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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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島田隆の天職相談室 しまりゅう52さん

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2021.12.03
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カテゴリ:ユーラシアの歴史
アフガニスタンから米軍が引き揚げ、タリバンが名実ともに全土を掌握してから4か月近くになろうとしています。この国は専門家の間では「帝国の墓場」と呼ばれているそうです。その意味するところは、「支配を狙う植民地主義や新植民地主義の外国勢力にとっての墓場になる」ということです。

またある学者は「アフガンは占領しようとした外国勢力が逃げ出したくなるほど統治不能な国家をつくることで彼らを追い出した」と、まるでフグの毒のごとく、「進化論」的な皮肉を言うほど、統治不能な地域だと言ってます。

近代的な意味での最初の「帝国」は大英帝国でした。イギリスは植民地インドと敵国ソ連との間にあるアフガニスタンを重要な拠点と考え、1839年(日本では天保10年)にアフガンに侵攻しました。

資料を見ると、イギリス軍はほとんど抵抗もなく容易に首都カブールに入り込み、傀儡政権を樹立したとあります。ですが、そこからが大変で、イギリス軍は激しい抵抗を受け、1842年に2万人の兵をインドに引き上げようとしたが、その途中で部族勢力に襲撃され帰還できたのはわずか1人だとあります。

その後、1878年と1919年にもアフガンに攻め入りましたが、結局は失敗しました。どうやら「負けた」というよりはイギリス軍が「疲弊した」ということが原因のようです。何か、今回のアメリカ軍の結果を示唆するようなことはもう100年前にアングロサクソンが経験していたということです。

アフガニスタンはその後、共産主義国となりましたが、反共産主義勢力による反乱がおき、1979年にソ連が軍事介入をしました。アフガニスタンの共産化を防ぎたいアメリカの支援を受け、ソ連軍を苦しめました。アフガン人の死者は100万人に上り、ほかに400万人が住む場所を追われたのです。

専門家は「ソ連は英国が1世紀前に達したのと同じ結論に行き着いた。つまりアフガンの直接占領は高くつくばかりで得るものはほとんどないということだ」と述べてます。疲弊したアフガンに現れたのがイスラム原理主義者タリバンでした。

アメリカのサポートは、ソ連を追い出すことには成功したものの、タリバンを招き入れる結果につながったのです。そのタリバンはアメリカが供与した武器を使ってより強力になりました。

タリバンがやったことは、テロリストへの隠れ場の提供、女性への残酷な処罰などが有名です。そして2001年9月11日への同時多発テロにつながり、アメリカ軍の攻撃を受けるようになったのです。

タリバン政権は同年12月に崩壊し、2003年にはアメリカは「主要な戦闘は終了した」とほぼ全土を掌握した宣言を出したのです。しかしアフガン統治が難しいのはここからです。結果は今年の夏を見ての通り、イギリス、ロシアと同様に何の成果(利益)もなく撤退したというわけです。

これほど統治の難しいアフガニスタンをモンゴル帝国はどう統治したのでしょうか?上手くやったのでしょうか?アフガンは当時はホラズムの一部であり、当時最強のモンゴル軍に徹底的に蹂躙されたことは確かのようです。

残された有名な言葉があります。「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」」というペルシャ語が残されています。その後、モンゴル帝国の衰退とともに、この地域は各部族が独立国家を作り分断されたようです。

その統治の是非はともかく、今もモンゴル帝国の爪痕がアフガニスタンに残っています。それはハザラ人です。ハザラ人というのは、モンゴル帝国が支配した時にいたモンゴル人のアフガニスタンに残る末裔たちです。

ハザラ人は今もアフガニスタンの人口の1割程度を占める、そこそこ大きな存在です。ですが、大きな、しかも公然とした差別を受けています。カブール市内の清掃業者はほとんどがハザラ人だと言われています。

公然と差別されるとはどういうことか?それは法的にはどうかはわかりませんが、多くのアフガニスタン人にとっては「あいつらは差別されても仕方ない」「あいつらはこの国にいるべきでない」と思われ、一時期は「殺しても構わない」くらいの存在だったそうです。なぜか?

それはなんとあのチンギスハーンの時代、13世紀、今から800年以上も前の出来事、つまりモンゴル軍が多くのアフガン人、ペルシャ人らを虐殺、蹂躙したことへの記憶が語り継がれ、その子孫たちが「てめえら、コノヤロー!」的に敵視、差別されているというのです。

10年近く前にモンゴル人の友人のUさんがアフガニスタンを訪れ、ハザル人に会った時の話は鮮明に覚えています。Uさんはテレビの取材で訪れたのですが、現地で会ったハザル人たちは涙を流しながら喜んだと言います。

「800年間、この日を待っていた」「先祖から、必ずモンゴルから迎えが来る。助けが来る。」と伝わっていたのだそうです。「私たちはこの国では、殺されても誰も気にしないような存在なのです。」とも言われたそうです。

英ロ米の帝国支配も結局は上手く行きませんでしたが、それと比較しても800年前の帝国支配の辛い影響に比べればまだましです。そこに人が残っているわけではありませんから。ハザラ人の話は、今も昔も他人の土地を蹂躙してはいけないという教訓だと思います。





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Last updated  2021.12.05 16:40:14
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