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連休中でもあるし、ゆっくり読んでみよう!!
温故知新 巷では、憲法第9条のみを騒いでいるが、【個別自衛権】【集団的自衛権】について騒いでおり、【憲法】より、【閣議】【内閣法制局】の解釈のみで、内閣総理大臣の【ツルの一声】で、【憲法第9条】の【構成要件】すら、国民の代表たる国会すらも無視!!ましてや、【国民投票法】にての、民意すら問う事を避ける。 民意を問えない事象なのか?? 後ろめたい議論なのか?? 確かに現在の国会議員は、衆参全員が、【違憲判決】にて、選出された議員であり、【憲法遵守】は、念頭に無いのか?? 日本国憲法 (昭和二十一年十一月三日憲法) 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 聖徳太子十七条憲法原文 十二年春正月戊戌朔。始賜冠位於諸臣。各有差。夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親聿作憲法十七条。 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。 五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。 八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡 。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。 九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理 能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。 十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。 十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。 十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。 十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。 十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。 十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。 十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。 秋七月改朝礼因。 603年?(推古十一年)12月5日に十二階位制度が制定され、604年(推古十二年)正月最初の叙任が行われ、臣下として位階の上下の差別をつけられ、同年四月に十七条憲法が制定されたとされています。 十七条憲法が収録された日本書紀は、720年(養老四年)五月二十一日に成立したと云われています。 底本はいわゆる「岩崎本」と云われる日本書紀写本の写真版を使用しました。書写の年代は延喜(900年代始)の頃とされています。 財団法人聖徳太子奉賛会編者坂本太郎「聖徳太子全集」第1巻のグラビア写真を使用しました。 底本の用字は極力変更しない様にしました。 読み方、訳文は先学の注釈を参考にしながら、私の素人判断で作成しました。文法上の誤りがあるかもしれません。 十七条憲法は直接の原文は残存していません。 681年(天武十年)「帝紀」「上古諸事」の編集に着手して、720年(養老四年)に「日本書紀」の全三〇巻が完成したと云われています。 十七条憲法を含む推古紀は700年頃に編集されたと云われています。 日本書紀はわが国最初の官製の歴史書と云われています。 日本書紀は官製の歴史書としての体裁を整える為に内容を改変する場合があることは古事記との対比などで明らかにされています。 私が使用した写本は日本書紀の成立後180年位後に書写されたと云われています。 いくつかの写本は書写された時期にも差が有り内容も加字、脱字、用字の違いなど有る様です。 十七条憲法は聖徳太子が生存していた時代に制定されたものか、日本書紀編纂のときに偽造されたものか議論があるようです。 偽造説の根拠は日本書紀に記載されている十七条憲法や聖徳太子の事績に関わる記述部分が他の地の文章と同じように漢文(中国語)として用語、文法の間違いを含んでいるので、同時に作成されたと考えることにあります。 用語、文法の間違いは漢文(中国語)を日本語として読み下しているが、中国語の正確な知識を持たない人が犯す間違いであるとされています。 もし偽造とするならば、なぜ偽造しなければならなかったか理由がなければなりません。 現在のところ合理的な説明が出来ていないようです。 原型が漢文であったか、万葉仮名の和文であったか、その中間文であったかも定かではありません。この時期はそのいずれもが使用された可能性が有ると私は考えます。 聖徳太子の時代は国の公式文書は日本人が書いた漢文であった可能性が最も強いと考えます。 憲法上の主権者と被支配者の関係はどの様に変化したか考えてみます。 推古朝の時代は大王(天皇の称号は使われていない)直轄の地域では支配者の大王と被支配者の領民の関係であり、氏族(豪族)の支配する地域では支配者の首領と被支配者の領民の関係が並存していたと考えられます。 氏族の首領は大王の臣下とされていたと考えます。「朝廷」は大王、氏族の首領(公家)、その他の臣下(従業者)で構成していたと考えます。 室町時代以降の幕府が構成された時代では、天皇の権限を幕府に委任されていたと考えます。 支配者と被支配者の関係は根本的に変化していないと考えます。 明治政府の下で「大日本帝国憲法」体制が出来ました。支配者(主権者)の天皇と被支配者の臣民の関係に変りました。被支配者の側から見ると大きな変化は有りませんでした。 臣民の権利が規定されている事から民主的要素があったと考える人も有るが、形式的、表面的であり民主的要素とは考えられない。 第二次世界大戦の敗戦後に成立した「日本国憲法」で国民が主権者とされて、被支配者の立場が無くなりました。 この事から憲法上の革命的変化と考えます。 ただ、その運用面では充分とは云えないと私は考えます。あえて憲法改定私案を掲げるのは、いっそうの改善を期待するからです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年05月04日 05時16分07秒
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