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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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2021.11.16
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京都出身のSさんにはぜひ見てもらいたいと思っていた場所に行きました。それは寺です。

寺なんて全国どこにもあるわけですが、佐渡の場合は「地元の人のためのお寺」という意味とは別に、都から配流された上皇や貴族たちを「慰める」ための寺があるのです。それは遠い島に来て、都を思う人たちのために建てられた(?)ようなのです。

そうした寺はいくつもあるのですが、まずはこの寺から。



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清水寺です。呼び方は「せいすいじ」です。もちろん、あの京都の清水寺(きよみずでら)を模したものです。佐渡では元の寺の名前の音読みと訓読みを反対にするようです。清水寺と言えばもちろん「きよみずの舞台」です。

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寺の大きさは当然本家とは違いますが、ちゃんと舞台まであるとは驚きです。808年開基とあります。平安の昔から、佐渡は京都と交流が盛んでした。次はこちら。

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こちらは長谷寺で、もちろん読み方は「ちょうこくじ」です。もちろん、こちらは奈良の長谷寺(はせでら)を模したものです。こちらは807年弘法大師による開基だそうです。

とにかく佐渡の文化(言葉、習慣、建物など)は基本的には関西文化圏に近く、越後や新潟の影響というものはほとんど感じません。せいぜい江戸時代になって金を運ぶときに越後を通過した程度でしょう。

廃藩置県の時も越後は上越中越下越全部新潟県になりましたが、佐渡はなんと相川県と佐渡県の二つがあったほどで、新潟市などとの結びつきは弱かったようです。

さて、佐渡観光で外せないのは朱鷺です。私は子供の時、日本の国鳥が朱鷺であり、その学名が「ニッポニア・ニッポン」であることを知った時は、佐渡生まれの私としては非常に誇らしい気分になったのを覚えています。

しかもこの名前は、近代日本になって日本人が主張した名前ではないのです。この学名の大元が最初に決められたのはなんと1835年です。明治どころか、江戸時代の天保6年!!

この時の学名は「Ibis Nippon」で、Ibisは朱鷺という意味ですから、まさに「日本の朱鷺」という名前だったのです。ちなみに命名者はオランダの貴族だそうです。その後1971年(明治4年)、イギリス人により「Nipponia Nippon」に命名されたそうです。

要するに今の世界遺産登録のように日本人自身が主張してお願いしたわけでもないのに、欧州ではすでにその価値や貴重性が知られていたということです。

で、この朱鷺を見に行きました。場所は「トキの森公園」です。まずはこの朱鷺を。

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これを見て、「えー、朱鷺ってこんなオレンジというか朱鷺色をしてるの?」と驚かれる方もいるかもしれませんが、実はこれは外国の朱鷺の仲間だそうです。このセンターにはいろんな種類の朱鷺も飼われていました。

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これはゲージの中で飼われている佐渡の朱鷺です。結構ゲージから離れていて、あまりいい写真ではありません。ここは繁殖、孵化させる施設で、ある程度大きくなったら野生に戻す訓練もしているそうです。

そして今では、佐渡全体に野生の朱鷺を見ることができます。全島で、朱鷺が生きていけるような環境の良い田んぼ造りを目指したのです。私も時々佐渡で取れた「朱鷺米」をいただきます。

では野生の写真を、、、と言いたいところですが、残念ながらありません。車で走っている時に偶然に見つけましたが、その時は撮影できず。いつでも撮れるだろうと思っていたら、残念ながら撮れませんでした。自然相手にそんなに甘くはありません。というわけで、ここではネット上の写真を拝借します。

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確かにこんな感じでした。 

そしてこれが佐渡のトキの朱鷺色です。

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朱鷺は普段は白く見えますが、羽ばたいたときに下から見ると、このように美しい色を見せてくれます。まさにこれが朱鷺色なんですね。素人がこんな写真を簡単に撮れるはずはありません。

(続く)







Last updated  2021.11.29 19:08:20
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2021.11.15
外は暴風雨でもお腹はすきます。今回の佐渡旅行で行きたいと思っていたお寿司屋さんがあります。それは回転ずしの弁慶です。

佐渡出身で東京で成功されている方はたくさんおられますが、佐渡で創業したビジネスそのままで東京に進出した企業はほとんどないのではないかと思います。その数少ない例がこの弁慶です。

弁慶の噂は以前から耳にしていました。「佐渡の回転ずしが美味しい」「新潟市にも進出している」「新潟どころか、東京の銀座にまで店がある!!」というのです。

今年4月には、新潟市へ帰省の際に高校の同級生に新潟市内の弁慶に連れて行ってもらいました。が、それは庶民用ではなく個室のあるご立派系でした。もちろんとても美味しかったのですが、やっぱり創業の回転ずしに行きたいと思ったのです。

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場所は、私の両親のそれぞれの実家の中間点辺りにありました。ラッキーなことに並ぶことなくすんなり入れました。確かに回転ずしと言えるような回転する機械はありましたが、ほとんどの人は注文して握ってもらっています。最初に注文用紙に欲しいものを書いて渡しましたが、二回目からは口頭で「トロ!」などと注文するのは、街の寿司屋さんと同じです。

当たり前すぎる話ですが、全国チェーンの回転すしやとは比べ物にならない質の高いネタです。最初は定番メニューに書いてあるものから頼みましたが、お隣さんが「のどぐろ!」というのを聞いて「え?そんなのもあるの?」と私も続いて注文しました。お値段は一皿140円、200円、270円、400円、520円と全国チェーンのような低価格均一料金ではありません。

私もSさんも新鮮なネタに舌鼓を打ち、バンバン注文しました。いやー、こんなに寿司を食べたのは、北海道以来です。北海道の回転すし人気店にも行きましたが、同じように「回転」と言いながら「回転ではなくその場で握る」寿司でした。

佐渡や北海道など、地元の回転すしが非常にクオリティの高いものを出す地域では、全国チェーン店では太刀打ちできないだろうと思いました。

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私たちはこの写真の手前の青い服の女性辺りで食べました。

たらふく食べて、一人3000円程度!!もちろん、銀座ではこうはならないでしょう。帰り際、「やっぱり銀座店は高いんでしょ?」と聞くと「決まった値段なので安心です。更に、神田店もあるとのこと。こちらは立ち食いで価格もお手頃です。」とのことでした。今度試してみたいと思います。

満腹になりました。大満足です。ここは私の両親の実家の中間点だと書きましたが、共に結構近いのでちょっと行ってみました。まずは車でほんの数分のところにある、父方の実家です。

ここが実家跡です。

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残念ながら数年前まであった実家は取り壊されていました。親戚筋に話を聞くとこういうことでした。

祖父母が亡くなってからも叔父(父の弟)は明治時代からある実家を残そうとしてきたのですが、隣(この空き地の左はコンクリートで駐車場になっていました。元々は家具屋さんでした。)の家が取り壊すことになったそうです。昔の京式の家(玄関の間口は狭いが、奥へは長い家。一番奥まで靴のまま通り抜けできる造り)だったせいか、隣の家とは壁がくっついていたそうです。

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奥はかなり長く延びています。

なので、隣が取り壊すとなると、こちら側は壁を作り直すくらいの相当な補強工事が必要ということになったそうです。当然資金もかなりかかるとのこと。誰も住まいない家にかけるには大きすぎるということで、残念ながら取り壊したということです。

この話を聞いて、全国には似たような話がたくさんあるんだろうなと思いました。我が家はまだいいほうで、連絡がつかないまま隣だけが取り壊されてしまったら、残る家は廃墟になるしかありません。日本の地方の問題を垣間見る気分でした。

この辺りは佐渡で一番の商店街に近かったですが、ほとんどの店はなくなっていました。お向かいの田屋金物店だけがかろうじて残っていました。

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私も子供のころには良く遊びに行ったものです。この辺で家具屋さんがなくなった経緯など聞こうと思いましたが、そもそも歩いている人がいません。で、その家具屋さんの隣の家を通ると、何やら人の影が。思い切って聞いてみました。

「あのー、私は隣の家具屋さんの隣の田﨑の孫ですが・・・」というと「えーーー!!あの先生の?」。私の祖父は校長先生をしていたので、この辺ではいつも先生と呼ばれていました。「はい、その先生だった祖父の長男の子供です」というと「おーーー!あそこの長男は真面目な男だったなあ。隣の家具屋の息子とも仲良かったぞ。」と。ですが、こちらの家は結構新しいように見えます。

ここは元々魚屋さんで(思い出しました!)、こちらの方はここから50mほど離れたところで写真屋さんをやっていたのです。(これも思い出しました!)ですが、その写真屋さんは借家だったので、こちらの魚屋さんが廃業するときに土地を買って家を建てたんだそうです。昔の写真屋さんらしく、ご自身はセミプロのカメラマンだったようです。御年88歳ですが、お元気でした。

私がその方と昔話をしていますと、後ろにいたSさんがそわそわしています。「あ、そうだ、あの質問をしよう!」ということで、私は「あのー、北一輝ってご存じですか?」と聞きました。すると今度はSさんとその方とで、北一輝の話で大いに盛り上がりました。

「当たり前だ。佐渡の英雄だからな。」「佐渡の男で、北一輝を知らんもんはおらん!」とやはり当時は超有名人だったようです。当然、私の父も祖父も知っていたに決まっているとのことでした。

「今時、佐渡で知ってる人なんかいないよ」と言ってた私に、Sさんは勝ち誇ったように「ほらね?」という顔をしていました。やはり旅行では地元の人と話せると楽しくなります。

そこからまた車で10分ちょっとのところにある母方の実家方面へ。ここは泉という場所です。実家は無用なほど大きな家でしたが、今では少し小さくしており、昔店をやっていたような雰囲気はほとんどありません。その実家の裏手に、黒木御所というのがあり、そこを目指しました。

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黒木御所というのは、順徳天皇(のち上皇)が承久の変(1221)により佐渡に配流されてから22年間、その後崩御までを過ごした場所です。上皇になったと聞くと、ずいぶんのお歳だと思いますが、なんと天皇を辞めて上皇になったのが24歳の時だったそうです。若くして都を離れ、佐渡に配流されたということです。

私は今回、新たな発見がありました。22年間のほとんどをこの泉の我が実家の裏で過ごしたということを。どういうことか?

佐渡における公式のお墓は真野にあり、真野御陵と呼ばれています。正式な国分寺も真野です。宮内庁管理の対象は黒木御所ではなく、真野御陵なのです。なので、私は「実際に順徳天皇が住んでいたのは真野であり、こちらの黒木御所は時々来て休んでいただけの場所」だと思っていたのです。まあ、ちょっとした休憩所くらいかな、と。

ですが、そうではなかったのです。順徳天皇が過ごしたのはこちらであって、真野はその遺体を焼いた場所だというだけなんだということを今回知りました。京都出身のSさんは「まあ、宮内庁からすれば、焼き場やみささぎが重要なんだろうな。」と。「みささぎ?」と聞くと「御陵の陵の字をみささぎと言う」のだそうです。京都辺りでは、どうやら普通の言葉のようですが、私は初めて聞きました。

私の祖母は、荒れ果てていた黒木御所を整備し、周辺の土地を買って休憩所を作ったうえで、当時の金井町に寄付したほど、ここの「墓守」として長年、ボランティアで貢献してきました。それもあって、後年は宮中に呼ばれたり、右翼のボス笹川良一に帝国ホテルで表彰されたりしたこともあるようです。

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服部というのは母方の苗字で、祖母はナカと言いました。祖母に合掌しました。

(続く)






Last updated  2021.11.26 11:22:33
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2021.11.14
日本におけるコロナ禍は徐々に沈静化し、日本政府も日本への入国規制を緩和しようと動き出しました。それに伴って、モンゴルでも日本へのビザについての関心が高まっているようです。

モンゴル人の友人Uさんのもとにも、そうした問い合わせが増えているとのことでした。(Uさんはビザの専門家ではありませんが、日本の事情に詳しい人として知られていることが原因でしょう)

とはいえ、まだまだ規制も存在しますし、規制そのものも流動的なので、正しい情報をつかむのも大変です。そんな状況下で、在モンゴル日本大使館のホームページに新たな情報が追加されました。それは「ビザに関する問い合わせに対応する電話番号」です。従来もあったと思いますが、今回の新しい番号による案内の特徴は24時間いつでも電話が自動で日本に転送されるという仕組みです。

これは、モンゴル国内でモンゴル国内の電話番号に電話するだけで、その電話が日本に転送され、日本にいるオペレーターと直接話ができるという仕組みです。電話料金は、モンゴル国内の電話料金だけで、国際電話料金は課金されないという優れた仕組みです。(国際電話転送後の電話料金は日本側が負担する)言語は、英語か日本語とのことです。

その電話番号は、7727-7007です。

コロナ後の日本への渡航を考えておられるモンゴルの方々は是非かけてみてください。また、このブログ読んだ方で、モンゴル人から情報を求められている方もおられるでしょうから、是非、この電話番号を教えてあげてください。

日本とモンゴルの交流がますます深まることを期待しています。






Last updated  2021.11.25 13:15:02
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2021.11.13
佐渡金山から車で5分くらいの佐渡奉行所跡に向かいました。佐渡奉行所というのは、幕府直轄地の天領である佐渡を管理するためのお役所です。具体的には、司法や行政の場であったということです。

私はいつか忘れましたが佐渡金山には来たことはありますが、奉行所跡は記憶にありません。その理由は、この佐渡奉行所が再建されたのは2000年と随分最近だからです。



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ここは佐渡を管理する役所ですが、金銀を精製する寄勝場(よせせりば)が同じ敷地内にあります。役所と工場が一緒なんて不思議だと思いましたが、それだけ金の保管管理が重要だったということなのでしょう。

寄勝場なんて読めないし、聞いたこともないのでグーグルで検索してみました。すると・・・佐渡金山関係の情報しか出てきません。佐渡特有の名称なのでしょうか?

勝場(せりば)だけで検索すると「近世の鉱山で買石が粉成・吹立を行う製錬所。」とあります。この買石は「かいし」と読みます。これも検索してみると「江戸時代、鉱山で選鉱製錬にあった独立の経営者。」とありました。

なるほど、金の精製は役所ではなく、役所認定の民間業者がやっており、それを隣にある奉行所から不正をしないか目を光らせていたということでしょう。確かにそんな説明文(民間にやらせている)があったような気もします。

そこで出来上がったのが大判、小判です。



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この写真を見て思い出しました。これと似たような、もちろん偽物というか土産物用(?)の大判小判が額に収められたのを子供のころ新潟の実家で見た記憶があります。あの時はなんでこんなのが家にあるかわかりませんでしたが、佐渡の記念品だったのですね。

もしあれが本物なら大変な値段でしょうが、もちろんフェイクでしょう。今はどこにあるのかさえもわかりません。

佐渡金山は、佐渡市、新潟県で頑張ってユネスコの世界遺産に登録しようと躍起になっています。このことは、本ブログでも何度かお伝えしました。最近もちょっと動きがあるようですが、それはそれだけで長い話になるので、この訪問記が終わってから書くことにします。

奉行所を出ましたが、風雨は一段と激しくなってきています。これが関東近県でしたら、とっくに旅行をストップして帰るところですが、遠い佐渡ではそうもいきません。このまま旅行を続けることにしました。

次の目的地は尖閣湾という相川の街から車で20分くらいのところです。ここは佐渡屈指の景勝地で、30m今日の尖塔状の断崖が連なる湾岸で、北欧のフィヨルドのようだと言われています。(偉い学者が言ったらしい)

ですが、台風並みの風雨になってきました。観光シーズンには多くの観光客が訪れ、この湾内を遊覧船で巡るのが定番です。だだっ広い駐車場には私たちの車だけ。食堂兼案内所のようなところへも雨の中行きました。

入場券がないと、ここから先へはいけません。もちろん、こんな風雨の中、もちろん誰も行きません。中に水族館があると聞いて「いいねー、水族館行きましょう!」と私が声をあげると、案内の方は申し訳なさそうに「あのー、小さい水槽がちょっとあるだけなんです。期待しないでください。」と言われました。

結局、入場料を払って水族館と展望台に行きました。水族館は、確かに受付の方が言うようにあまり期待されても困るようなものでした。Sさんは「お、水族館、いいじゃない」とは言いましたが、私は「沖縄の海なら、赤や黄色など見ても楽しい魚が多いですが、日本海は違います。グレーや青の、行ってみれば魚屋で見るのとほとんど同じですよ。」と言いました。行ってみると実際、アジなど食卓に並びそうな魚が多かったです。

水族館から展望台に行こうとしたら、もう大型台風並みの暴風雨になっていました。傘もほとんど役に立たないほどです。「せっかく来たんだから、写真でも撮って帰るか」の声に、一気に走りました。

展望台のある小島にかかる橋の上から真下を見ると、海がうねっています。



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前を見ると尖閣湾らしい風景が。



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これではただの白波の写真ですので、綺麗な観光用の写真も載せましょう。ほぼ上記の写真と同じ角度から撮ったものです。



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これはきれいな観光地って感じですね。もちろん、この日は遊覧船は欠航ですした。


反対側は。



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小さな離れ小島が見えます。
これも良いお天気ならば。



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このようにあの小島まで遊覧船で行けるのです。

ところで、ここ尖閣湾が全国的に有名になったことがあることをご存じでしょうか?「銭湯の女湯が空になった」という話は、年配の方ならご存じでしょう。が、私でさえそれは伝え聞いただけで、実体験はありませんから、本ブログ読者の方は知らないでしょうけど。

それは「君の名は」というテレビドラマです。本ブログの読者の方の99%は「君の名は。」というアニメしか知らないでしょうけど。このドラマは1952年から1954年にテレビで放映され、大ヒットした(らしい)のです。主演女優の岸恵子のストールの巻き方が「真知子巻き」として大流行したというのは聞いたことがあります。

主人公の春樹と真知子が有楽町辺りで出会い思い合うようになったものの、その後は会えそうで会えないというじらしの演出が効いたようで、大人気ドラマになったそうです。あまりの人気に、その放送日には全国の銭湯・女風呂が空になったというほどの逸話が残っているというわけです。

とにかく、その二人が出会うとか何かで、ここ尖閣湾がロケ地になったのです。子供のころ、そんな話を母から聞いたような気もします。なので、「ロケ地巡礼」として一時はかなり人気の観光スポットだったようです。

ですが、この日は暴風雨の中、おじさん二人でそんなことの余韻を感じることもなく、昼食に向かいました。



(続く)






Last updated  2021.11.24 23:55:59
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2021.11.12
昨日はジェットフォイルの欠航により、佐渡到着が大幅に遅れ観光らしいことはほとんどできませんでした。二日目も雨は相変わらずですが、晴れるのを待つわけにもいかないので相川にある佐渡金山へ出かけました。

佐渡金山のことは知られているようで、あまり知られていないと思います。そもそもマルコポーロが「黄金の国ジパング」と言ったかどうかはわかりませんが、遠い欧州では東の果てに黄金に満ちている島があったという話は有名です。

その最大の要因はこの佐渡の金山です。(正確には佐渡の金銀山)佐渡は遠く平安時代からちょろちょろと銀や金が取れたというのは知れていましたが、その頃はまだ大きく注目さることはなかったようです。

ここ佐渡の相川という土地で金銀山が発見されたのは1601年と伝わっています。1601年と言えば、関ケ原の戦いの翌年です。徳川家康はなんと1603年に超速攻でこの地を直轄地・天領にしたのです。さすが、先見の目がありますね!

徳川幕府がこの後300年近くも続いたのは、お米がたくさんとれたからではなく、この佐渡の金銀による強い財政基盤があったからと言われています。なんせ当時の世界でトップクラスの金や銀の生産量でしたから。つまり佐渡は長い間にわたって「対外的には黄金の国のイメージ」「対内的には平和で安定した徳川幕府」を支え続けた大きな存在だったのです。

佐渡は鎌倉時代に順徳天皇(流されたときは順徳上皇)流されたことを筆頭に、世阿弥や日蓮などの京都の貴族や文化人が政争などに負けると流された島でした。順徳天皇は「島流し」とは言わずに「配流」と表記されます。

そうした経緯もあり、佐渡は上方、京都、関西圏との結びつきが非常に強く、越後(新潟)、江戸などとはほとんど関係のない土地でした。なので、今も佐渡弁は西日本に近いアクセントだし、餅は丸餅(新潟市は角餅)、電力は西日本と同じ50キロヘルツ(新潟市は東日本なので60キロヘルツ)と関西の影響を受けています。

ですが、この京都の貴族文化の影響を受けた島に大量の罪人と呼ばれる流人が入り込んできたのは佐渡金山の発見からです。当時、掘削する機械なんてありませんから、全て手掘りです。そのために多くの掘り手が江戸で募集されたり、場合によっては流人として罪人が送られるようになったのです。

佐渡金山の最も象徴的な写真はこれです。

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これは「道遊(どういう)の割戸」と呼ばれています。巨大な金鉱を掘り進むうちに山がVの字に割れたのです。山頂部の割れ目は幅およそ30メートル、深さは74メートルにも及ぶそうです。

訪れた日は悪天候で写真が撮れなかったので、これはガイドブックに載っている有名な写真です。この大きな割れ目も含め、全て人間の手作業でのみ採掘されたというのは驚きです。

中に入ってみましょう。こんな穴道から入ります。今は安全のため内部は結構大きくきれいにしていますが、当時はもっと小さい出入り口だったでしょう。

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現在わかっているだけで、坑道の総延長はなんと400kmにも及びます。東京と新潟市の間が300km少々で、新潟市から両津経由で相川から80km程度ですから、なんと佐渡から東京の距離よりも長い坑道を手だけで掘ったということになります。にわかには信じられない距離です。では中に入ってみます。

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これは水汲みをし、外へ出している様子です。すべてロボット人形です。


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採掘の様子です。


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この右のロボットが「早くシャバに出て馴染みの女に会いていなぁ~」とつぶやきます。


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これは岩を砕いています。硬い岩盤なので1日に2cmとか3cmしか掘れないそうです。


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人一人がやっと横になれるくらいの狭い穴で掘り続けるのは、肉体的にも精神的にも厳しいでしょう。掘るのに、手を大きく振り上げられないのですから。


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外はまさに山の中です。紅葉が綺麗でした。

Sさんは、「もっと小さな鉱山だと思っていた、こんなに巨大だとは!」と驚いていました。

(続く)






Last updated  2021.11.23 17:47:40
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2021.11.11
11日からの佐渡旅行、なんと滞在中全日程で雨の予報が出ていました。特に2日目のゴルフは難しいかもしれません。

私はゴルフ時の天気予報については楽観的な方で、1週間前の雨予報なんて全然気にしません。ですが、日にちが近づいても雨予報はどんどん厳しくなるばかり。結局、一縷の望みをかけて滞在最終日に変更しました。

ですが、出発前日になって再度予報を確認すると、どうやらゴルフの心配どころではない可能性が出てきました。日本海がかなり荒れているようなのです。

ジェットフォイルは波に強いと聞いていましたが、どうも私の理解が間違っていたようでした。波に強いには二つの意味があるのです。高い波の時でも航行できる、というのと、波があっても船内は揺れない、です。正解は後者であり、そもそも高い波には弱いのです。

結局、ジェットフォイルは悪天候のため欠航となりました。ですが、1時間後の大型カーフェリーは出航できるので、そちらで行くことにしました。1時間の待ち時間に加えて、フェリーのほうが1時間半遅いので、佐渡到着は予定よりも2時間半遅れとなりました。

なので、到着日の観光予定は大幅カットしました。ということで、レンタカーで車をピックアップ後、例の北一輝の墓に行くだけにしようということになりました。
北一輝の墓は、両津港から車で10分ちょっとのところにありました。

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この墓地には「北家」の墓地が複数あり、それら「北家」の墓は結構立派でしたが、明らかに北一輝の墓はそれらから離れたところにあり、ちょっと寂れた感じでした。

軍法会議で有罪、その後銃殺となった国賊だったのですから、家族も墓の場所には苦慮したのかなと思いました。ですが、晴れて平成3年に市の教育委員会により、説明看板が立てられたようです。

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合掌を終え、一路今夜の宿である相川のホテル大佐渡に向かいました。なんせ途中何度も大雨になる悪天候で、夕方にはすっかり暗くなり、観光って感じではありませんでした。

ホテルに到着。この旅では、部屋はそれぞれ別々にしました。私のいびきの音が大きすぎて、同部屋の人に迷惑をかけたくないという私の意向がその理由です。和風温泉旅館は、一人でも予約を取れるところが少なく(楽天では)、温泉付きで眺めが良く、一人部屋可ということでこのホテルにしました。

この辺のホテルは昔(私の子供のころ)、ほとんどの大手旅館、ホテルは父の会社の取引先だったので、私は行ったこともないのに名前だけはほとんど知っていました。このホテル大佐渡もその一つです。

海の目の前にあるこのホテルは、本来なら素晴らしい景色が楽しめるのでしょうが、なんせこの大雨です。水平線もはっきりしないような景色でした。

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私の泊まった部屋の窓からの景色ですが、どんよりとして寒そうな風景でした。とはいえ、この悪天候の中、兎にも角にも佐渡へ渡ることができたのは良かったです。

Sさんも最大の目的に北一輝の墓を見ることができ満足していました。温泉につかり、美味しい海の幸をいただきながら、Sさんと無事に到着できた祝杯をあげて休みました。

(続く)






Last updated  2021.11.22 18:45:38
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2021.11.07
本年9月ごろ、ゴルフの最中に突然「きたいっき、って知ってる?」と聞かれました。聞いた相手は、コンサル&ゴルフで長年の付き合いのあるSさんです。私が知らないと答えると「え!?佐渡の人はみんな知っているんじゃないの?」という会話から、佐渡への旅が始まりました。

Sさんは京都出身で、日本の近代史にかなり造詣が深い人です。Sさんは「226事件は知ってるよね。あれだよ。」と言うのです。一緒にラウンドしていたTさんは「ああ、226の人なら知ってますよ。最近は再評価されたようですね。へー、あの人佐渡の人なんですか?」と。佐渡生まれの私としてはやや形勢不利となりました。

Sさんは続けます。「多分、佐渡では有名人だろうし、郷土の誇りだろうから、北一輝記念館とかあるんじゃないの?それを見たくて、佐渡に行きたくなったんだよ。田﨑さんならいろいろ知っているんじゃないかと思って聞いたんだけどね。」と。

で、その後ネットで調べてみると、下記のようなことがわかりました。

・生まれは1883年(明治16年)、佐渡両津。今の佐渡市で旧両津市。旧制佐渡中学(現在の佐渡高校)に進学したが、眼の病気になり途中退学。ちなみに、私の父もこの旧制佐渡中学卒業です。眼の病気は重く、佐渡、東京、新潟の病院で入院治療をしたものの、18歳の時に失明。

・入院中に社会主義思想に接近、佐渡の地元の新聞に日露開戦論や国体論批判などの論文を発表、社会主義を構想するようになる。弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。ちなみに、弟昤吉は後に衆議院議員、自民党政調会長を経て、多摩美術大学を創立する。

・1906年に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。その後は中国・上海に滞在。辛亥革命時にも上海にいた。

・1919年『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を発表。この本がのちの226事件(1936年)の思想的基盤となり、軍部の青年将校たちが北の陶酔を受け、事件に至った。

・226事件の翌年、軍法会議で死刑判決を受け、わずか判決の5日後に銃殺される。享年54歳。

いやー、ものすごい人生だったんですね。彼の職業は「思想家、社会運動家、哲学者」などと書かれています。私はSさんに「え?哲学者?思想家?どっかの大学の先生でもやってたの?」と聞いたほどで、戦前で哲学者なんて職業はあったのか?と思ったほどです。ですが、どうやらバリバリの社会主義革命家だったのでしょう。

もう一つ疑問に思ったのが、自分は一切226事件には関わっていないのに、死刑となったことです。現在の刑法的に考えれば、いくら個人が「この世の中気に入らない。首相をぶっ殺しちゃえ!」と叫んだり、雑誌に書いたとしても、死刑にはなりません。言うのは自由ですから。

その点をSさんに聞くと「それは普通の裁判。こっちは軍法会議だから、法律とは関係なく、気に入らない奴は殺せということ。」と解説してくれました。まだ第二次世界大戦開戦前なのに、その頃既に軍部の動きは無茶苦茶だったんですね。

社会主義活動家というから貧困層の出身かと思いきや、裕福な酒造業の親の元で育ったとのこと。佐渡自体が社会主義運動が盛んということではないですが、私の祖父(明治生まれの佐渡人)も戦時中の発禁書でマルクスの資本論を全巻自宅2階の押し入れに隠し持っていた人ですから、その時代には社会主義を論じる人は結構いたんでしょうね。

当初はSさんが一人で佐渡へ行くためのアドバイスのつもりが、段々私も気になってきました。佐渡には数十回は行ってますが、最近ご無沙汰であり、純粋に観光旅行というのも行ってないので、一緒に行こうということになりました。

「佐渡にもゴルフ場あるの?」となり、調べてみると一つだけあります。というわけで、主要訪問地を、北一輝の墓、佐渡金山跡、そして「ときの郷ゴルフクラブ」と定め、3泊4日の佐渡の旅に行くことになりました。おじさん二人の旅です。

(続く)






Last updated  2021.11.18 16:10:49
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2021.11.04
カテゴリ:モンゴルと中国
10月31日からイギリス・グラスゴーにおいてCOP26が開催されました。正式名称は「国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)」というずいぶん長い名前です。

ここでは当然のことですが、地球温暖化対策を中心に話し合われました。報道によれば、先進国と途上国との対立などが大きな問題となっているようです。特に世界最大の人口を抱える中国やインドへの「より積極的な参加」を先進国が促しているように見えます。

日本の立場も微妙で、立場的には先進国グループなんですが、石炭火力発電を止めるという宣言も出せずに「化石賞」を今年もまたもらったようです。

世界的には中国の世界の世論を無視した横暴が多いこの頃ですが、この件に関しては同情すべき余地はあると思います。産業革命以降、ヨーロッパやアメリカはやりたい放題好き勝手に石炭を使い、その後はじゃぶじゃぶ石油を消費して経済発展を遂げたわけです。日本も同じです。

なので、過去200年くらいの中で溜まりに溜まったCO2などの大元はほとんどが欧米日が元凶だと言ってもいいと思います。中国が世界的に脅威となるような化石燃料による排出をするようになったのはせいぜいここ20-30年程度です。

なんとか欧米に追い付こうと、豊かになろうと頑張ってきた途中であるのに、「化石燃料はやめろ!」と言われているわけです。日本も基本的に同じ構造ですが、中国より早めに先進国になったので、偉そうに欧米側にいるわけです。

この会議が、1970年代の高度成長の真っ最中だったらきっと「もうちょっと待ってください。あと10年くらいで先進国に追いつきますんで」なんて言ってたかもしれません。

ただ現実には今日現在中国は世界最大の石炭産出国であり、石炭消費国なんですね。石炭はかなりの自給率がありますから、エネルギー安保の面でも「もう少し石炭で発電させてほしい」と言いたいところだと思います。

短期的には、オーストラリアからの石炭輸入を停止したために、石炭火力発電での石炭不足となり、困っているところです。その恩恵で、モンゴルからの石炭輸出は堅調なんですけど。

そんな中国が力を入れているのが、脱石炭で再生可能エネルギーの強化です。再生エネルギーは主に風力と太陽光ですが、この両方ともに力を入れています。そこで狙われているのが、内モンゴルです。

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内モンゴルの西方には、なんと東京23区くらいの敷地に世界最大の太陽光発電所を作ったというのです。その発電量はなんと原発4基分に相当するそうです。

辛亥革命以降、モンゴル人の土地(主に内モンゴル)に大量の漢人が侵入してきました。当初は、先祖伝来から遊牧民の遊牧地であることを知っていたので、恐る恐る遠慮気味に進出し、小規模な農耕地としていたそうです。

ですが、共産党が完全把握してからは、モンゴル人を追い出しながらどんどん農耕地化していったのです。主だった豊かな草原は、農地になるか、工場などの産業設備ができるか、鉱山開発されるかなどで、遊牧に適した草原はどんどん減ってきたのです。

仕方なく、遊牧民を続ける内モンゴル人は砂漠や砂礫地帯に追いやられたのです。ゴビ砂漠は「砂漠」といっても、アラビアの砂漠とは違い、小さな植物などが生成しており、「最良の草原」ではないですが、遊牧は可能な場所はあります。

しかしそうした場所を太陽光発電に使おうというのです。

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こうなると、遊牧は全くできなくなってしまいます。今でもほとんど遊牧に適した場所は残されていないと言われるのに、農地にも鉱山にもならずに何とか残っていた砂漠、砂礫地域も塞がれてしまっては、内モンゴルの遊牧はほとんどなくなってしまうことでしょう。

モンゴル人から言葉を取り上げ、モンゴル文字の教育を取り上げ、残された遊牧地域も取り上げられては、あと20-30年もすれば、モンゴルの遊牧文化まで消えてしまいそうな気がします。

COP26の趣旨には賛成ですが、こうして大きな被害を被る民族がいるということも知ってほしいと思いますね。






Last updated  2021.11.17 20:07:19
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2021.10.27
日経新聞のGLOBAL EYEというページに、一面に大きくモンゴルの特集が乗っていました。題名は「モンゴルに迫る「資源の呪い」」です。内容的には、本ブログの読者であれば、何度かは耳にしたような内容です。

とはいえ、具体的な個人名(政治家など)まで書かれているので、こんな細かいことまで書ける日本人は誰なんだろうと思って、署名を見たらモンゴル人でした。

この記事は恐らくNIKKEI ASIAというアジア版から転用しているようなので、恐らく大元の記事は英語なのでしょう。書いた人は「ハリウン・バヤンツォグト」という人です。記事の中身を見てみましょう。

記事冒頭にあるのは、ロンドンの高級アパートメンツのことで、400万から800万ドルする豪華マンションの所有者の多くは、所有者の名義を隠すために会社名義にしているとあります。

ここはモンゴルの元首相スフバータル・バトボルドが2つの住戸を所有していることが明らかになった場所とあります。当然ですが、モンゴルの首相がどんなに真面目に働いて、どんなに倹約しても、こんなマンションを2つも買えるはずありません。

当然のことですが、モンゴルに蔓延している賄賂、不正によるものです。世界銀行によれば、モンゴルは2004年以降、280億相当の鉱物資源を算出したとあります。およそ3兆円です。それに対して、国民(モンゴル政府)が受け取ることができる税金と鉱山使用料は合計で90億ドルになります。およそ1兆円。採掘会社の経費や利益もあるでしょうから、そんなに悪くない数字です。これが本当にモンゴル国民に使われるなら。

ですが、実際には政府は87億ドルを借り入れ、残ったのはわずか2億ドルだけなのです。普通の国であれば「なるほど、将来の収入を担保にして政府が借り入れ、それを国民のために使ったんだな」と思うところですが、そこはモンゴルです。このブログでもたびたび登場しますが「お金を借りる」と「お金をもらう」というのは、ほとんどモンゴルでは同義語なのです。

私も経験ありますが、モンゴル人は1-2回しか会ったことない人にも気楽に「お金を貸してくれ」「その本貸してくれ」「そのパソコン貸してくれ」と言います。無返済を前提の「ください」はまず言いません。でも、結果は借りるともらうがほとんど同義語だということを知るのです。

この記事に関することを言えば、実際には政府が表立って借りたことにはなっていますが、それは政治家の手に渡って、どこに消えたかもわかっていないのです。何年前でしょうか、モンゴルの国会で「新たに稼いだ鉱山収入は、みんな過去の借金の払いに消えてしまう」「じゃあ、その過去の借金は何に使ったのか?「国で調べても、どこに消えたのかわからない」という議論がありました。まさに、この議論の中心が、この新聞に書かれている消えた87億ドルです。

これは「資源の呪い」と言われる典型的な現象です。私がモンゴルにいた時ですから、10年ちょっと前でしょうか。資源に関する国際会議があるから出席してほしいと言われ、ウランバートルの旧MCSのビルで行われた鉱山会議に出た時の話です。

出席者はインターネット会議を使って、チリやスウェーデン、カナダ、ボリビアなどの国々からも参加してました。テーマの中心はモンゴルの鉱山開発です。そこでは、多くの出席者が異口同音に「このままではモンゴルは資源の呪いで、決して豊にはなれない」と言っていたのを覚えています。

資源の呪いというのは、アフリカ諸国を見れば簡単に理解できます。コンゴやボツワナ、シエラレオネなど鉱山開発で巨万の富が産出されたのに、国民は何年たっても貧乏のままだという現象です。

民主主義が未発達の国が資源豊かな国だとどうなるか?
・鉱山は許認可事業であるので、政府権力者に大きな利権が生まれる。日本のような「公共事業の利権」とは比べ物にならないほどの利権です。総額や利幅が違うのです。
・国民にとっては、鉱山関係の仕事とそれ以外の仕事の間に大きな収入格差が生まれる。しかも鉱山関連は、自動車などの大規模製造業と違って、経済規模の割には大きな雇用を生まない。つまり貧富の差が生まれるのです。
・異常に儲かる一部の産業と、国際競争力がない大多数の産業が同居し、適正な為替レートが見えなくなる。鉱山関係者にとっては輸入品も気楽に買えるが、大多数の人にとっては輸入品が高くなって買えない。
・汗水たらして一生懸命働くよりも、鉱山関係にコネを作るほうが簡単に高い収入が得られるので、コネ社会が蔓延する。コネ社会は賄賂社会につながります。なので自己研鑽をしようという社会的風土ができない。
・若者の将来への希望がどんどん先細り、結果として犯罪、治安の問題が出る。
などなどです。

・日本、シンガポール、スイスなど資源に恵まれてない国は、国民が一所懸命に働かないと生きていけないので、唯一の資源が人となり、教育水準は高くなり、結果として資源豊富な国よりも競争力が高くなる。
というわけです。

モンゴルのことを少しでもご存じの方は、これらの呪いの定義のほとんど今のモンゴルが当てはまると感じると思います。私もその当時モンゴルの新聞などに、このままでは「資源の呪いで国はだめになる」という記事を寄稿したこともあります。モンゴルの友人によれば、その新聞がテレビのワイドショーや討論番組にも使われたと聞きました。反応は?

多くの一般国民は私の提言を支持する立場だったと聞きました。ですが、政治家だけが強硬に反対したとのことです。その理由は「時間がない」です。私の提言は、鉱山の利益を使ってインフラ整備、人材開発、そして原料のままではなく低いレベルでもいいから加工したうえで輸出すべきというものでした。

政治家によれな「そんなことやってたら、4年も5年もかかる。今、モンゴルに金が必要なんだ!」と叫んだそうです。3-4年?10年かかってもいいじゃないですか。

政治家が叫んだのは「今の私に現金が必要なんだ。政治家の任期中に金を持ち出すことが必要なんだ!」ということなのです。その時からこうなるとはわかっていましたが、一介の外国人教師の提言はそれで簡単に無視されたのです。

その記事には衝撃的な試算が書かれていました。モンゴルの現在の石炭、金、レアアース、ウラン鉱床の価値は2兆7500億ドルもあるそうです。日本円で300兆円!!モンゴル人全員が億万長者になれる金額です。

今の政治家は「ばら撒き」に熱心です。選挙前となれば、鉱山収入を担保にばらまき合戦が始まります。スキャンダルも頻発しています。韓国の大統領のほとんどが退任後、逮捕されたり、自殺したりしますが、モンゴルの首相も負けてはいません。

ほとんど有力政治家はこの美味しい話に絡んでいると言っていいでしょう。それに伴い、政治家ではない役人も、賄賂集めに熱心です。上に立つ政治家も自分のことを考えれば、役人にやめろとは言えません。

今後どうなるのか?記事にある「若い世代」はもう不正政治にはうんざりだという人が多いのは事実です。「鉱業への依存度を下げなければ、今よりもっと困難になる」と書かれています。ですが、それは10年前と全く同じだということです。

金権政治打破のために10年前に立ち上がった有望な政治家は、そのお金の力を前に苦しんでいます。鉱業への依存を下げるべき、と言いながら、有力者らは家族、子息らをなんとか鉱山ビジネスにかかわらせようとしています。

モンゴルはまさに「資源の呪い」の真っ最中の国と言えます。






Last updated  2021.11.10 15:00:21
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2021.10.20
カテゴリ:ユーラシアの歴史
香港の民主化制圧に続いて、台湾征服を諦めていない中国共産党に関する記事はこのところかなり多いです。それとともに、新疆ウイグルへの民族弾圧も日増しにひどくなっているようです。

少数民族への弾圧、漢化政策のそもそもの始まりは、漢人が数千年単位で恐れていた北の異民族、遊牧民族の現代の末裔であるモンゴル人弾圧でした。

辛亥革命で清朝が倒れた後は漢人同士の争いもあり、「モンゴルの独立」とか「完全自治を認める」など甘い話をしていた共産党は、国民党を追い出すや否や、内モンゴル人弾圧に力を入れました。

これに関しては、本ブログでも何度も触れています。1950年代から始まり、1960,70年代の文化大革命時代には特にやられました。「モンゴル人は殺しても罪には問われない」と言われたものです。

内モンゴル人を弾圧し、骨抜き化に成功した共産党は、その矛先をチベットに向け、さらに今はウイグル人を徹底的に弾圧しています。やることは半世紀前と同じで「ウイグル人は殺しても罪には問われない」となっているようです。世界各地からの人権批判が出ても、この国の幹部には何も届かないというところでしょう。

これらの漢人優位、中国周辺の領土は全部漢人のもの、という発想は、どこから来るのか?その原点ともいえる地図があります。

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これは国恥地図といって、「国の恥を描いた地図」という意味です。この地図は1933年の上海で発行された小学校用の地図の教科書に載っていたものです。これと実際の中国の地図とが比較されて載っていたそうです。その言わんとするところは何か?

要するに本来の中国領土というのは、この地図の赤線に囲まれた偉大で大きな国なのに、今はこんなに小さくなってしまったんだよ、いつかは取り返さなくてはいけないんだよ、と子供に教育をしていたのです。

これは国民党・中華民国時代に作られたものですが、中国共産党はその地図に関しては基本的な考え方を引き継いでいるのでしょう。つまりこれを実現することが習のいう「中華民族の復興」となるわけです。

この地図をよく見ると、単に台湾を侵略するだけでは済まない意図が明確に見えてきます。この地図を現代地図で表してみましょう。

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内モンゴルどころではなく、モンゴル国全土は当然中国のものとなっています。それどころか、その北のロシア領バイカル湖手前まで中国領土だと主張しています。北東はハバロフスクどころか、なんと樺太/サハリンまでも中国だというのです。

西の中央アジア諸国もほとんどが中国領であり、アフガニスタンも当然中国領という認識です。南はなんとインドシナ半島全域とボルネオ島北部までが中国領です。確かにこれを見ると、九段線(中国の赤い舌)全域が中国領と主張する根拠が見えてきます。東南アジア各国の独立は認めながらも、全然関係なさそうな南シナ海全域を自国領と主張するのは、この地図を信じているからなんでしょう。

だったら、ベトナムにもタイにもブルネイにも「そこは中国の領土だ!」と主張すればいいのに、なぜかそれはしませんね。そこまで馬鹿なことは言えないということなんでしょうか?であれば、九段線も十分ばかばかしい主張なんですけどね。

東を見れば、朝鮮半島は丸々中国領です。習がトランプに「韓国は元々中国だった」と「教えた」らしいですが、恐らくこのような地図をトランプに見せたんじゃないでしょうか?歴史を知らないトランプは、こうしたもっともらしい地図を見て「なるほど、確かに半島は中国領だな」と納得したのかもしれません。中国大好きの文大統領や中国の子分である金主席はこの地図を見て、何というのでしょうか?「宗主国様、よろしくね!」って言うんでしょうか?

日本も他人事ではありません。沖縄はもちろん、よく見ると奄美辺りまでも中国だとなっています。ひどいもんですが、これが中国の領土的拡張野心の原点と言えるのでしょう。ですが、この地図は現在は使われていません。発禁?らしいです。当然、さすがの中国も「本当はこうなんだぞ!」と現代社会では主張はできないのでしょう。が、私は微妙に言いたくない不都合な真実があるからだと思います。

この地図では、太線が旧時国界(昔の、本来の国境)で点線が現今国界(現在の国境)となっています。その現在の国境が問題なんだと思います。特に九段線が国境ではなく、南シナ海の領土が今の主張に比べ大幅に減少しています。しかもフィリピン付近は、本来の拡大国境すらありません。つまり、この頃には今の九段線が国境だという認識はなかったという証拠になります。

だとすると、今の中国がやっていることは「本来は中国領であるべき九段線の領土は、この時点では領土ではなかったので、現在の活動は領土を取り返すためにやっている」ということになります。

また、フィリピン近くの諸島は「そもそもどう拡大解釈しても中国の領土ではありませんよ」ということになります。これは現在の共産党の主張「九段線はずっと変わらず中国の領土であった。だから問題ない。」というのと矛盾します。

もし「元の領土を取り返す権利がある」というのであれば、プーチンに対してハバロフスクや樺太を返せ!と言ってもらいたいものです。アフガニスタンは大混乱しているのですから、中国が直接乗り出して、タリバンと戦って領土を奪えばいいのです。まさに都合のいいところだけを解釈して、主張している共産党の特徴が良く出ています。

モンゴルは、内モンゴルだけじゃなく、いつも狙われていることを良く肝に銘じてほしいですね。






Last updated  2021.10.21 15:51:15
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