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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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島田隆の天職相談室 しまりゅう52さん

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2019.09.08
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9月3日、4日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。
http://www.shuud.mn/a/512099
http://www.shuud.mn/a/512139

モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。

モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは4回目です)

以下、掲載します。

DSC_0181.JPG


  • ハルハ河へ出発する前日に、ウランバートルのシャングリラホテルでパーティがありました。その時はモンゴル初代大統領のオルチバトさんや田中克彦先生にゆかりのあるモンゴル人の方々が出席されました。

    そこでのオルチバト元大統領ツェベルマー夫人発言には強い印象が残りました。それは「私の父はハルハ河戦争に参戦しました。けれどもモンゴル人は戦いたくなかった。日本人と戦うのを好まなかった」と言うのでした。

    • IMG_1034.jpg


    その後、田中先生の本などで調べた夫人の発言の要旨やその背景は以下の通りです。

    現代史のモンゴル歴史家であるS.バートル氏は次のように述べています。
    「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところがこの戦争に先立つ1年半の間に、「国家反逆罪」で有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数にのぼった。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけとって見ても、19,895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる。」

    つまり4か月にわたるハルハ河の戦場で失った全兵隊をはるかに上回る数のモンゴル人が、平和な日に殺されていたという現実があったということです。

    なぜそれほどまでにモンゴル人が戦争以外で殺されなければならなかったのか?ここに先の項で述べた「三蒙統一の阻止」や「パン・モンゴリズムの阻止」につながることなのです。

    満洲国建国当時、満洲の北西部のホロンボイル高原にはバルガ族やダグール族が遊牧民として住んでいました。ホロンボイルというのは、ホロン湖(フルン湖)とボイル湖(ブイル湖)のある一帯の高原地帯で、この当時の満洲国、現在の南モンゴル(内モンゴル)にあります。

    バルガ族というのは、もともとはロシア内のブリヤード族に起源を持っており、ロシアがシベリアに支配を広げる中、それを嫌って南下し、ハルハ族の領地内に入り込んできた人たちです。その後清朝の配慮により、現在のホロンボイル高原に住むようになったのです。

    歴史的に見れば、現在のモンゴル国、内モンゴルであるホロンボイル高原(バルガ族居住区)、そしてシベリアのブリヤードはすべてモンゴル人居住区で、自由に行き来していたのです。

    そこにロシア帝国の進出により、清朝との国境ができ、人為的に分割されてしまったのです。ただ、1689年のネルチンスク条約や1727年のキャフタ条約の頃は、土着のモンゴル人遊牧民らの移動を決定的に妨げるものではなかったのです。

    DSC_0196.JPG


  • せいぜい「ハルハ族」と「バルガ族」のモンゴル人同士の「部族的境界」のようなものでしかありませんでした。なので親戚を訪ねていくとか、時々国境付近で会って挨拶するということも珍しくはなかったのです。

    しかしながら、20世紀になるとモンゴル人民共和国の樹立(1921年)、満洲国の建国(1932年)などにより、それまでの「族境」が近代国家としての「国境」に変わったのです。近代国家になるとともに、ハルハ族、バルガ族は容易に会うことが許されない関係になっていきました。

    そして、ノモンハン戦争の時はハルハ河より西のモンゴル国側にはハルハ族、東の満洲国側にはバルガ族が住んでいました。その背後の支配勢力がソ連と日本だったのです。

    ソ連と日本はお互いを敵視していましたから、戦おうが何しようが問題ないのですが、ハルハとバルガはともにモンゴル人です。要するに、お互いモンゴル人同士ですし、憎み合う理由もなければ、殺したいなんて思うはずもありません。

    むしろ当時の「モンゴル人全体」としていれば、できれば仲良くなりたい、ロシアや中国にバラバラにされた民族をもう一度一緒に一つになりたい、という願望があったのです。

    同時にこの「パン・モンゴリアリズム」の思想に対しては、中国もソ連も、日本までもが「危険な考え方。絶対に阻止しないといけないこと」との共通の危機感を持っていたことが、更なる悲劇につながったのです。

    ハルハ族がバルガ族と会って、少しでもニコニコして和やかな雰囲気を持ったら、ソ連は「危険人物、スパイ」と見なしました。ソ連だけではありません。日本も同じ考え方を持っていました。

    当時は「スパイかもしれない」は即「粛清」を意味しました。恐らく遊牧民らしい穏やかな挨拶をしたことでしょう。「サエンバエノー」と言いながら、匂いたばこを交換したかもしれません。それら遊牧民としての当たり前の行為は、ソ連と日本から見たら「危険な行為」となったのです。

    ハルハ河戦争は1939年に何もなかったところに突然戦争が起きたわけではありません。その5年前くらいから、モンゴルと満洲との国境付近では小規模の小競り合いがありました。

    これを機に、モンゴルと満洲の国境を画定すべくモンゴル・ソ連・満洲・日本による「マンチューリ会議」が何度も行われたのです。そして1935年の第1回目会議の時から国境の認識が両陣営で異なることもお互い認識していました。

    なので、この会議がうまくいっていれば、もしかしてハルハ河戦争はなかったのかもしれません。第1回のマンチューリ会議に出席したのは、モンゴル側はG.サンボ-全軍総司令官副官など7名の代表が出席し、満洲側も日本人以外にもバルガ族の代表も出席しました。

    DSC_0188.JPG


  • ソ連と日本の目的は明確でした。国境を画定して、無駄な争いを防ぎたいということと、できるだけ国境は自軍に有利な場所に確定させたいということです。

    しかしながら、ハルハ族とバルガ族のモンゴル人にとってはどうでしょうか?ソ連や日本に支配されてしまい、喧嘩をしたいわけでもないのに同じモンゴル人同士で敵対的な関係になっています。

    本来はこのあたりの土地は、ソ連とも日本とも関係ない、モンゴル人の土地なのです。彼らの一番の願いは、国境画定なんかじゃありません。分断されたモンゴル人同士が一体化することです。

    近代国家になってからは、お互いに会うことすらできない関係でした。それが会議とはいえ、お互いの指導者と会うことができるのです。お互いの統合を探り合う大きなチャンスでした。

    結果は?第1回のマンチューリ会議に出た7名はその後全員「日本のスパイ」だという容疑で全員処刑されました。更にG.サンボーの後任の代表もモンゴル軍の最高統率者も殺されました。

    結局、ハルハ河戦争勃発の1939年5月までに、反ソ、反革命、日本の手先との罪状で、20,474人が銃殺されました。当時のモンゴルの人口を70万人とすると、恐るべき大量殺人であったのです。これが冒頭のツェベルマー夫人の怒りの発言の中身です。

    (続く)






  • Last updated  2019.09.08 16:10:53
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    Re:モンゴル人に向けた「ハルハ河戦争跡、訪問記」(4)(本当の加害者は誰か?)(09/08)   七詩 さん
    おそらくは優秀層、指導者層を中心に2万人の粛清ですか。70万のうちの2万だとしたら大変な数です。その昔、モンゴルの支配を受けたロシア人にして見ればモンゴル人が恐ろしかったのかもしれません。自分らが支配しているうちに、できるだけ弱体化させておきたい。タタールの軛など二度とないように… (2019.09.08 20:43:58)

    Re[1]:モンゴル人に向けた「ハルハ河戦争跡、訪問記」(4)(本当の加害者は誰か?)(09/08)   モンゴル2008 さん
    七詩さん、ありがとうございます。
    はい、おっしゃる通りです。ロシア人はモンゴル人が怖いのです。なので、なので分断されたモンゴル人が一つにまとまることを極度に恐れていました。その口実に、満洲や日本との対立が利用され「日本のスパイ容疑」という便利な犯罪が生み出され、利用されたのです。
    そんなロシア人が作り上げた「モンゴルの歴史」はひどいものばかりなので、私は今回の寄稿で少しでもモンゴルの若者に知ってほしいと思ったのです。
    (2019.09.08 21:54:56)

    Re:モンゴル人に向けた「ハルハ河戦争跡、訪問記」(4)(本当の加害者は誰か?)(09/08)   じょんたのおばあちゃん さん
    粛清と聞くとスターリン、ですがこの時もスターリン本人ですよね。国内外で殺させまくっていたということになりますね。「スパイ容疑」というのは都合のいい罪名で、要するに疑心暗鬼になっている独裁者が相手を知ろうとする努力さえ怖くてできないから手っ取り早く処分してしまえということでしょうか。

    「モンゴル人が団結すると13.14世紀の悪夢が再現されてしまう恐れがある」、と言う根拠は当時の情報の乏しさからくるのかも、と思いました。
    それにモンゴルのあの広大な土地に馬を駆って、遊牧で生きて行ける人たちが不気味だったのかな、と思いました。
    日本の隣国には国際法など無視して色々ふかっけてくる国もありますが、
    そう言う分かりやすい(^^;)態度と違って、モンゴルという国の計り知れない大きさを怖がったのかな、と思ったり、
    あるいはもっと具体的に埋蔵地下資源の豊富さに目をつけていた?
    などと、自分の乏しいモンゴル観で考えてしまいます。

    この続きが待ち遠しいです。 (2019.09.09 09:11:38)

    Re[1]:モンゴル人に向けた「ハルハ河戦争跡、訪問記」(4)(本当の加害者は誰か?)(09/08)   モンゴル2008 さん
    じょんたのおばあちゃんさん、ありがとうございます。
    はい、おっしゃる通りスターリンです。モスクワの大幹部まで殺されて行時代ですから、モンゴル人を殺すにはなんのためらいもなかったのでしょう。
    13,14世紀でモンゴルの影は会消えたわけではありません。モンゴル帝国後もユーラシア大陸各地に、正当な支配者であることを示す「XXハーン」と名乗る支配者が続いていたので、間接的にはモンゴルの影響は続いていたのです。「タタールのくびき」をはじめとしたモンゴル人への恐怖や憎悪は大きかったんだと思います。
    モンゴルの地下資源は大した材料ではありません。それよりは、潜在的な最大の敵国中国と隣接するモンゴルを緩衝地帯として完全にコントロールできるようにしたかったのだと思います。
    (2019.09.09 10:45:08)


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