日本モンゴル国交樹立50周年!!モンゴル人の祖先?(2)
モンゴル人の間では、「モンゴル人の祖先は匈奴(フンヌ)」と決まっており、論争すらありません。ですが、世界的に見ればそうとも言い切れません。実際、カザフなどのテュルク系民族も、遠いトルコ人さえも「私たちの祖先は匈奴だ」と主張しているのです。モンゴル人から見ると「あいつらは勝手に私たちの祖先を盗んでいる」「チンギスハーンまでテュルク系の先祖だと馬鹿なことを言っている!」など、議論すらできる雰囲気ではないのです。そうだとしても、ある程度は事実をベースに話してほしいのです。現在の研究では、モンゴル高原に最初に登場した大国は紀元前4世紀に中国の書物に書かれた匈奴です。これは当然中国語であり、モンゴルの歴史を知るには残念ながらまずはこの漢字を理解しないといけないのです。まず理解すべきは、この匈奴という文字は悪字と言われる、良くない意味の漢字です。匈は喧噪・騒乱を意味し、奴は見下した言い方です。なので、匈奴の漢字としての意味は「騒乱を起こす下等な奴ら」という意味なのです。これを日本ではきょうどと読みますが、モンゴルではフンヌーですね。中国ではXiōngnúと発音し、欧米ではXiongnuと表記します。日本語的に発音すると「シィオン ヌー」とフンヌとは少し違います。ですが、匈奴ほど有名ではありませんが、匈奴の前身と言われる葷粥という国があります。これは日本語では「くんいく」ととんでもない読み方ですが、中国ではXūnyùと発音し、「フンニュー」とモンゴル人の発音フンヌーと極めて近いです。ですので、この葷粥という国が歴史に残るモンゴル高原最初の国であり、これが後の匈奴になっていったと考えていいと思います。またある研究者によればこの葷粥と匈奴は同じ国だという説もありますので、匈奴も元々はフンニューと発音されていたのでしょう。問題はこの匈奴がモンゴル人の祖先かどうかということです。モンゴル人にとっては「当たり前だ!匈奴はモンゴル人の祖先だ!」と決めつけてしまうでしょうが、モンゴル高原の歴史を見ると突厥(テュルク系)に支配されていた時期もあるので、モンゴル高原が常にモンゴル系に支配されていた地域でないことは明らかです。現在のトルコやカザフなどのテュルク系の人々も「匈奴は我々の祖先である」と主張しており、世界の民族学者の間でも統一された学説はありません。モンゴル人が主張することが全て世界で受け入れられるわけではないのです。そうした中で、私の個人的見解を以下の通りに述べます。遊牧民には文字がありませんでしたので、遊牧民自身による記録はありません。あるのは、中国やペルシャ(現在のイラン)の記録です。それによると、テュルク系の突厥は確かに6世紀にモンゴル高原を支配したが、その起源はジュンガル盆地とあります。現在の新疆ウィグル地区です。つまりモンゴル高原の西で現れた突厥が東のモンゴル高原を支配したということなのです。それに対して、紀元前4世紀に現れた匈奴はそもそもモンゴル高原が本拠地であり、その後の鮮卑(Xiānbēi)は元々匈奴に支配されていた満州や現在の内モンゴル辺りの民族が匈奴の衰えに取って代わったのです。更にその後の柔然(Róurán)は当時の支配者鮮卑の配下にあったのです。そして5世紀になり、柔然が鮮卑に代わりモンゴル高原を支配したのです。つまり突厥以前のモンゴル高原の支配者、葷粥、匈奴、鮮卑、柔然は地域的に同じ系統でつながっているのです。それに対して突厥は明らかに西から来た支配者でした。その突厥の後に代わったウィグルもテュルク系でやはり西から来ました。それを破って支配者になったのがモンゴル系の有名なタタールなのです。つまり、紀元前4世紀から紀元9世紀くらいまでのモンゴル高原の支配者は、モンゴル高原やモンゴル高原東部、満州を起源とするグループ(葷粥、匈奴、鮮卑、柔然、タタール)と西から来たトュルク系(突厥、ウィグル)に明確に分かれたいたのです。これがモンゴル帝国以前のモンゴル高原の歴史です。いろいろな研究者の本を読むと、モンゴル系とテュルク系だけに遊牧民族を分けるのは無理があるとは思いますが、あえてモンゴル高原及びその東方を起源とするのがモンゴル系、西方を起源とするのがテュルク系と定義すれば、葷粥、匈奴、鮮卑、柔然、タタールはモンゴル系、突厥、ウィグルはテュルク系と考えるのが自然だと思います。従いまして、匈奴はモンゴル系とここでは結論付けたいと思います。(完)