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カテゴリ:ユーラシアの歴史
実際、トルコはモンゴルにかなりの経済援助を行っています。突厥関連の史跡がある地方には、すごく田舎であるにも関わらず、立派な道路があったりしますが、それはトルコの資金でできたそうです。
またモンゴルの中心部には、トルコ建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の像が、トルコが贈ったモニュメントと一緒にあるそうです。 ても、モンゴル人は一切そういう教育をしてない、むしろ「このモンゴル高原はフンヌ以来、ずーっとモンゴル系民族のものだった」と教わってきているので、友好的というよりは「ムカッと来る」感じなのです。 でも、正解はトルコ人の方で、モンゴル高原はずっとモンゴル系に支配されてきたわけではないのです。 モンゴル人研究者だって、さすがに突厥のことは知っていますからわかっていますが、それを国内では言いにくいというか、発表もできないのです。 私たちからすれば「同じ遊牧民なんだから、1000年以上前にトルコ系に支配されていたっていいじゃない」と思うのですが、そうはいかないのです。 モンゴルの西の端に、モンゴル国内としては少数民族であるカザフ人が住んでいます。これはいろいろ事情があって、20世紀になって住んでいる人たちです。 はっきり言って、モンゴル国内では少数民族として差別というほどではないのですが、ハルハ人(現在のモンゴル国の主要種族)からは「住まわせてやってる」的な雰囲気があります。 それなのに、チンギスハーン以前は実はトルコ系=カザフ人が支配していたなんてことになったら、「本来は、この辺はトルコ系=カザフ人の土地だったんだ」となってしまいます。 それには対しては、多くのモンゴル人が「そんなはずないだろう!」と強く拒否反応を起こしてしまうのは目に見えてます。 だから、突厥碑文は遊牧民の歴史上非常に重要であるにもかかわらず、モンゴル人研究者たちは今一つ積極的になれないのです。なったとしても、積極的に発表できないのです。 更に、歴史的事実は、もっと厳しい事実を突き出してくることもあります。モンゴルと中国が歴史的に争いが絶えないことは、このブログのご覧の方々なら大体わかると思います。 そしてその多くの場合、北の遊牧民が南の中国を襲うとか、元朝に代表されるように中国そのものを支配するという話がほとんどです。(元以外にも、実に多くの北方遊牧民が中国王朝となっています) もちろん、勝った負けたはいろいろですし、元朝が明に滅ぼされたりしたこともありましたが、その時も元朝は北モンゴル、つまり今のモンゴル辺りまで戻っただけで、完全に滅ぼされたわけではないのです。 つまり、モンゴル人の意識の中には、モンゴル高原では上記のように「トルコ系に支配されたことはない」のと同じく、「モンゴル高原で漢人系中国軍に負けたことはない」ということになっています。 でも、歴史的事実として、漢人系中国軍がモンゴル高原にまでやってきて、モンゴル系民族の軍を破った事実が判明したらどうなるのか? その時は、ちゃんとモンゴル人研究者はそれを事実としてモンゴル国内で発表できるのか?・・・ま、無理でしょうね。 モンゴルの歴史研究が進むほど、モンゴル人研究者の悩みは増えます。結果として、なかなかモンゴルにおける歴史研究がなかなか進められないということになるのです。 自国の研究のリーダーシップを取れないのは、モンゴル人研究者たちだけのせいではなく、国を挙げた歴史に対する強烈なナショナリズムが壁となっているのです。 今回の講座では、今月中にモンゴルに赴任されるという方も来られていました。しかも、この私のブログの読者の方でした。 これから寒くなりますが、モンゴルでいい思い出を作ってもらえればと願っています。 (完) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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