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カテゴリ:モンゴルの近現代史
いよいよ、本当の戦場跡地です。
前日行ったところも本当の戦場跡地なのですが、ほとんど痕跡は残っていませんでした。 が、今日訪れたのは「屋外ハルハ河戦争跡地保存時域」とでも言うべき、80年前の戦争の爪痕を今日に伝える場所なのです。 まずは入口です。 この一帯の案内図です。 よく見ると、車や飛行機などの絵が描かれているのが見えます。ここにはこうした残骸が残っているということです。 入ってすぐに目についたのは、掘立小屋です。 これはソ連・モンゴル軍の基地だったところです。 草原の中のくぼんだ場所にありました。80年前の木造にもかかわらず、しっかりと残されていました。中に入っても、3‐4人は動けるスペースがありました。 このソ・モ連合軍基地から見える光景がこれです。 写真中央に二本の柱が立っているのが見えます。ここが日本側の陣地でした。 まさに、ほんの数百メートルしか離れていない感覚で対峙していたのがわかります。鉄砲でも大砲でも簡単に届きそうな距離です。 対する日本軍の基地はどうだったのでしょうか?木造建築なら日本の方が優れていそうですが・・・ これだけ?はい、これだけです。 いわゆる土豪です。ちょっと穴掘って、木の柵みたいなので土を押さえているだけ。はっきり言って、ほとんど無防備と言えばその通りです。 いろんな書物を読むと、彼我の戦力の差は歴然としており、1:10どころか1:100くらいの差だったようです。 例えば、ソ連の戦闘機100機に対して日本側3機とか。日本側は高性能で、1機で3機や5機を相手に撃ち落としたとありますが、だから何だというんでしょうか?勝てるはずありません。 戦闘機の残骸です。 これはソ連製だそうです。 同行した日本人の中に自動車や機械のエンジニアの方々がおられて、「80年前でこんな素材を使っていたのか!」と日本との差を説明してくださいました。 翼にアルミを使い、軽量化を図っていたとのこと。80年前はソ連の方が技術的にずっと進んでいたのでしょう。 飛行機の残骸は、あちこちにありました。日本側のはもともと少ないせいか、見当たりませんでした。 車もありました。 オープンカーで、恐らくフォルクスワーゲンのビートルのような形をしていたのではないかと推測されます。 驚くことにサスペンションなどもしっかりしていて、とても80年前から放っておかれた状態には見えませんでした。 これは日本軍の車のようです。メーカー名も全く分からないほど、朽ち果てていました。 このブログだけではお伝えきれないほどの大量の残骸が残っていました。 こんな薬きょうもそこら中に落ちていました。鍋釜などの生活用品や小型の武器のなどもありました。 が、当然のことながら物量的には圧倒的にソ・モ連合軍の方が多く、日本側には情けないような軽量品(飯盒や虫よけの網を付けた帽子とか)しかありませんでした。 ノモンハンのことを書いた本の多くには「重火器で装備したソ連軍」と「竹やり装備の日本軍」みたいに書かれていましたが、本当にそうなんだと思うばかりです。 こんな遠い戦場にも日本人の遺族の方々が訪れていた跡がありました。 実はロシア側の慰霊碑もあり、それは大きくて立派です。しかも、とても綺麗に清掃され、生花が供えられていました。遺族を思う気持ちには、国の違いはありません。 今回訪れて思ったのは、こうした戦場跡地は「たまたま残っていた」わけではないということです。 モンゴル側がロシアと共同で意図的にこの地を整備し、保存してきたのです。なので、ハルハの他の地域にあった残骸をこの保存地域に移動させて置いたというのもあるそうです。 この地に、日本人がモンゴル人の案内で訪れる平和な今に感謝せずにはいられません。 モンゴル人は他の東アジアの国々とは違い、戦争結果を政治や資金援助の駆け引きに使おうという人たちではありません。 社会主義時代には「反日思想」が教育されましたが、それを今も引きずっている人も見当たらないほどの親日国家です。昔を共に悲しみ、思いをはせてくれる人たちでした。 ここは日本人として感謝しないといけないと思います。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.07.24 12:04:17
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