怪談実話系
しばらくブログをお休みしていましたが、「怪談実話系」(MF文庫)という本を読んだので感想を書いてみます。この本は東雅夫さんの能書きに続き、京極夏彦さんの作品に入っても能書きが続きます。京極さんの「成人」は小説書きの鬱憤晴らしや学問コンプレックスで愚痴が多くなっているのかもしれないですが、その点を気にしなければ、平凡な素材しか持たない言い訳を創作スタイルでごまかしつつ終盤に至る辻褄の合わなさが浮遊する感じはそれなりに味わえます。同時に、落とさないように落とさないようにという姿が見え透いてしまっているところに作家としての限界を見せています。福澤徹三さんの「見知らぬ女」は、乾いた筆致でソクソクと恐怖が迫ります。福澤さんの作品は、怪談という枠を表に出さない方がよいようで、文字から揺らいでくる気体のようなものが、何も言わなくても怪談として読者に伝わるという印象です。ですから、わざわざ怪談と言わずとも、福澤さんの小説を自然にそう受け取る読者もいて私もその1人ですが、この本の企画はわざわざ怪談実話系と謳うことで、この小説を読む楽しみを初めから殺いでいます。この本で一番目を引いたのは岩井志麻子さんの作品です。タイトルの「爛くれた」がいいです。しかし目次では「爛れた」なので、単なる誤植かもしれません。岩井さんの田舎の女子高生的な垢抜けない下品さにはうんざりする面白さがあります。らしいという感じで気楽に読めたのは中山市朗さんの「怪談BAR」です。怪談を読むのに「実話怪談とは」みたいに来られると溜め息をつくばかりですが、中山さんは怪談を書くことだけでそれを示しています。木原浩勝さんの「後は頼む」はとりたてて…という感じではあるけど、実話ってこういうものなのは確かですね。実話系の系はいらないよという影の声を聞いた気もします。小池壮彦さんの「リナリアの咲く川のほとりで」は、みるみるうちに映像が浮かんできて抱きしめたくなるような佳品です。怪談の定義云々という能書きに洗脳されている読者や、単なる怖い話好きを最初から足切りしたのは流石です。うちらG通りの近くの古いお店にいるので、ここらの「地下」の秘密はイヤでも耳にしており、まさに怪談なんですが、かなりコアな闇の史実を突いているためにこのようなスタイルにしたのかも。加門七海さんの「茶飲み話」は、私が一番好きなタイプの話です。実話だから描かなくても語ればいいという姿勢に甘えているような点を除けば楽しめる作品です。加門さんの作品にしばしばあるのですが、随所に可愛らしいけど興ざめな物言いが入ります。たとえば「木の祟りというのが一番妥当だ」とかいう判断は、怪談の本を読む人にとって1+1=2だと言われているのと同じですから、せめて別の表現でないと読む意味はないですが、少女チックな苛立ちを隠せない年頃という感じがして、とってもキュートなお話でした。あとの作品は、普通にコンビニ本として楽しめました。