田崎正巳のモンゴル徒然日記

2019/09/11(水)19:22

モンゴル人に向けた「ハルハ河戦争跡、訪問記」(6)(ブリヤード・モンゴルの受難)

モンゴルの近現代史(20)

9月3日、4日、9日、11日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。 http://www.shuud.mn/a/512099 http://www.shuud.mn/a/512139 http://www.shuud.mn/a/512266 http://www.shuud.mn/a/512364 モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。 モンゴル語版は連載で、あと数回続く予定です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これは6回目です) 以下、掲載します。 ハルハ河戦争前後の頃、ソ連が粛清の対象にしたのは満洲側のバルガ族と接触したハルハ人が多かったのです。容疑は「日本のスパイ」でした。第二次世界大戦後に、中国共産党を嫌ってモンゴル国に入ってきたバルガ人の多くも、「日本のスパイ」ということで殺されました。 これらの「日本のスパイ容疑」とは異なるモンゴル人もたくさん粛清されましたが、その代表がブリヤード人です。正確には、モンゴルへ移住したブリヤード人です。 ブリヤード人とは、モンゴル、満洲に接してその北に分布して住むモンゴル人の一つの部族で、17世紀以降の帝政ロシアの征服によってロシア領となった結果、ロシアの臣民となった人たちです。 彼らはモンゴル諸族の中で最も早くロシア文化の影響を受けて、近代的な解放思想としての民族主義に目覚めた人たちです。なので、ロシアでの教育を受け、有名な医師になった人、歴史研究者になった人など、多くの知識人が出ました。 キャフタ会議などでの通訳もほとんどの場合ブリヤード人が担っていました。1920年のモンゴル人民党(まだ人民革命党ではなかった)の党綱領を書いたのも、モンゴル科学アカデミーの基礎を作ったのも、ブリヤード人でした。 モンゴル人による最初の地図はドイツに留学し、印刷技術を学んだブリヤード人によって作られました。 そうしたブリヤード人の知識人たちは、次第に自分たちの故郷がロシア人、特にボリシェヴィキに支配されるのを拒み、その活動場所をモンゴル人民共和国に移す傾向があったのです。 ソビエト政権は、革命を逃れてハルハ・モンゴルに移り住んだブリヤード人をロシアに帰還させようとモンゴル政府に要求しました。1924年の時点でハルハに住むブリヤード人は4,000家族、15,800人にも達していました。それは当時のモンゴルの人口の2~3%を占めるほどになっていました。 当時のブリヤード人らは、まだボルシェヴィキ支配の及んでいなかったハルハ・モンゴルをモンゴル民族の文化的、政治的拠点、共通の祖国として建設しようという願望を持っていたのです。 しかしながらこの言語、文化、宗教による、国境を越えたモンゴルの一体性の回復は、パン・モンゴリアリズムとして捉えられ、ロシアのボリシェヴィキにとっては、恐怖の対象となったのです。 ロシア革命を逃れたブリヤード人の脱出先はハルハ・モンゴルの中の主に東部のドルノド県とヘンティ県でした。1934年の統計では、両県のブリヤード人は14,000人、うち成人男子はおよそ5,000人でした。 1937~8年の間に5,368人が逮捕されたと言いますから、ブリヤード人への迫害は尋常ではなかったと言えます。成人男子のほとんどが逮捕されたと言ってもいいでしょう。 今もモンゴル国内でなんとなく「ブリヤード人なんて・・・」と陰口を言う傾向があるのは、この時の名残なのかと思ってしまいます。実際には、モンゴル諸族の中で最も政治的、文化的に進んだ部族であったのです。 しかしソ連にとっては、ハルハ・モンゴル内のブリヤード人を一掃すれば済むというわけではありませんでした。反革命の真の根は、ソ連の手の届かない満洲国に逃げ込んだブリヤード人であったからです。 彼らはホロン・ボイル高原に住み、住んだ場所の地名から「シネヘイ・ブリヤード」と呼ばれました。シネヘイ・ブリヤードは、ボリシェヴィキ勢力に対抗する最も強力な敵の一つであったのです。 ソ連当局にとってはモスクワから遠く離れた満洲北部のシネヘイ・ブリヤード地区は満洲に巣食い、時には日本協力する極めて危険な反ソ分子の拠点と見なされていたのです。 ホロン・ボイル高原を強く敵視した理由はこんなところにもあったのです。なので、バルガ人と共に満洲国に住むシネヘイ・ブリヤード人とハルハ人が接触することを極端に恐れ、接触したハルハ人を処刑したのです。 パン・モンゴリアリズム運動は、中国とロシアに分断されたモンゴル民族が、その言語が一方では漢化され、他方ではロシア化され、遂には自らの言語が消失していく運命にあることを自覚した時、何よりも先に行く末に危機を感じるのは知識層でした。 モンゴル諸族の中で最も進んだ知識層が多かったブリヤード人が大きな危機感を持ったのはそのためだったのです。 ソ連当局にとっては、「パン・モンゴリアリズム」とレッテルを貼られ、指弾された人物は「反ソ、日本の手先、反革命分子」と同義であり、反社会的な性格破綻者という意味さえ咥えられました。 これは現在の中国が「チベット文化を守りたいチベット人」「宗教の自由が求めるウィグル人」そして「遊牧文化の消滅を恐れる内モンゴル人」を「分離主義者、反革命分子」と言って殺人を続ける中国共産党と全く同じ手法です。 共産主義の本質は、80年たっても全く変わっていないことがわかります。 (続く)

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