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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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島田隆の天職相談室 しまりゅう52さん

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2019.07.16
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ノモンハン戦争の戦場跡地訪問も終了しました。


DSC_0226.JPG

  • 今も80年前と同じ姿の、のんびりした馬たちの姿です。


    来るときにチョイバルサン空港から11時間もかかったので、明日は早朝4時出発です。

    前日はハルハ河現地での宿泊で、ほとんど満足な食事とは行きませんでしたが、今晩は最後の晩餐ということでご馳走が出ました。


    IMG_1181.JPG

  • ホルホグです。羊の肉を丸ごと熱した石で野菜と一緒に蒸し焼きにしたものです。ウランバートルではなかなかお目にかかれない豪勢な料理です。




    今回のハルハ訪問には、チョイバルサンから大変重要な人が合流してくれました。


    IMG_1182.jpg

  • バルガ族のトゥメンウルジーさんです。


    バルガ族と言うのはモンゴル族の一つの部族です。今のモンゴル国の多くはハルハで、南モンゴル(内モンゴル)にはチャハルが多いですが、この2つの集団以外にも多くの部族があります。

    バルガ族はロシア革命などで難を逃れてホロンボイル高原に南下してきたブリヤード人らがその先祖とされています。

    モンゴル族のアイデンティティは、モンゴル語(もちろん、方言は多い)を話すことと、遊牧・狩猟などを生業とする人たちです。

    ノモンハン戦争の時はハルハ河より西のモンゴル国側にはハルハ族、東の満洲国側にはバルガ族が住んでいました。

    その背後の支援勢力がソ連と日本だったのです。ソ連と日本はお互いを敵視していましたから、戦おうが何しようが問題ないのですが、ハルハとバルガはともにモンゴル人です。

    このことが、戦争そのものよりも大きな悲劇を生みました。要するに、お互いモンゴル人同士ですし、通婚もあったようです。憎み合う理由もなければ、殺したいなんて思うはずもありません。

    むしろ当時の「モンゴル人全体」としていれば、できれば仲良くなりたい、ロシアや中国にバラバラにされた民族をもう一度一緒に一つになりたい、という願望があったのです。

    同時にこの「汎モンゴル」の思想に対しては、中国もソ連も、日本までもが「危険な考え方。絶対に阻止しないといけないこと」との共通の危機感を持っていたことが、更なる悲劇につながったのです。

    ハルハ族がバルガ族と会って、少しでもニコニコして和やかな雰囲気を持ったら、ソ連は「危険人物。スパイ」と見なしました。ソ連だけではありません。日本人も同じ考え方を持っていました。

    当時は「スパイかもしれない」イコール「粛清」、つまり処刑を意味しました。事実、たくさんのハルハ人とバルガ人が殺されたのです。敵国ではなく、自分たちを「保護」する国によって。

    恐らく遊牧民らしい穏やかな挨拶をしたことでしょう。「サエンバエノー」と言いながら、匂いたばこを交換したかもしれません。それら遊牧民としての当たり前の行為は、ソ連と日本から見たら「危険な行為」となったのです。


    そんな背景を持つバルガ族のトゥメンウルジーさんです。ご両親は第二次大戦後、中国化する満洲を逃れて「モンゴル人の国」モンゴル人民共和国へ逃亡してきました。


    IMG_1185.JPG

  • この写真のご両親は、モンゴルに入った後、「日本のスパイ容疑」で殺されました。

    もちろん、ハルハ人がバルガ人を憎んで殺すことはあり得ません。当時のモンゴルにはほとんど主権がなく、すべてはソ連の言いなりでした。モンゴルの首相さえも簡単にソ連により殺されていた時代です。

    トゥメンウルジーのお兄さんは、ノモンハン戦争で満洲国側の戦士として活躍したそうです。その後、モンゴル人民共和国に渡りましたが、結果はご両親と同じで、粛清されました。

    幼かったトゥメンウルジーさんだけが生き残ったのです。

    まさに「中国内に残って、漢人によるモンゴル人粛清」にあうか「モンゴル国に逃亡してスパイ容疑で処刑されるか」、行くも地獄、残るも地獄しか待っていなかったのが、当時のバルガ族だったのです。

    実は、ノモンハン戦争の戦場で亡くなったモンゴル人(ハルハとバルガ)よりも、その前後でソ連人や満洲国(つまり日本人)の手で粛清された人数の方が多いという事実があります。

    この流れは、社会主義時代のモンゴル国の粛清、南モンゴル(内モンゴル)におけるモンゴル人の大量殺戮にもつながる思想がベースにあるのです。

    この話は、別の日にまた本ブログで書きたいと思っています。

    今回この場で、互いに戦争をしたモンゴル人と日本人が仲良くなれて平和になったことを喜ぶだけでなく、厳しい運命を背負わされたバルガ族の彼が同じ場にいてくれたことに、私は本当に感謝しました。

    トゥメンウルジーさんは、日本人にもハルハ人にも言いたいことは山ほどあるでしょうけど、終始穏やかでニコニコしておられたのが印象的でした。ちなみに彼は苦労して勉学し、その後モンゴルの国会議員にまでなったのだそうです。




    翌朝4時のキャンプ地です。


    IMG_1189.JPG

  • 曇りが多かったですが、なんだか最終日は晴れそうな感じでした。



    早朝の草原です。


    DSC_0227.JPG

  • どこまでも続く草原。




    ようやくゲルが見えました。


    DSC_0230.JPG

  • 写真左に小さく数軒のゲルが見えます。写真中央右の黒いのは犬です。あのゲルから朝の散歩に出ているのでしょう。



    何やら異様な人工物が見えます。


    DSC_0238.JPG

  • 手前だけでなく、遠くにも大きな建機のようなものがいくつも見えます。


    近づいて見ると。


    DSC_0234.JPG

  • 大きな掘削機械です。

    これは石油の掘削をしているのです。実はソ連時代からモンゴルのここドルノド県では石油が埋蔵されていることはわかっていました。

    今ここで石油を掘っているのは中国企業です。掘った原油は全量中国へ送られて、そこで精製されます。モンゴルでどんなに石油が採れても、ガソリンは輸入するしかないのが現状です。



    旅の途中、ずっと曇天が続いていましたが、遂に晴れました。


    IMG_1197.JPG

  • やっとモンゴリアンブルーに巡り合えました。

    今晩なら満天の星が見れるだろうなあ、と心で思いながらハルハの地を後にしました。


    (完)





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    Last updated  2019.07.25 15:52:55
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