蓋を開けて花束をそっと入れる
もやもや、もやもや、言葉にできない気持ち。とてもお世話になっていたという過去への感謝が蓋をして。 それでも、同じような 苦いものを噛み潰したような気持ちに昔 何度も苦しんで、結局答えが出せずじまいだったことを思い出した。 そう。その人の「正しさ」、「理論」、「視点」、「情報」…何を突きつけられてもそれがどれだけ一般的に 客観的に正しくても、鋭くても、壮大であっても、自分の成分にない元素記号は、そこに産まれてこない。どれだけ見つめても、ぽろぽろと掌から落ちていく。…私はそうだった。 どうにか、その人の、その言葉を乗り越えようともがいたけれど、その言葉は自分が感じたことではないが故に、感じられないが故に、肥やしにすることはできなかった。ただ腐って、自分の絵筆を止め、嫌悪させるだけの嫌なものになってしまった。 だから、ゆっくりと距離をとっていったんだと思う。 私も旦那も、自分自身の軸を、絵を、作品をそれがどれだけ大切な人であったって、捧げることなんてできない。 どれだけ他人に陳腐だと思われようと、大事なものだから、壊されそうになると声をはって叫んで、守ろうとする。それが滑稽でも、子どものようでも自分を失うよりは そうするべきだと思う。 結局、人と人の間に流れている川はどこまでいってもグレーで白黒はっきりなんて 私にはとんでもなく、できない。人を非難すると自分に返ってくる。ただ、違うということしか言えない。それでいいと思ってる。 …こんな風に自分ではないものが体に入ると、混乱してぐらぐら、ゆらゆらするけれど違うと感じて吐き出した途端、自分の骨格が理解できる。 そこにあるのは 旦那の世界でもなく、息子の世界でもなく、誰の世界でもない。私でしかない。 とてもお世話になった、その人たちに私が贈ったのは誰が何と言おうと 私が好きだった彼女の、感情や想いそのままが線に出ていた絵に とても近い(と私が感じた)枯れた花々が息をする花束。ウエディングブーケ。忘れないで、という想いをこめて。 その人の絵を好きだと思う人の言葉しか、その人の肥やしにならない。旦那が言ってた言葉。…私も、そう思う。