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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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2018.01.02
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カテゴリ:モンゴルと中国
またしてもテレビ番組を見ての感想です。

BSで中国古代史の特集を続けてやってたので、それを見ていました。ちなみに、全部再放送でした。

当然中国側の視点からの構成となりますが、やはり古代から遊牧民族との接触はかなり多かったと言えます。その中でも司馬遷についての内容が興味深かったです。

司馬遷は紀元前1-2世紀頃の歴史家で、その著書「史記」は大変有名です。かつ、司馬遼太郎のペンネームにもその名が使われるほどの人です。

ですが、正直言って、あまりその人のことは良く知りませんでした。今回、少しだけ知ることができたので、ちょっと書いてみようと思ったわけです。

司馬遷は漢の時代の人です。最初の漢なので、前漢とも呼ばれまが、この前漢は「項羽と劉邦」で有名な劉邦が作った国です。司馬遷はその七代目の武帝に仕えていました。

今となっては、「漢字」「漢人(中華民族という架空の民族ではなく、元々の中国の中心的民族)」「漢化政策」など、イメージ的には中国のオリジナルを表す言葉である漢はこの時の王朝の名前です。

以来、2000年以上にも渡って中国そのものを表す漢字となりましたが、その起源は意外なものだと知りました。劉邦は秦の天下の時の小国「楚」の役人時代、地方の閑職に飛ばされていました。

その場所が、長江(揚子江)の支流である漢水にある「漢中」という地方でした。閑職になるような場所ですから、決して国としても文化的にも中心地ではなかったのです。この時の名前を国の名前に使ったのが起源だそうです。

そして、劉邦の統一後、前漢、後漢、西漢などと名前は変えつつも、漢の時代が400年も続いたので、その後中国そのものを表す文字になったのです。

司馬遷は、元々歴史や天文を司る家に生まれたそうです。幼少より、様々な歴史書を学んだとあり、20歳前後の時は現在の江蘇省、安徽省、浙江省、湖南省、江西省などの東南を回り、更には北へ向かい山東省、河南省、そしてその後は西域まで足を延ばしたとのことです。

中国は日本の25倍の国土を持ちます。それから考えても、これらの軌跡の距離は日本一周どころじゃないんじゃないかと思える長さです。しかもこれは紀元前2世紀ごろの話です。

日本はまだ弥生時代で、やっと米を作ることが出たような時代です。卑弥呼は紀元後ですから、それよりも300-400年も前のことです。

その時代に「歴史書を読む」「史跡を訪ねて旅をする」などということができた中国の歴史の深さには、改めて凄みを感じましたね。

古事記や日本書紀ができたのは、その900年後くらいですから、「歴史書を読んで勉強する」などという行為が日本でできたのは、中国の1000年後という計算になります。いやー、確かにどう見ても当時の日本は東アジアの後進国だったのは間違いないでしょう。

司馬遷はその旅の後、22歳ころに武帝に仕えました。その頃、漢は北の遊牧国家「匈奴(フンヌ)」と国境を接し、争っていました。

当時の軍人・李陵が匈奴の捕虜になったことを武帝が責め立てたとき、誰も逆らえない雰囲気の中、司馬遷だけが「漢軍5千人、匈奴3万人の中、李陵は頑張った」とただ一人弁護したのです。

普通の英雄伝だと「さすが、誰も皇帝に物言えない中、司馬遷は言うべきことを言いきった」となり、その後の出世物語になりそうなところですが、この時代はそんな簡単な話ではないということです。


(続く)





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Last updated  2019.05.12 16:55:20
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