田崎正巳のモンゴル徒然日記

2019/07/15(月)23:27

ノモンハン戦争80周年シンポジウム(2)

モンゴルの近現代史(20)

田中先生は、ホワイトボードにハルハ河付近の見取り図を書きながら説明されました。 以下、先生のお話の骨子を私の理解と合わせてまとめます。ハルハ河戦争(ノモンハン事件)に関心がない方も、日本とモンゴルに縁のある方は是非とも頭の隅にでも入れておいてください。 まずは、名称から。ご存知の通り、日本ではノモンハン事件、モンゴルではハルハ河戦争と呼びます。 日本側が「事件」と呼ぶのは、建前上は「正式な宣戦布告をしていないから」ですが、本音は「関東軍が勝手に起こしてしかも大失敗したので、責任を逃れるためにいかにも軽い国境紛争に見せかけるために「大したことありません。ちょっとした事件です」みたいな感じで命名した」というところです。 この名称の違いが、実はこの戦争(当たり前ですが、両軍合わせてわずか3か月ちょっとで4万人以上も死んだのですから、大きな戦争です)の原因でもあるのです。 ノモンハンというのは、ハルハ河よりも東、つまり満洲寄りにある地名で、ノモンハニー(ノモンハンの)・ブルト・オボーのことです。 オボーとは、モンゴルの交通の要所などにあるあのオボーです。ノモンハンのノモンは元々はお経などに由来する言葉で偉い僧侶のことで、ノモンハーンというのは法王と訳すのがいいようです。 今ではノミン(本)というモンゴル語で一般的に使われています。当時、モンゴル側はこのオボーを起点とする線を国境と見なしていたのです。 一方の満州国(イコール日本人)は「国境とは通常河や山であるのが常識」ということで、ノモンハンより西側20キロにあるハルハ河を国境と解釈していました。この20キロの違いが、大きな犠牲を強いる戦争につながったのです。 ハルハ河のあるドルノド県は、モンゴルの中でも大草原で有名な地域です。とにかくまっ平らな草原が延々と続く地です。そこは首都から1000キロ近くも離れた、のんびりとした遊牧民が暮らす土地でした。 当然、家畜もたくさんいます。ある時、馬がハルハ河に水を飲みに来ました。そしてその馬が、ハルハ河の向こう岸へ渡ったんです。 なので、遊牧民はその馬を追いかけてハルハ河を渡りました。現地へ行っていればわかりますが、それはそれはなーーんにもないところですから、馬が河を渡るのも自然なことですし、牧民が馬を追うのも生業として当然です。 遊牧民だから国境なんて知らない、という説を唱える日本人もいますが、それは違います。遊牧民は、我々には目印もわからないような大草原でも、昔から「境界線」は意識してきました。 その時は、ハルハ河からは国境のノモンハンまで20キロも離れているのですから、何の問題もなく河を渡ったということです。 が、日本軍はそれを「国境侵犯だ!」と騒いで、無防備の遊牧民を攻撃したのです。要するに殺したってことです。 これをきっかけにノモンハン戦争がはじまりました。私は満洲事変やその後の日本軍のやり方を見ても、「これは難癖付けるいいチャンス」とばかりに、陸軍本部には内緒で関東軍が勝手に攻撃したのだと確信しています。 ここからのその後の経緯を書きだすと、とても本章では対応できないので、いつか別の形で皆さんにお届けしたいと思います。 ただ、田中先生が指摘された重要な点を一つ書きます。それは、バルガ族の存在です。バルガ族というのは、主としてロシア領内にいたブリヤード・モンゴル人がロシア革命などで難を逃れて満洲北部に南下したモンゴル人の部族です。 モンゴル人には多くの部族がいますが、今のモンゴル国の人口の8割を占めるのはハルハ族です。なので、このノモンハン付近はハルハ族とバルガ族の部族境界線だったのです。 境界線とはいっても、同じモンゴル人、同じ遊牧民同士ですから、お互い親近感があり、とても憎み合って殺し合う関係ではありませんでした。会えば一緒にたばこで挨拶する(モンゴル人は匂いたばこで挨拶する)関係でした。 しかしながら、ハルハ人の後ろにはソ連が、バルガ人の後ろには満洲国・日本がいて、ソ連、日本両国とも「モンゴル人同士が仲良くなるのは絶対に認めない」という立場でした。 通婚もしていましたから、親戚もいたことでしょう。ですが、ノモンハン戦争ではこの両モンゴル人部族が駆り出され、「嫌々ながらも」お互いに殺し合うという悲劇が起きたのです。 ノモンハン戦争は、小さな領土問題を大きな戦争にしてしまっただけでなく、友好的であったモンゴル人部族同士をも引き裂いてしまった、とんでもない戦争なのです。 悲劇は続き、当時モンゴル側(ハルハ族とソ連人)と満洲側(バルガ族と日本人)が接触したり、話し合いの場を持ったりもしたのですが、その場にいたハルハ人とバルガ人のほとんどは、その後ソ連と日本によって処刑されたのです。 敵を殺したのではなく、味方(ハルハ人をソ連が、バルガ人を日本が)が殺したのです。なぜなら「敵同士の場なのに、お互い和気あいあいと仲良さそうにしていたから。」要するにスパイ容疑で銃殺されたのでした。 このような、なかなか日本国内では語られることがない視点を持つ田中先生ならではの話がたくさん出て、皆聞き入ってました。 (続く)

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