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カテゴリ:モンゴルの近現代史
9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。
http://www.shuud.mn/a/512099 http://www.shuud.mn/a/512139 モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。 モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは2回目です) 以下、掲載します。 私は経営コンサルタントであり、歴史家でも民族学者でもありません。が、モンゴルに関連する本は、南モンゴル(内モンゴル)、チベット、ユーラシア(テュルク系)を含めると数十冊(40~50冊)は読んできました。 もちろん、日本人以外が書いた本も含まれます。これらを通して私が知ったことと、田中先生の本や教えで学んだことをベースにハルハ河戦争に関わるモンゴルの歴史の一部分を書いていきたいと思います。それは特に、今の若いモンゴル人に知ってもらいたいという願いを込めています。 1939年に起こったハルハ河戦争の詳細な経緯などについては、モンゴル人の皆さんは既にご存知でしょうから、そうした時間的経過は省きます。まず申し上げたいのは、当時のモンゴル人の立場です。 当時のモンゴル(モンゴル人の住んでいた主な地域)は大きく4つに分けられます。一つは、モンゴル人民共和国、つまり今のモンゴル国です。二つ目は、ブリヤード・モンゴルなど、ソ連邦の領土となったモンゴル人の住居地域です。 三つ目は、中華民国(まだ共産党の国ではありませんでした)領土の南モンゴル(内モンゴル)、四つ目は、満洲国内のホロンボイル高原に住むモンゴル人住居地域です。 歴史的に見れば、モンゴル人はアフガニスタンにもカスピ海や黒海周辺にもいましたが、大きな塊として遊牧をしながら存在していたのはこの4つの地域と言えます。 それぞれの地域のモンゴル人たちは、残念ながら「全く自由で自主独立していた」とは言えない状況でした。モンゴル人民共和国はソ連の傀儡(かいらい、あやつり人形)政権であり、ほぼソ連の言いなりでした。モンゴル人としてのプライドと自主性を持って発言した歴代首相がソ連に「粛清」されたのは、皆さんご承知の通りです。 ロシア領土内に住むブリヤード・モンゴル人は1689年のネルチンスク条約によりロシア領となり、1923年にブリヤード・モンゴル・ソビエト社会主義共和国となったので、完全にソ連の統治下にありました。 南モンゴルは中国内では内モンゴルと呼ばれ、漢人の弾圧にさらされていました。そして満洲国内のモンゴル人(バルガ系、ダグール系)は、満洲国すなわち日本人の統治下にありました。 ここでモンゴル人として知っておかなくてはならないのは、1930年代のモンゴル人はこうした4つの地域に分断されていたということです。現在のモンゴル国の人の多くはハルハ族です。 ハルハの人からすると、チンギスハーン時代を別にすれば「モンゴルは元々今のモンゴル国の領土にいた」と考える人もいますが、それは違います。 それはハルハ人としての視点であり、モンゴル人として考えれば4つに分断されていたのです。しかも、その分断された地域を実質的に統治していたのはモンゴル人ではなく、ロシア人、中国人そして日本人という当時の東アジアの強国でした。 多くの歴史書物は、ロシア人や中国人的視点で書かれていますから、「モンゴルという少数民族をどう支配するか」という視点で書かれていますが、我々モンゴル人の視点で考えれば当然の結論・疑問が出るはずです。 それは「なぜモンゴル人は分断させられなければならないのか?しかも分断された上に、民族としての自由がないのはどうしてか?」という疑問、そしてその先には「モンゴルは一つになるべきだ。この4つの地域にまたがるモンゴル人の国を作りたい」ということです。 1930年代は帝国主義の時代で、東アジアでもソ連は中国を敵視し、中国と日本も満洲国設立で対立していました。ソ連も満洲国を契機に、日本を敵視していました。つまり、モンゴル民族を支配する3つの国々は非常に仲が悪かったのです。 ですが、たった1点だけ共通点がありました。それは「モンゴル人は分割したままがいい。モンゴル人を一つにまとめてはいけない」ということです。ここにモンゴルの悲劇がありました。 中国では「三蒙統一」という言葉があり、これを危険な思想と見なしていました。三蒙とは、内モンゴル、モンゴル人民共和国そしてソ連内にあるブリヤード、トバ、アルタイ地域のことで、この3つの国にまたがるモンゴル民族のことを三蒙と言います。 この3つが統一し、大モンゴル帝国が復活することを悪夢と見なし、絶対に阻止しなければならないこととされてきました。それは、孫文の中華民国も毛沢東の中国共産党も同じ考えです。 ソ連は「パン・モンゴリズム」という考えを言い出し、それは大変危険なことだと主張しました。基本的には、三蒙統一に反対する漢人と同じです。 日本は満洲国を1932年に作りましたが、その際に「五族協和(Five Races Under One Union)」という言葉を使い、日本人、朝鮮人、満洲人、モンゴル人、漢人の5つの民族が協調して暮らせる国を目指しました。が、モンゴル人を他の地域に住むモンゴル人と一緒にするという発想は当然ながらありませんでした。 各地に散らばった当時のモンゴル人リーダーたちは、モンゴル人だけの手でモンゴル統一を実現できるとは思っていなかったので、当時は「強国をうまく利用して、最終的にはモンゴル人の独立した統一国家を創る」という目標を持っていました。 ロシア人を利用して、中国や満洲のモンゴル人と一緒になると考えた人もいましたし、漢人を利用してそれを実現しようとする人もいました。もちろん、日本人の後ろだてを得て、モンゴル統一を夢見るモンゴル人もいました。 そして、各強国はモンゴル人のそうした願望を分かったうえで、口では「モンゴル民族の独立と統一を応援する」と言いながら、モンゴル人を大いに利用して分断をさらに進めていったのです。 1923年にブリヤード・モンゴル・ソビエト社会主義共和国が誕生しましたが、ソ連は1937年にはブリヤード自治ソビエト社会主義共和国と改名しました。 それは「ブリヤード人がモンゴル人と同じ仲間だという意識を持たせないため」だったのです。今のハルハ人には「ブリヤード人は私たちとは違う。あまり関係ない。」と思っている人が多いですが、それはソ連の分断政策の影響なのです。 1923年以前は、国境と言ってものんびりしたものでした。遊牧民にとっては人工的な国境なんて意味ありませんから、当たり前のように国境を越えて、向こう側に住む友達や親せきを訪ねて行っていました。 しかし、近代国家となるに従い、国境が明確な意味を持つようになり、ちょっと超えただけで「国境侵犯」と騒がれるようになったのです。すべては、大国が決めたことで、モンゴル人にとっては国境なんてどうでも良かったのです。 こうした変化があったのが、1930年代でした。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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