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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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島田隆の天職相談室 しまりゅう52さん

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Mei@ Re:ブログ休載中(09/03) お大事になさってください。ブログの再開…
あくつ@ Re:ブログ休載中(09/03) お大事にしてください。 再開を楽しみにし…

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2019.09.09
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9月3日、4日、9日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。
http://www.shuud.mn/a/512099
http://www.shuud.mn/a/512139
http://www.shuud.mn/a/512266

モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。

モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは5回目です)

以下、掲載します。


ホロンボイル高原に住むバルガ族のことは前項で書きました。バルガ族と言うのはモンゴル族の一つの部族です。今のモンゴル国の多くはハルハで、南モンゴル(内モンゴル)にはチャハルが多いですが、この2つの集団以外にもモンゴル人には多くの部族があります。

IMG_1137.JPG


  • バルガ族はロシア革命などで難を逃れてホロンボイル高原に南下してきたブリヤード人らがその先祖とされています。モンゴル民族のアイデンティティは、モンゴル語(もちろん、方言は多い)を話すことと、遊牧・狩猟などを生業とする人たちと言われています。

    ハルハ河戦争当時は、モンゴル国のハルハ人はソ連による家畜の国有化や協同化により、徐々に伝統的な遊牧民の姿が変わりつつありました。また南モンゴル(内モンゴル)の人たちは、漢人による遊牧地への進出、農地化などで徐々に伝統的な遊牧生活を続けることができなくなっていました。

    なので、この頃のモンゴル民族の中ではバルガ人が最も伝統的な遊牧生活をしていたと言われています。今の中国の内モンゴルですが、当時はホロン・ボイル高原は満洲国の一部になっていたからです。

    満洲国は建国精神が五族協和(満州人、モンゴル人、漢人、朝鮮人、日本人)であり、実質的には日本人が支配していたとはいえ、モンゴル人に対しては特別な自治を認めていました。

    政治的、軍事的独立はもちろんありませんが、生活様式としての遊牧生活はかなり保証されていたのです。

    ハルハ河戦争、第二次世界大戦を経たホロン・ボイル高原に対する統治はすっかり変わってしまいました。それは中国共産党の出現です。共産党の支配下となった内モンゴルは苦難の道を歩みます。

    当初はモンゴル人との融合を重視し、自治の約束を口にしていた中国共産党も、一旦権力を握ってしまうと、様変わりしました。内モンゴルで何十万人ものモンゴル人が殺されました。もちろん理由は何でもいいのです。

    が、最も使われた罪は「日本人のスパイ」だったのです。日本留学組の優秀なモンゴル人はほとんど捕らえられ、処刑されました。

    IMG_1144.JPG


  • 日本人のモンゴルに関する小説や書物の第一人者であった司馬遼太郎さんのモンゴルでの通訳を務めたツェベクマさん(司馬遼太郎の「草原の記」の主人公)をビデオで見ましたが、ロシア、満洲、中国そしてモンゴルと国籍を変えながら生き延びてきた姿に、この頃のハルハ以外のモンゴル人の厳しい状況がよくわかりました。

    中国共産党にとっては、日本語を話せるだけでスパイ容疑で捕まえるような時代でした。

    今回のハルハ訪問には、チョイバルサンから大変重要な人が合流してくれました。それはバルガ族のトゥメンウルジーさんです。

    ご両親は第二次大戦後、中国化する満洲を逃れて「モンゴル人の国」モンゴル人民共和国へ逃亡してきました。ですがご両親は、モンゴルに入った後、「日本のスパイ容疑」で殺されました。ハルハ人の手で。

    IMG_1183.JPG


  • もちろん、ハルハ人がバルガ人を憎んで殺すことはあり得ません。当時のモンゴルにはほとんど主権がなく、すべてはソ連の言いなりでした。モンゴルの首相さえも簡単にソ連により殺されていた時代です。

    トゥメンウルジーのお兄さんは、ハルハ河戦争で満洲国側の戦士として活躍したそうです。その後、モンゴル人民共和国に渡りましたが、結果はご両親と同じで、殺されました。なので、幼かったトゥメンウルジーさんだけが生き残ったのです。

    まさに「中国内に残って、漢人によるモンゴル人粛清」にあうか「モンゴル国に逃亡してスパイ容疑で処刑されるか」、行くも地獄、残るも地獄しか待っていなかったのが、当時のバルガ族だったのです。

    実は、ノモンハン戦争の戦場で亡くなったモンゴル人(ハルハとバルガ)よりも、その前後でソ連人や満洲国(つまり日本人)の手で粛清された人数の方が多いという事実があります。

    これは前項でも書きましたが、戦争で亡くなった方の「ハルハ河戦争前」だけでも100倍近くのハルハ人が殺されたのですから、ハルハ河戦争及び第二次世界大戦後に殺されたハルハ人やバルガ人は、とんでもない数にのぼるのだと思います。

    この流れは、社会主義時代のモンゴル国の粛清、南モンゴル(内モンゴル)におけるモンゴル人の大量殺戮にもつながる思想がベースにあるのです。「パン・モンゴリアリズムの阻止」「三蒙統一の阻止」というロシア人、中国人に共通の思想です。

    今回このハルハ河訪問で、互いに戦争をしたモンゴル人と日本人が仲良くなれて平和になったことを喜ぶだけでなく、厳しい運命を背負わされたバルガ族の彼が同じ場にいてくれたことに、私は本当に感謝しました。

    トゥメンウルジーさんは、日本人にもハルハ人にも言いたいことは山ほどあるでしょうけど、終始穏やかでニコニコしておられたのが印象的でした。

    ちなみに彼は苦労して勉学し、その後モンゴルのドルノド県選出の国会議員にまでなったのだそうです。平和の大切さを強く感じました。

    (続く)





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    Last updated  2019.09.09 16:31:57
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