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カテゴリ:世界とモンゴル
明日20日から、モンゴル国立大学の経済学部長と私のいる経営学科長の2人が、日本に行くことになりました。
日本の某国立大学でアジア関係の学会があるようで、そのプログラムに招待されたとのことです。 そこで2人からせっかく日本に行くからと日本の大学と提携の可能性について誰かと会えないかと相談されました。 結局、9月にモンゴルを訪問した友人のUさんがいる大学の人たちと会うアレンジをし、その大学内の国際課やMBAコースのヘッドをしているこれまた旧い友人であるEさんとの面談をセットしました。 基本的なアレンジは私が行い、あとは事務局の方と当人同士での連絡で確認してもらうことにしました。 そんなやり取りの中の英文のメールを見て最初は「あれ、誰あてのメール?」と不思議に思ったのですが、すぐに「ああ、なるほど、そうだろうな」と思うメールがありました。 その日本の事務局からのメールには、Dear Dr.の後に、彼(学科長)のお父さんの名前が書いてあったのです。一体どういうことなのか? 「モンゴル人には名字がない」というのは以前から聞かされていたので、わかっていました。実際こちらへ来てみても、基本的には名前のみで呼び合います。 ここで名前というのは、下の名前(ファーストネーム)です。日本の江戸時代みたいです。ですが、この国では大統領だろうと首相だろうと全て名前で呼ばれます。 私も最初は名字を使ったりしていましたが、名前と名字がいつも混乱するので、今では日本人と会う時以外は全て下の名前を使っています。自己紹介の時も下の名前です。 ですが、モンゴル人にフルネームは?と聞くと、自分の名前以外にも名字?と思えるような名前が出てきます。 名刺もそうですし、学生の名簿もそういう名前が出てきます。ですが、それは名字ではなくお父さんの名前(名字ではなく、下の名前)なのです。 まだモンゴルの名前の呼び方に慣れてなかったころ、日本語の先生のDさんに聞いたことがあります。 「いつもは自分の名前で呼ばれるんだろうけど、公式の席とかでは名字の代わりにそのもう一つの名前で呼ばれることがあるの?」と。Dさんは笑って「まさか、だってこれはお父さんの名前ですよ。おかしいじゃないですか。」と答えてくれました。 確かにおかしいです。以前にもこの件で書いたことがありますが、例えば今話題の東尾修元西武監督の娘の理子さんは「理子 修」となるわけです。 ですから、いくら公式の席でも「修さん、ゴルフツアー優勝おめでとうございます」とはならないです。 あるいは「修さん、石田純一さんとの婚約おめでとうございます」と理子さんに話しかける人もいないのです。 つまり、お父さんの名前がついているけど、文字の上以外では使われることはほとんどないのです。 で今回、日本の事務局からの学科長あてのメールにお父さんの名前が書かれていたということです。もちろん、日本人としてはその理由はよくわかります。 相手のフルネームを見たら、普通は友達でもない限り、ましてやまだ会ったこともない異国の大学教授ですから、失礼のないように名字(つまりラストネーム)の方を正式な名前として宛名に書いたということなのです。 私は学科長との2人部屋にいますので、彼に日本人としての当然としての対応であることを説明し、モンゴルの名前の制度は不思議ですね、という話をしました。 彼はアメリカ留学をしていた人ですから、その辺は良くわかっていて「世界的に見てもこんな制度はモンゴルにしかないんじゃないでしょうか?」と言いました。 私が「最近、私の友人が家族会議を開いて新しく名字を決めたなどという話を聞きましたが、不思議でなりません。新しく名字を決めるとか、皆で考えるとか、ちょっと想像がつきません。」ということを話すと、驚くべき歴史を話してくれました。 実はモンゴルは以前は皆名字を持っていたというのです。それもわずか80年前まで。80年前?つまりモンゴル国が世界で2番目の社会主義国となった時なのだそうです。 彼は怒りにも似た口調で「コミュニストによって名字がはく奪された」というのです。 ソ連からのコミュニストたちは、モンゴル人に名字を名乗ることを許さず、その代わりに父親の名前(下の名前)をつけるように命じたのだそうです。 一見、名字代わりのようにも感じますが、全く意味は違います。名字は子孫まで同じ名字ですが、父親の名前ということは、一代限りです。 自分の名前には父親の名前が付きますが、自分の子供には自分の名前がつくのです。ですから、祖父の名前はその時点で消えます。それが何代も続くと、自分のルーツが全くわからならくなるというわけです。 確かに、私も自分の祖父の名前までは知っていますが、それより前となると、父方も母方もわかりません。 もし日本がモンゴルと同じ方式であったら、ほんの数代で何が何だかわからなくなっていたことでしょう。 17年前の民主化で、再び名字を名乗っても良いことにはなったらしいのですが、ほとんど人は自分の名字を覚えていないそうです。そりゃあそうでしょう。 私だって明治初期のおじいちゃんの名前知ってるかと言われれば、知るわけないですから。もちろん、立派な家系の人は「わかっている」というでしょうが、そういう家系図なども処分させられたようなのです。 私は「それおかしいですよね?だってソ連だって皆名字持っているじゃないですか。なんでモンゴル人だけそうなるのですか?」と聞きました。 学科長は「一種のジェノサイドだったんだ」といつもは優しい眼差しを、グッと鋭くしながら言いました。 ジェノサイド?そう、民族抹殺です。やたら重い言葉に、ちょっとびっくりしました。つまり民族の歴史を切ってしまうということです。なるほど、もしかしてそうなのかもしれないと思いました。 この国での究極の先祖はチンギスハーンです。今もチンギスハーンの末裔を名乗る人はたくさんいると聞きます。 ある友人が「私もチンギスハーンの遠い末裔です」と言った時、私はすごく驚きました。すごーい!日本でいえば天皇家の末裔?なんて感激し、すぐに友人のBさんにその話をしました。 Bさんは笑って「そんなのその辺にたくさんいますよ。というか、モンゴル人のほとんどはそう思っているんじゃないですか。チンギスハーンには何人奥さんがいたと思っているんですか?こんなに人口の少ない国で800年もたてば、ほとんどどこかでチンギスハーンの血が入っていると思っても不思議じゃないでしょう?」と言います。 なるほど、日本の皇室などと違って、子孫やそのまた子孫らは何代にもわたって世の中に自由に生きてきたわけですから、どこかで誰かと縁があると考えた方が自然です。 つまり正統性などはないが、実質的にほとんどのモンゴル人はチンギスハーンとなんらかのつながりがあるというのは、あながち大げさなことではないのです。 そのチンギスハーンはソ連にとっては憎むべき相手、最大の侮辱を感じる相手だったそうです。モスクワ周辺を蹂躙した唯一の異民族ですから。 私の推測では、ジェノサイドとは全てのモンゴル人のチンギスハーンとの縁を切るための方策だったのではないかと考えています。そのことを学科長に言うと、「その可能性はもちろんあるでしょうね」と言いました。 旧ソ連はモンゴルの独立を助けた代わりに、その民族の歴史を抹殺しようとひどいことをやってきたのです。 伝統的なモンゴル文字を禁止し、ロシア語のキリル文字に変えさせ、さらに名字まで奪い取ったのです。これだけでも、コミュニストの人権無視、民族抹殺の姿勢がよくわかります。 80年の弾圧は長いものがあります。今では、モンゴル文字を使うのも名字を名乗るのも許されていますが、そのどちらも復活したとはとても言えません。 今のモンゴルと過去のモンゴルとが不連続になってしまうのには、こうしたわけがあるのでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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