は、あえてハッセルブラッドでもなく、ローライフレックスでもなく「ツァイス・グループ」自らが、最も「ツァイス・レンズ」を良く表現するカメラとして生産した「コンタックス」を少し語ってみようと思う。 カール・ツァイス社そのものは、顕微鏡や望遠鏡、或いはカメラのレンズを作っている「光学メーカー」であったため、カメラ本体の生産は子会社の「ツァイス・イコン社」が受け持っていた。 話は少し遡って、第1次世界大戦でドイツが敗れて、極度のインフレで国内の経済が疲弊するなか、危機感を持った「カール・ツァイス社」は4つのカメラメーカーと合併する形で、「ツァイス・イコン社」を設立した。 世界的なブレイクを果たした、「エルンスト・ライツ社」の35ミリカメラ「ライカ(オスカーバルナックによる)」の背中と影を追って、若きツァイスの設計技師「ハインツ・キュペンペンダー」は1932年に「35ミリコンタッス」を世に送った。 そして、その成功も束の間、第1次世界大戦でもドイツは敗れ、「カール・ツァイス社」の本拠地であったドレスデンから、戦勝国ソ連軍が、戦利品として、その技術と生産施設を手にいれ、ソ連政府はウクライナの首都キエフで「コンタックス」と全く同じ製品「キエフ2」を発売する。 この「ソ連製キエフカメラ」のコレクターも多いが、僕は、理由はどうであれ、このような形で知的財産を略奪する行為に嫌悪感を覚えるので、キエフを手にすることはこれまでなかったし、今後もないと思う。 そして更に、歴史は「カール・ツァイス社」に試練を与える。 「カール・ツァイス社」の本社があったキエフは、東西分割によって、東ドイツに属することになったからである。 その時、かなりの数の技師たちが、西ドイツに逃亡して、西ドイツ領土内にあった「ツァイス・イコン社」の工場と力を併せ、「コンタックス2a」を発売する。 しかし、さしもの「ツァイスイコン社」も、日本製カメラの台頭には勝てず、1972年に「コンタクッス」の生産は中止されてしまう。 この時、世界の誰もが(勿論僕も)、伝説の名機「コンタクッス」が地上から永久に消え去ったと思った。 ところが、それから3年後の1975年、名機「コンタクッス」はカール・ツァイス財団の働きで、日本の準大手カメラメーカーであった「ヤシカ(現在は合併して京セラ)」から、「コンタクッスRTS」として、まさに不死鳥のごとく蘇った。 ここまで、一気に書き上げましたが、僕は、そうした歴史を思った時、どうしても「コンタクッスRTS」を買わなけれbならない使命のようなものを感じて、発売日当日、初めて「サラリーマン金融」なるものの門をくぐって憧れの「コンタックス」と「プラナーレンズ」の両方を手にしたのでした。