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カテゴリ:ユーラシアの歴史
ところが1941年に、これまたソ連邦の動きに合わせて、突然ラテン化をやめてキリル文字化に転換するという報告がツェデンバル(当時の党書記長、のちの首相)からあったのです。
当然これは決定となり、この年の6月にはキリル文字でモンゴル語を教える最初の教師258人が養成されました。そして1950年からはすべての公文書は「新文字」で書くことになりました。 面白いのは、この頃のキリル文字の表現が現代と少し違うことです。ウランバートルのように長い母音を表現するのは、現在ではУлаанбаатарとaを2つ続けて書きます。 が、1945年頃の発行物を見ると日本語のローマ字のようにĀと文字の上に横棒を書いて長母音を表していたのです。なぜこの表現ではなくなったのかは、わかりません。 この文字改革の時に内モンゴルも一緒の文字にした方が良かったのかどうか?実はこれは非常に難しい問題なんです。 まず事実としては、当時ソ連と仲が悪かった中国内では、モンゴル伝統の縦文字をロシア式に転換することは認めませんでした。 なので、現在に至るまで同じ言語を話すのに、文字がまるっきり違うという他の言語では見られないような現象が起こっています。 モンゴル国立大学外国語学部にはモンゴル語学科もあって、そこでは日本人、韓国人をはじめとする世界各国からモンゴル語を学んでいる留学生がたくさんいます。 モンゴル語の能力別にクラス分けがなされているのですが、一番驚くのが「完全にペラペラなのに、一番下の初心者コース」クラスに入っている人たちが何人もいることです。さて誰でしょう? それは内モンゴル人です。彼らにとっては国籍は中国とはいえ、言語のネイティブはモンゴル語です。 チャハルの方言でハルハ語(現在のモンゴルの標準語)と違う部分が多少あるとしても、ペラペラはペラペラです。ですが、キリル文字が全く読めないので、初心者コースにいるのです。 ほとんどの生徒が「サエンバエノー」くらいしか話せないのに、早口でペラペラと先生に質問する「初心者生徒」は非常に違和感ある存在だと言わざるを得ません。 キリル文字への転換から半世紀後、ソ連邦は崩壊し、モンゴルは1990年から民主化運動がおこり、1992年に新憲法のもと民主化は完成しました。そこで再びこの文字に関する改革が話題になったのです。 1989年の暮れからペレストロイカがモンゴルでも始まりました。なんと1990年1月の新聞には「今年の新学期から小学校の教科書はモンゴル文字で出版しよう」とあったそうです。 そして実際にキリル文字表記からモンゴル文字表記への全面的な切り替えが計画され小中学校での教育が始まりました。 ですが、一般国民の間では歴史と伝統・文化の象徴と見なされてはいるものの、「モンゴル文字」イコール「話しことばとは無関係の文語」というイメージが定着してしまっています。 なんとなく、日本人にとっての古文や漢文みたいに「勉強はするけど、普段は関係ない」という感じでしょうか。 また横書きができないという(現代においては致命的ともいえる)弱点を抱えていることもあって、今となっては日常的にはほとんど使われない文字となっているのが現状です。 現実的には、現在はパソコンも携帯も、キリルかラテン文字を使うのが多いです。 また発音などもキリル文字と縦文字とは違うようで、70年近くも使われてきた文字を自由主義(独裁者の命令ではない、という意味)の中で切り替えることは難しいと思います。 文字を切り替えるということは、自国の文化遺産を放棄するようなものですから。 公文書や小説、歴史書さらには流行歌の歌詞まで、20年後30年後の人たちが完全に読めなくなることを考えると、縦文字への完全切り替えはほとんど不可能ではないでしょうか? (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.05.01 15:32:15
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