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カテゴリ:モンゴルの近現代史
9月3日、4日、9日、11日、19日付けのモンゴルの情報サイトSHUUD.mnに私の寄稿が掲載されました。
http://www.shuud.mn/a/512099 http://www.shuud.mn/a/512139 http://www.shuud.mn/a/512266 http://www.shuud.mn/a/512364 http://www.shuud.mn/a/512648 モンゴルの若者に、モンゴルの近現代史をもっと知ってほしいと書いたものです。本年7月のハルハ河戦争跡地訪問をベースに書いてます。 モンゴル語版は連載で、今回が最終稿です。その日本語原稿を以下に載せます。(日本語版は全部で7回で、これが最終稿です) 以下、掲載します。 ここまでは、モンゴル人にとっての、モンゴル人的視点でのハルハ河戦争をについて書いてきました。最後の章として、日本人にとってのハルハ河戦争について触れたいと思います。 ![]() 日本人と接触する機会があるモンゴル人、例えば観光で訪れた日本人を迎えるモンゴル人ガイドさんらは、日本人があまりにハルハ河戦争のことを知らないことにショックを受けます。 ザイサンの丘を案内したときにも「この丘の戦士の絵は、ハルハ河戦争のことを描いています・・・」と言っても「え?ハルハ河?戦争?なんですかそれ?」「日本とモンゴルが戦争したんですか?元寇のこと?」など、あまりに関心のなさそうな答えが返ってくるので、がっかりしてしまいます。 元寇とは、13世紀モンゴル帝国時代の中国における国名が元であり、そのころに元が2回に渡って日本を襲撃したという古い話です。 ![]() 日本人の多くが「ハルハ河戦争」をよく知らない理由は二つあります。一つは戦争の名称です。日本では「ノモンハン事件」という名前で教科書などに載っているのです。 もう一つは、日本人にとって外国との戦争というのは、ほとんどの人にとって「第二次世界大戦」あるいは「太平洋戦争」と呼ばれた戦争のことを指すのです。 まずは名称についてです。ノモンハンというのは、モンゴル・ソ連連合軍が国境と見なした「ノモンハーニー・ブルド・オボー」のノモンハンを戦争の名前に使ったということがあります。 そして何よりも、この戦争を「事件」という軽い名前にしてしまったということがありあす。戦争と事件ではまるで重みが違います。 「羊を10頭盗んで犯人を警察が探している」ようなことを事件と言います。何万人も殺し合うようなことはもちろん、「戦争」と呼ぶべきなのです。なぜか? ![]() これからの話は、ソ連やモンゴル人研究者と大きく異なる見解が異なりますが、残念ながらソ連やモンゴル人研究者は大きな誤解をしていたと言えます。 ソ連やモンゴルにとって、ハルハ河戦争は、日本が大きな戦略として満洲、モンゴル、中央アジアを攻め、最終的にはヨーロッパを攻めるための最初の戦争だと考えてきました。なので、日本にとっては「重要で」「戦略的な」戦争だと認識していたのです。 しかしながら事実は全く異なります。ノモンハン事件は、満洲に滞在する関東軍(日本の在満洲軍)が、日本政府や日本軍の中央司令官の許可を得ずに勝手にやってしまった争いなのです。 つまり日本政府や日本軍の正式な命令ではなかった、その地域だけの国境紛争としか捉えられてなかったのです。 これは日本の統帥権(誰が正式に戦争を始めるか)の問題にもかかわってきますが、日本としては誰も戦争を正式には指示していないのです。なので、日本では今も「事件」呼んでいるのです。 なぜそうなったか?それは関東軍の一部の指導者が「どうせ戦えば勝てる」「勝ってから報告すれば、それは仕方なかったと言われる」「むしろ、良くやったと誉めてもらえる」という自己中心で考えた戦争だったのです。 結果は、日本の惨敗でした。なので、この自己中心の指導者は、「戦争で負けた」というと自分の責任問題になるので、敢えて「事件」と報告し、「国境付近でちょっとしたいざこざがあった」程度の報告を日本にあげていたのです。 これを読んだら「そんなひどい日本人がいたのか?何万人も死んだんだぞ!」と怒ってしまうモンゴル人もいると思いますが、残念ながらその通りなのです。 なので、日本では「ノモンハン事件」に関する書物はかなり出版されています。が、その多くは「無責任な司令官のせいで、たくさんの人が無駄死にした」という内容をメインに伝えるものが多く、更には「組織の幹部が、責任と権限を明確にしないと失敗する例としてのノモンハン事件」が有名になってしまったのです。 なので、こうした書物は歴史の本というよりは、組織やリーダーの正しい姿(の反対の例)を伝えることを目的としていることが多いのです。 こうした内容は、中学生や高校生にはほとんど伝わっていませんから、一般の人にとっては「ノモンハン事件」は第二次世界大戦前の小さな事件くらいとしかわからないのです。 私は経営コンサルタントをしていますので、あるべきリーダーや組織を考えることが多いです。なので、我々の仲間の中ではノモンハンは有名ですが、それはあくまでもダメな組織、ダメなリーダーの典型的な例としての話です。 結果としてノモンハン事件は戦争というよりは、日本軍のダメなところ、リーダーがだめな例などの事例として一部の人には有名だということなのです。 二つ目の、日本人にとっての外国との戦争という意味では、圧倒的に第二次世界大戦の戦場名が有名です。 「ガダルカナル島(という南太平洋の島)の戦い」、「インパール作戦(イギリス軍とビルマ(現ミヤンマー)で戦った)」「レイテ沖(フィリピン)海戦」など多くの外国での戦争が、戦争の経緯なども含め記憶や記録に残されています。 ノモンハン事件は明らかにこれらの戦争とは日本人の中での受け止め方が違うのです。モンゴル人にとっての近代における最大の戦争なのに、日本人にとっては名前も知らない戦争になってしまっているのは、こうした経緯があるのです。 ![]() 最後に一つ加えるなら、モンゴル人の中にも誤解をしたままの方がいます。「私たちはモンゴル国としては外国とは一度しか戦争をしたことがない。」「私たちにとっての最初で最後の戦争が、ハルハ河戦争なのです。」という人がいますが、これは間違いです。 1回目はハルハ河戦争であることは間違いありませんが、2回目はモンゴルが日本に宣戦布告をしたのです。 第二次世界大戦中は、ソ連と日本は「日ソ中立条約」を結んでいたので、ソ連は日本に攻めることはしませんでした。そして1945年8月には日本はほぼ壊滅状態となり、いつ敗北宣言するかという日程を探っていました。8月の日本敗北までの経緯は以下の通りです。 8月6日アメリカ軍による広島への原子爆弾投下で14万人が死亡 8月9日アメリカ軍による長崎への原子爆弾投下で8万人が死亡 8月9日ソ連軍、日ソ中立条約を破棄して、対日参戦のため宣戦布告した 8月10日モンゴル軍対日参戦のため宣戦布告した 8月15日日本がポツダム宣言を受け入れ、敗戦 8月15日にアメリカなど全ての対戦国は対日戦争を中止しまたが、ソ連だけはその後も奪略や捕虜獲得の続け、北方4島を強奪したのです。 モンゴルはソ連の指示通りに参戦したので、その褒賞として日本人捕虜を与えられ、スフバートル広場にあるオペラ劇場などを作らせたわけです。 なので、日本とモンゴルの最後の戦争は、ハルハ河戦争ではなく第二次世界大戦なのです。但し、このこと(モンゴルの対日宣戦布告)については、ほとんどの日本人は知りません。 (完) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.20 10:38:00
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