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カテゴリ:気持ちの分かれ目
拒否の仕様が無い確実さで、 降って来る雨風につかまえられる瞬間がある。 外を磨いても、中がすっからかんじゃおもしろく無い。 私の中に昔埋められた種が アンテナの代わり。 季節が 一日、一日 その姿を変えて行くみたいに、 万葉の花々の移りゆく様を 拾っていく。 過去を辿る路しるべになる。 いつかみたいに ただ 目を開いて、何も零さないようにするだけで精一杯。 あの頃は、重すぎてひとつも受けとめられなかったけれど。 もの凄いスピードに揺らされること、少しは楽しめるようになったかな。 通過することを恐れない。 最後に残ってどうしようもなかったものだけ、 こぼれ落ちてしまったもの達は また、巡り来るその時へのプレゼント。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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はじめに 0p 文学的な好みやことばづかいが形式的に決まってしまう時代以前の作品が『万葉集』の歌である。/万葉びとたちが、身のまわりの花々といのちを一体にしていた、という事実がそれである。彼らは、ただ花々を美しいものとして鑑賞しようとするのではない。自然と人間との区別を本質的にはもっていなかった万葉びとは、四季の花々の水位にわが生命の循環を感じ、開花や落下に心を投影した。そうした人々にとっての「花とは何であったか」
(November 2, 2015 12:04:35 PM)
はる
うめ 12p うめは外来の植物で、万葉の人々には充分に中国的な雰囲気を漂わせたものだった/難波あたり、渡来人が多く住んだ土地には、うめが多く植えられた。 さくら 13p サクラという名前は「咲く・ら」という意味で、「ら」は親しみをこめてことばの下につけたものだから、花はすべて咲くのに、それを独占しているのが、この花だということになる。 つつじ 14p 万葉集では「つつじ花 匂へ少女 さくら花 盛え少女」という習慣的な表現まであった。この原文では「をとめ」を「未通女」と書いていて、男を知らぬ少女を、さくらとつつじにたとえるのである。 万葉では丹(赤)つつじと白つつじの両方が歌われている。いずれも匂わしい美しさがたたえられているのだが、「未通女」には白つつじがふさわしい。 あしび 16p 白い花への好みは万葉人において殊のほか強く、あしびが万葉の代表的な花の一つと考えられるのは、それによっている。/恋する男性へのわが恋心は、満開のあしびのようだというのである。いちずに白い色は、ひたむきな慕情や盛りの美しさの、極限だったといえる もも 17P 天平時代の好みは、やや濃厚な色彩の花が好まれるようになる。 春の苑 くれない匂ふ桃の花 した照る道に 出で立つ少女 たそがれ色にそめられた庭に咲く桃/ももは若い女性をイメージさせるものとして、中国の『詩経』にも歌われた すもも 20p 庭上の季か、はたまた残雪かという趣向も、中国趣味によくかなっている。純白の花の盛りは、豪華な積雪にも似ている。/万葉びとは、野の可憐な花の風情の中に、やさしい女性と通じ合うものを感じとっていたようである。 すみれ 21p 春の野に菫つみにと来し我そ 野をなつかしみ一夜寝にける/「野」とは、赤人の仕える宮廷の、権謀術数に明けくれる政治世界とは反対の空間/抗争の心を憩わしめるところ やまぶき 25p 山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく/皇女の死後の世界に、やまぶきに飾られた山の泉を想像した/この泉は、生命を復活させる水の湧く泉として、西方にあると当時信じられていた、伝説上のもの/その水を汲んで、皇女をよみがえらせたいのに、道が分からないという嘆きを歌う。やまぶきの花が死者にふさわしくなければ、こんな一首はうまれて来ない。 やまぶきは実がならない/『万葉集』でも、恋の実らないことをやまぶきにたとえている/やまぶきが歌われるようになると、もう万葉の春も夏に近づく ※バイカモの花(水の中・表面に浮き沈む茎と花の美しさ) (November 2, 2015 12:05:16 PM)
なつ1
たちばな 28p 橘は、清楚に白い花である。『万葉集』の中には「あべたちばな」とよばれるものも登場し、これは「美味しもの」といわれているから実を主としたもので、街路樹にも植えられた。実のなる植物が浮浪者の飢えを救うからである。/ 長寿の霊物としての「時じくの香の果」を田道間守という男がもち帰ったという伝説があるからで、万葉の歌人たちも、渡来種の珍しいものとしてこの植物を喜んだ形跡がある/梅が天平の人々に賞されたのと同じ事情/梅がうぐいすとともに歌われたこととも同じく、たちばなはほととぎすとともによまれた。 橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しそ多き/彼らにとっての夏は、たちばなにほととぎすの鳴く季節/旅人の妻の死にまつわる歌/わが身をほととぎすに擬して、橘の落花を惜しんでほととぎすが鳴くという一首 うの花 32p ほととぎす来鳴き響もす卯の花の 共にや来しと問はましものを/死んだ妻の比喩がほととぎすで、ほととぎすに卯の花の開花と共に訪れたのかと聞きたいが、今はそのすべもない、という一首 おうち 33p 妹が見し あふちの花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに/死者の見たおうち(センダン)の落花を惜しんだもの/おうちは高い梢をレース模様のようにおおって咲く姿が気品高く思われる。/憶良は死せる女性に高貴さを感じていたのであろう あやめぐさ 36p ほおとぎす今来鳴き初む菖蒲 かづらくまでに離るる日あらめや/あやめぐさを丸く輪にして頭上におくかづらは、元来草木の生命を感染させる呪術であったが、この頃にはすでに風流のしぐさになっている。 アヤメに似た花として『万葉集』に登場するアヤメ科の花にカキツバタ、はなかつみ(菖蒲)があってややこしい。カキツバタは5月の象徴 あじさい 40p 紫の色が高貴の感を抱かせるのは、今ばかりではない。古代の方が一層強かった/紫陽花の八重咲くごとく八つ代にを いませわが背子見つつ思はむ もとよりあじさいは紫に限られるわけではない。七変化といわれる様々な色どりがあり、右もそれをもとにした歌だが、色を変化させつつ紫藍に到る大輪の花の美しさが「わが背子」への賛美になっている。 はちす 44p 新田部皇子は勝間田の池(薬師寺近くの大池)にこの花の灼灼たるを見て感にたえなかったという。そして蓮に恋をかけて婦人に戯れた/はちすは大変古くからわが国にあったことが知られている/久方の雨も降らぬか蓮葉に たまれる水の玉に似たる見む (November 2, 2015 05:57:38 PM)
なつ2
ねぶ 44p 昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓の花 君のみ見めや戯奴さへに見よ/ねぶは夜は花をとじて寝る/ねぶの花は妙にエロスが感じられる。中国で「合歓」というのもかなり露骨な表現で、あの糸状の真っ赤な花は熱帯の極彩色の鳥を連想させもして、なまなましい。 かおばな 45p かおばなは野の雑草で、民衆に親しまれた花だから/万葉の夏の花は、強烈な夏の太陽や、鬱然とおいしげる夏草の中において、はじめていきいきと実感を得るものが多い。 ゆり 48p ゆりは見方によっては毒々しいともとれる花だが、万葉びとはむしろ逆で、ひそやかに人知れず咲く姿に心惹かれていった。この彼ら特有のやさしさは、しかし、弱々しい優しさではない。ささやかなものにも、必ず心とめる生命的なやさしさなのである。 つきくさ p52 朝露の中でこそみずみずしいが、もう夕刻を迎えるとしぼんでいこうとする。それでいてこの花を一途にはかないものだと無常観に流してしまわずに「咲きすさびたる」で、朝露の中ではむしろ嬉々と咲きたわむれて生命観のあふれていると見るのである。そして日暮れになると寂寥に包まれる。そこに恋心の全過程がふくまれていて、つきくさを比喩とする一首が成り立つ。 朝露に咲きすさびたるつきくさの日暮れるるなへに消ぬべく思ほゆ わすれ草 52p 忘れ草というのは中国の『詩経』に憂愁を忘れる草だとあることに由来するといわれるが、わすれ草という名そのものは、そんな知識的な媒介によってついたものなのだろうか。二枚貝の片割れを忘れ貝といい、遺児を忘れ形見というように、この草も野の中に残されたように花をつけている姿から、いつしかわすれ草と呼ばれるようになったのではあるまいか。ゆりに似てもっと泥臭い花が一層なつかしいが、さてそれが愁いを忘れる草だということになると、なおのこと心がひかれる。 萱草わが紐につく香具山の 旧りにし里を忘れむがため 望郷の念が強く苦しいからこそ、忘れよう/わすれ草を紐につけて愁いを逃れようとした/貴族たる旅人らの感傷かもしれない。一般の民衆たちはもっと逞しく生活の中に花々を見た。 ※54p ひし 葉の殆どが水中に没している 道のへのうまらの末に這ほ豆のからまる君を別れか行かむ 君がため浮沼の池に菱つむと わが染めし袖濡れにけるかも 植物は花を第一義としない。ひしは実を食用にするためだし、第一種のうまら(ノイバラ)に到っては、その先まで豆がからまっていて花をめでるどころではない。歌の主旨もそのからまり具合が、男へのわが心の関与だという。 (November 2, 2015 05:58:26 PM) |