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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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ユーラシアの歴史

2019.08.04
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カテゴリ:ユーラシアの歴史
先日、日本政府が観光誘致支援のために「中央アジア一括ビザを支援する」という記事が出ていました。モンゴル観光振興の立場からも、ちょっと気になるニュースです。

記事によると「日本政府は中央アジア各国が外国人観光客を誘致する取り組みを支援する。観光客が域内5カ国を自由に行き来できる周遊ビザ「シルクロードビザ」導入を呼びかけ、年内にも一部の国との合意をめざす。」とあります。

これは外国人観光客がどこか一つの国のビザを取れれば、域内5か国を自由に移動できるというものです。ヨーロッパのシェンゲンビザみたいなものでしょう。

この5つの国とはどこか?記事には書かれていませんが、恐らくカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンのことでしょう。

これらは地理的に言えば概ね、中国やモンゴルよりも西で、カスピ海よりも東のエリアといえます。

  • g01.jpg


歴史的には遊牧民が多く、言葉もテュルク系が多い地域です。(もちろん、細かく言えばイラン系とか多様ではありますが)またオアシスがあった場所でも有名ですから、「シルクロードの中心地」とも言えるでしょう。

この5か国の一括ビザを可能にするという案です。日本人にとっては、これらの国への訪問にはビザはどうなんでしょうか?調べてみました。

調べたのは民間のビザ専門会社のHPです。まず気になったのは「アジア」のパートに載っていなかったということです。

この会社のHPは日本人向けの「ビザ要否一覧」を載せているのですが、それが地域別に載っています。アジア、中近東、東欧、西欧・・・とあるのですが、なぜかアジアには載っていません。モンゴルはもちろんアジアに載っています。

どこにあるかと言えば東欧です。これは「旧ソ連国は全部東欧」と見なしているんじゃないかと思います。で、結果を見てみましょう。(基本は観光客です)

カザフスタン 不要。ウズベキスタン 不要。キルギス 不要。タジキスタン 必要。トルクメニスタン 必要。
という結果でした。

ビザなし国が世界一多い日本人にとっても、タジキスタンとトルクメニスタンは必要なんですね。このシルクロードビザ制度ができたら、これらの国へも自由に移動できるということになります。

この制度を導入すれば、「日本政府は域内各国と日本をつなぐチャーター便の増設を呼びかける。観光分野での人材育成を強化するため専門家を現地に派遣し、日本で研修を開く。水洗トイレの普及や公共交通機関の外国人対応などでも日本のノウハウを伝える。」と言ってます。

これは意外と、観光無策のモンゴルにとっては大きな脅威になるかもしれません。そもそも今も、モンゴルへの日本人旅行者は数は少ないですし、モンゴル国としても大した振興策はやってません。

モンゴル人は「この素晴らしい自然が売り物です」と言いますが、裏を返せば「特に何もしないので、興味があれば来てください」的対応です。

私が長年日本人観光客を観察してきた感想を申し上げれば、モンゴルは日本人にとってはあくまでも非メジャーな、秘境とは言いませんが、優先順位の高い観光目的地ではないように見えます。

一般的な日本人観光客にとっては、通常観光地を考えるときは「素敵で憧れのヨーロッパ」「身近でグルメも楽しめるアジア」「世界の大国アメリカ」などがまず浮かびます。

地域でない切り口としては、「南の島でのんびり」とか「世界遺産を求めて(南米や中東など)もあるでしょう。

モンゴルは残念ながら、少なくとも旅行初心者にはこれらのキーワードはひっかかりません。

アジアなのに、ヨーロッパみたいに航空運賃が高いとか、アジアなのにグルメ目的とは言えない、有名な世界遺産と言える建造物がほとんどない、などがその理由と言えます。

ではどういう人たちが来るのか?それは「既に世界中、いろんなところを回った。まだ行ったところに行ってみたい人」「アジアの歴史、大草原に触れてみたい」などが多いように見えます。

日本人にとってのファーストチョイスではないけど、面白そうな国、未知の世界といったところじゃないでしょう。そうなるとこのシルクロード5か国ビザは強敵になるかもしれません。

「遊牧民」や「大草原」という売り物は、モンゴルの専売特許ではなく、この5か国にも当てはまります。もちろんモンゴル人は「自分たちとは違う」と主張するでしょうが、日本人にとっては似たようなもんです。

ネーミングの「シルクロード」もアピール抜群です。講演会などでも、地味なモンゴルの歴史話よりも、シルクロードと名付けた講演の方が圧倒的に集客がいいのは経験済みです。

更にこの5か国にはイスラム系の宗教的建造物がたくさんあります。オアシスには文化の多様性を示すものも多いことでしょう。モンゴルに明確に劣るのは「知名度」くらいでしょう。

このシルクロードビザにモンゴルも入れてもらう(日本人には関係ありませんが、モンゴルのビザが必要な国のために)とか、5か国内の移動の自由(今はモンゴルからは飛行機で直接行けません)のための交通網など、いろいろ考えた方が良いかもしれません。

「いやいや、モンゴルはモンゴルの魅力だけで十分だ」なんて意地はっていると、新潟県みたいになってしまうでしょう。

以前、本ブログ2014年2月16日付け、「モンゴルと新潟県の共通点」(https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/201402160000/)にも書いたように、どっちつかずで孤立化するということです。

「北陸新幹線記念北陸旅行!」とか「東北グルメの旅」なんてタイトルの旅行プランがあっても、新潟県はどっちにも含まれていないのです。新潟県は「北陸三県」でもなければ「東北路六県」でもない、孤高の県なのです。

なので、観光庁が訪日外国人向けに設定した「昇龍道」(中部・北陸)コースにも「東北探訪ルート」にも載っていません。もちろん単独なんてあり得ません。

モンゴルは政治面だけでなく、観光や人的交流面でももっと中央アジアと接近した方がいいと思います。新潟県を反面教師に。






Last updated  2019.08.11 14:04:07
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2018.07.20
カテゴリ:ユーラシアの歴史
今朝起きて本ブログの管理画面を見ると、8年前の記事がアクセス上位に来てました。

「なんでこんなページに突然アクセスが増えたのだろう」と不思議に感じました。そしてニューサイトに移ると「真央さん、悲劇になぜ、どうして?」とありました。

それは浅田真央さんが一緒に練習をしたことがあるカザフスタンのスケート選手が、母国で強盗にあって殺されたというものでした。

読み進んでいくと、「テン選手は自分の車からミラーを盗み取ろうとした2人の人物を見つけ、争いになり、刺されたという。」とあります。

「え?ミラー?まさか・・・」私は「サイドミラー 盗難」で検索してみました。するとなんと私のブログがトップページに載っているではないです。

そのページとは
2010年4月21日付け「サイドミラー、2度目の盗難」(https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/201004210000/)です。

これは8年前モンゴルで暮らしていた当時に愛車ランドクルーザープラドのサイドミラーがまだ明るい時間帯に盗まれたことを書いた記事です。しかもその時が2回目であり、その前にも盗まれていたのです。

当時の友人のBさんのコメントによると「モンゴルでは車の部品の盗難は日常茶飯事ですから、気を付けてください」とありました。要するに転売目的の泥棒がよくいるということです。

ですから今朝のニュースを見たときに、これはまさに他人事ではなくモンゴルでも十分に起こりうる話だと思いました。

私の場合も、もし現場に犯人と出会ったらきっと大声で騒いでたでしょうから、その後どうなっていたかはわかりません。そう思えば、単なる盗難だけでラッキーだったと考えないといけません。

「カザフスタンとモンゴルは全然違います」と言いたいところですが、普通の日本人にとってはどこが違うのかなんてわからないでしょう。だから、私のブログへのアクセスも急増したのでしょう。

今回の事件は午後3時ころだそうです。つまり真夜中とかではない普通の時間帯であることを考えると、治安の悪さが感じられます。

残念ですが今のモンゴルの治安を考えれば、モンゴルで似たような事件が起こっても驚きはしません。私の時も昼間でしたから。

というか、今回は有名人の被害者なので世界的に報道されただけで、モンゴルでもカザフスタンでも類似の事件は普通にあると考えた方がいいとも思います。


被害者のデニス・テンさんは韓国系カザフスタン人と紹介されたり高麗人と紹介されています。彼によれば彼の祖父が抗日義兵だったとありますが、具体的にどのようにしてカザフスタン人になったのかは不明です。

ですが、ルーツをたどれば高麗人とカザフスタン人は同じ騎馬民族ですから、カザフの中にはそうした系統の人々はもともともいた可能性はあります。

高麗人は朝鮮半島の北部から中国東北部(いわゆる旧満州地域)にいたツングース族がそのルーツと言われています。

ツングース族は、騎馬・狩猟民族系でモンゴル人と同じグループで、満州人のルーツでもあります。

カザフ人はトルコ系騎馬民族がそのルーツですから、太古の昔よりモンゴル高原の東西にまたがる遊牧地域を行き来し、混血も多かったことでしょう。

テンさんはカザフスタン初の冬季オリンピックメダリストです。モンゴルはまだ冬季オリンピックのメダリストはいませんが、カザフでの存在感としてはモンゴル初のオリンピックメダリストである白鵬のお父さんのような大英雄ではないかと想像されます。

25歳、若すぎる死。カザフスタンから世界への扉を開けてくれた若い英雄の死はとても残念です。ご冥福をお祈りします。






Last updated  2018.07.20 18:53:52
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2018.05.02
カテゴリ:ユーラシアの歴史
さきほど、内モンゴルも一緒に文字革命があった方がよかったどうかは、難しい問題だと書きました。それはモンゴル文字の継承です。

半世紀以上もキリル文字を「使わせられて」いたわけで、社会主義時代には「チンギスハーンの否定」に始まり、モンゴルの多くの歴史や文化は否定されてきました。多くの学者たちも粛清されてきました。

それは同時に、「モンゴルの歴史の記憶の消滅」「モンゴル文字の抹殺」を起こしてきたのです。

今のモンゴルの年配の方々は「チンギスハーンは歴史上、世界最大級の極悪人」と教育されてきたほどです。モンゴル文字なんかもちろん使用禁止でした。

こんな状態が半世紀以上も続いたら、そもそも「モンゴル縦文字に戻りましょう」と言ったところで、何をどうしたらいいか、どこから手を付けていいか、わからなかったでしょう。

でも、内モンゴルには残っていたのです。中国だって相当内モンゴルにはひどいことをしてきましたが、文字の使用禁止はしませんでした。また既述のように、「キリル文字化」も認めませんでした。

その結果が、こうして縦文字が生き延びれる大きな要因になったのです。ロシアも中国も、モンゴル人にとっては民族を分断したり、歴史を消し去ったり、それはそれはひどいことをしてきました。

ですが、こうして別々に管理されていたことで、モンゴル縦文字の文化が生き延びたんだと思うと、ちょっと複雑です。

もし、内モンゴルも一緒に清から独立し、その後ソ連傘下になったとしたら、もしかしてモンゴル文字は本当の「古典文学用の文字」でしかない存在になっていたかもしれません。

最後に、「モンゴルもカザフスタンのようにラテン文字化すべきか?」というテーマです。

私は、今のモンゴル人は「キリル文字を縦文字に変換する」のは簡単ではないですし、パソコン文字などのインフラも十分ではないと思います。

が、ラテン文字化は既にルール化されており、モンゴル語のできな私ですらも、文字の変換ならほとんどできます。つまり、簡単ということです。

もし転換されると、発音の種類が減っていくでしょう。

OとӨ 、YとУなどが整理されて、母音が減っていく可能性はあるでしょう。ロシア文字をモンゴルに導入するときに、これらの複数の母音を追加したわけで、もともとキリル文字に母音がたくさんあるわけではありません。

ラテン文字にするということは、より使いやすく、外国人にもわかりやすくということですから、これらはOとUだけに集約されていくと思います。

日本語だって「いとゐ」「えとゑ」別々でしたが、集約されてきた歴史がありますから、モンゴルもそうなるかもしれません。

ただ、この議論を国会でやりだしたら「キリルのままがいい」「ラテンがいい」「どうせやるなら縦文字がいい」など大きな論争になるでしょう。

これを無理やり決めることは今のモンゴル(の国会)ではできないでしょうから、実現性は薄いと思います。

文字というのは、言語の中の大きな要素ですから、決めるのは自分たちで決めたいというのは当然です。

が、そこに歴史(浸透、書籍、文化)が絡んでくると、簡単には決められないということだと思います。

(完)






Last updated  2018.05.02 18:32:14
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2018.04.30
カテゴリ:ユーラシアの歴史
ところが1941年に、これまたソ連邦の動きに合わせて、突然ラテン化をやめてキリル文字化に転換するという報告がツェデンバル(当時の党書記長、のちの首相)からあったのです。

当然これは決定となり、この年の6月にはキリル文字でモンゴル語を教える最初の教師258人が養成されました。そして1950年からはすべての公文書は「新文字」で書くことになりました。

面白いのは、この頃のキリル文字の表現が現代と少し違うことです。ウランバートルのように長い母音を表現するのは、現在ではУлаанбаатарとaを2つ続けて書きます。

が、1945年頃の発行物を見ると日本語のローマ字のようにĀと文字の上に横棒を書いて長母音を表していたのです。なぜこの表現ではなくなったのかは、わかりません。

この文字改革の時に内モンゴルも一緒の文字にした方が良かったのかどうか?実はこれは非常に難しい問題なんです。

まず事実としては、当時ソ連と仲が悪かった中国内では、モンゴル伝統の縦文字をロシア式に転換することは認めませんでした。

なので、現在に至るまで同じ言語を話すのに、文字がまるっきり違うという他の言語では見られないような現象が起こっています。

モンゴル国立大学外国語学部にはモンゴル語学科もあって、そこでは日本人、韓国人をはじめとする世界各国からモンゴル語を学んでいる留学生がたくさんいます。

モンゴル語の能力別にクラス分けがなされているのですが、一番驚くのが「完全にペラペラなのに、一番下の初心者コース」クラスに入っている人たちが何人もいることです。さて誰でしょう?

それは内モンゴル人です。彼らにとっては国籍は中国とはいえ、言語のネイティブはモンゴル語です。

チャハルの方言でハルハ語(現在のモンゴルの標準語)と違う部分が多少あるとしても、ペラペラはペラペラです。ですが、キリル文字が全く読めないので、初心者コースにいるのです。

ほとんどの生徒が「サエンバエノー」くらいしか話せないのに、早口でペラペラと先生に質問する「初心者生徒」は非常に違和感ある存在だと言わざるを得ません。


キリル文字への転換から半世紀後、ソ連邦は崩壊し、モンゴルは1990年から民主化運動がおこり、1992年に新憲法のもと民主化は完成しました。そこで再びこの文字に関する改革が話題になったのです。

1989年の暮れからペレストロイカがモンゴルでも始まりました。なんと1990年1月の新聞には「今年の新学期から小学校の教科書はモンゴル文字で出版しよう」とあったそうです。

そして実際にキリル文字表記からモンゴル文字表記への全面的な切り替えが計画され小中学校での教育が始まりました。

ですが、一般国民の間では歴史と伝統・文化の象徴と見なされてはいるものの、「モンゴル文字」イコール「話しことばとは無関係の文語」というイメージが定着してしまっています。

なんとなく、日本人にとっての古文や漢文みたいに「勉強はするけど、普段は関係ない」という感じでしょうか。

また横書きができないという(現代においては致命的ともいえる)弱点を抱えていることもあって、今となっては日常的にはほとんど使われない文字となっているのが現状です。

現実的には、現在はパソコンも携帯も、キリルかラテン文字を使うのが多いです。

また発音などもキリル文字と縦文字とは違うようで、70年近くも使われてきた文字を自由主義(独裁者の命令ではない、という意味)の中で切り替えることは難しいと思います。

文字を切り替えるということは、自国の文化遺産を放棄するようなものですから。

公文書や小説、歴史書さらには流行歌の歌詞まで、20年後30年後の人たちが完全に読めなくなることを考えると、縦文字への完全切り替えはほとんど不可能ではないでしょうか?

(続く)






Last updated  2018.05.01 15:32:15
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2018.04.28
カテゴリ:ユーラシアの歴史
前ブログでカザフスタンの文字について書いていたら、モンゴルの文字も気になりました。ということで、モンゴルの文字に関して考えてみたいと思います。

このブログ読者にはモンゴル人の方もおられますが、そういう方々も恐らく全部わかっているわけではないと思うので、歴史的事実を参考に書いていきます。

本ブログを書くにあったっては、ネット上の情報も参考にしましたが、「モンゴル 民族と自由」(田中克彦著、1992年出版)を参考にしました。


キリル文字を使うようになったのは、1940年の末から1950年代にかけてです。が、(公文書や学校の教科書など)法的・制度的にはともかく本格的に普及するようになるにはずいぶん時間がかかったと思います。

国交がなかった1957年当時、国際会議に参加するために日本に来たモンゴル人ジャーナリストらは縦文字でメモを取ってたそうです。

中でもキリル文字政策推進の中心者であるダムディンスレン氏も会議でのメモの使用文字は縦文字だったそうです。

それほど文字をどうするかは、政治的、歴史的経緯以外にも現実的な問題を考慮することが大事だということです。

話はロシア革命後に遡ります。

ソ連はロシア革命(1917年)後、それまで文字を持たなかった各種言語にキリル文字を与えて、多数の書き言葉を誕生させました。

ところがそれだけでなく、既に文字を持っていた言語、今回のカザフスタンなどのテュルク系の言語もキリル文字に変えたのです。

ブリヤード・モンゴル語もキリル文字に変えさせられました。この経験をもとに、ハルハ・モンゴル(今のモンゴル国)の言語もキリル文字に変えさせられたのです。

モンゴルは当時から独立国でしたが、実態は16番目のソ連内共和国として扱われていたのです。なのでソ連の命令は絶対でした。

ですが、縦文字からキリル文字に変わった以前に、実はラテン文字(ローマ字)化を本気で検討した時期があたのです。今カザフでやろうとしていることと同じです。

革命後間もない1920年代にソ連内では「ロシア文字(キリル文字)は封建制や古い制度に結び付いた、旧弊で反動的な文字だ」と考えられていまた。

こうした考えのもと、ロシア語も含めたすべての言語についてラテン化の方向が目指されたのです。つまりキリル文字を廃して、ラテン文字に使用ということです。

このような流れの中、モンゴルでも1925年頃から言語改革の必要性が認識されました。この頃は文盲が多かったので、すべての人が読み書きをできるようにという願いの言語改革でした。

考え方は二つあり、一つは伝統的な縦文字に改良を加えて普及させるというのと、もう一つは既にブリヤード・モンゴルで検討されているラテン化運動に倣うべきだというものです。

そして1930年に人民革命党の党大会でラテン文字に移行することが決定し、党員や官吏たちは毎週土曜日に勤務終了後2時間ずつラテン文字を勉強し始めたそうです。

更に1931年にはモスクワで、ブリヤード、カルムィク、それにハルハの外モンゴルの各代表が集まってラテン化のための会議が行われたのです。

カルムィクというのは、遥か西方カスピ海の方にあるモンゴル系の人たちの国で、言葉もモンゴル語系で、顔もモンゴル人はもちろん日本人にも似ているそうです。

地理的には完全にヨーロッパにあり、「ヨーロッパで唯一の仏教国」であるそうです。こんなところにも、13世紀からのモンゴル帝国の影響が残されているのですね。

これはこれで、大きな研究テーマになりそうな「ロシア連邦カルムィク共和国」です。

この会議が行われたころ(1930年ごろ)はモンゴル民族には大きな希望がありました。ソ連アカデミーでもブリヤードやモンゴルが共通にラテン文字化を進めるべきという論文も発表されたりしていました。

このころの進め方は「ブリヤード・モンゴルの方言のうち、外モンゴルの言語になるべく近い方言を選んで標準語を定め、言語的な統一を図ろうとした」という、誠に画期的なプランであったのです。

ですが、それを進めていくということは最終的に「汎モンゴル主義」(世界中の旧モンゴル帝国の連帯、みたいな感じ?)につながるとして、「反モンゴル」の最先鋒であるロシア人らが許すはずもありませんでした。

統一モンゴル語を図ろうとした言語学者たちは、いずれも悲惨な運命にあったとのことです。今も昔もモンゴルは「民族自決」には程遠いところにいます。

ですが、最終的にモスクワに倣って、1933年5月にモンゴルでもすべての公文書をラテン化することを決定しました。

(続く)






Last updated  2018.04.30 14:39:28
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2018.04.25
カテゴリ:ユーラシアの歴史
新聞にカザフスタンが「2月、ラテン文字をもとに新たに開発した32文字を母国語に採用した」「ロシア語と同じキリル文字を捨て去る」とあり、ちょっと驚きました。

ですが、ネットで検索すると昨年の10月の時点で、日本のニュースにも今回の変更について報道されていることを知りました。

同じキリル文字を使うモンゴルにとっても、他人事ではありません。というのも、モンゴルも文字に関してはいろいろ考えさせる歴史があるからです。

カザフに関して言えば、やはり旧ソ連の一員であったものの、ロシアの影響を遮断したいという気持ちが強いのだということですが、それに加えて「キリル文字ではスマートフォンの入力が煩雑」という現実的な問題もあります。この問題も、モンゴルでも同じです。

新聞によれば、カザフは19世紀以降、アラビア文字やラテン文字(いわゆるアルファベット)を経て、旧ソ連編入後にキリル文字になったという経緯があります。

長い時間をかけて国民に慣れ親しんだ文字を捨てるというのはよほどの覚悟が必要ですが、カザフスタンという国はその「よほどの覚悟」がある国なのです。

もちろんもともと私がカザフスタンのことを知っているはずはありませんが、モンゴルとの縁をきっかけにテュルク系(トルコ系民族)の国々に興味を持ち始めて、いろいろ書物を読んでみると、モンゴルとは違ったカザフの対ソ連に対する苦悩や憎しみ、そして親近感という複雑な感情が読み取れます。

カザフスタンが1991年に独立国家となったとき、核爆弾保有高はなんと世界第4位だったそうです。これは、イギリス、フランス、中国よりも多かったということです。ちなみに第3位はウクライナでした。

ソ連は大きな核保有国でしたが、その実験はカザフスタンで行っていました。中国が新疆ウィグルやチベットを核実験や核のゴミ捨て場とするのと同じで、ロシア人は自分たちは安全な場所にいて、リスクのある核実験は大草原のあるカザフで行っていたのです。

チェルノブイリ原発も同じ論理で、ロシアではなくウクライナで杜撰な原発運営をやっていたということです。

カザフは独立時に核保有をやめる決断をし、すべて廃棄しました。核実験場では数世代にもわたり奇形児や難病に悩まされたと言います。

こうした背景にはもちろんロシア人のアジア人に対する人種的偏見があるのは間違いありません。

このような歴史的経緯があるからこそ、今回の決断に至ったのでしょう。とはいえ、ロシア語の方がカザフ語よりも通じると言われるカザフスタンですから、ロシア文字を捨てるというのは非常に難しい決断だったと思います。

新聞には書かれていませんが、私はこれは独裁者であるナザルバエフ大統領だからこそ実施できたのかと思います。

長年使ってきた文字を変えるということは、それまでの70年以上の中で発行された書籍と別れるということです。

短期的には、今の人たちはまだまだキリル文字は読めるでしょうが、小学校の教科書も今年からラテン文字に変わるわけで、30年後、50年後は一部の人しか読めないものになっているでしょう。

キリル文字を捨てることは議論しだしたら、賛成派、反対派の激論となり、決まらないと思います。

ましてや、昔の歴史あるアラビア文字に戻るならまだナショナリズムという追い風もあるでしょうが、ラテン文字にするとなると、簡単ではないでしょう。

それでも大統領の「ロシアとの決別」に対する強い執念があるのだと思います。

こうした文化的、歴史的な意義とは別に、確かにスマホに代表される入力の影響も大きいと思います。私がモンゴルで使っているのはノキアの古い携帯電話ですが、入力はキリルではなくアルファベットです。

モンゴル人から届くメールもキリルではなくアルファベット(ラテン文字)です。もちろん機種によっては、キリルもあるのでしょうけど、私の知っている範囲では皆私への携帯メッセージではラテン文字を使っています。

なので、もしかしたら実質的にはそうした機器からは、キリルよりもラテン文字化している部分もあるのかもしれません。少なくともモンゴル人の場合は、ほとんどの人がキリル文字でもラテン文字でも使いこなせると思います。

だからと言って、今のモンゴルで「ラテン文字に切り替える」「モンゴル文字に切り替える」ことができるかと言えば、それは難しいと言わざるを得ません。そもそもそんなことを民主的議論して決められるとは思えないからです。

せっかくの機会ですので、モンゴルの文字の歴史について簡単な考察をしてみましょう。






Last updated  2018.04.30 14:15:07
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2017.10.30
カテゴリ:ユーラシアの歴史
つまり中国の歴史から言えることは、漢人の勢力範囲を超えて領土を拡大する場合は、異民族を尊重し、言語も宗教も文化もそれぞれの独自性を守り、更に当地の中枢にも異民族を招き入れるという経営ノウハウがある場合に限るということなのです。

もちろん、漢人が漢人固有の領土を漢人だけで統治したいという場合は、それでもいいでしょう。漢人や漢字の語源にもなっている漢という国のように漢人地域だけを守っていればいいのです。それに文句を言うモンゴル人もチベット人もウィグル人もいませんよ。

今の習共産党は、こうした歴史から全く学ばず、異民族経営のノウハウはゼロなのに、無理やり領土を「異民族経営が上手だった非漢人時代の大きさ」に戻したいという、土台無理な話を進めているところに無理があるのです。

ここまでで、いかに「中華民族の偉大なる復興」が矛盾だらけで意味のない言葉かがわかると思います。では多民族国家は成り立たないのでしょうか?

私はもちろん成り立つと思います。大昔の武力一辺倒の統治(習の統治方法はこれです)ではなく、現代的な統治を可能にするのはソフトパワーだと思っています。

これの反対の概念は、今の習に見られるような「強制」「締め付け」「暴力」といったキーワードで表すことができます。

アメリカは多民族国家です。もちろん、いろいろ問題を抱えていることは承知のことですが、何といってもその力の源泉は国民が「アメリカが好きだ」「アメリカ人としての誇り」がどの人種、民族の人たちであっても自らの気持ちで口にできることです。

そうではない例はあるのか?それはソ連です。ロシア人中心主義で、アジア系などは蔑視されてきました。アジア系でなくとも、バルト3国もウクライナも同じです。

ロシアやその傀儡の国(ベラルーシ)などを除けば、ソ連崩壊したとたんにどの国もソ連からは離れたい、貧しくとも自分たちの国として独立したいと思ったわけです。

ソ連には明確にソフトパワー、つまり人種・民族を超えて引き付けるものが全くなかったということです。こんなアメリカとソ連の例ですが、でもこの2国に共通していることがあります。

どちらの国も「アメリカ民族」とか「ソ連民族」などというインチキな言い回しはしなかったということです。さすがのソ連も、そこまで常識外れというか、馬鹿ではなかったのでしょう。

この両国と比べると、中国については何を言えるか?ソフトパワーとしては、ソ連に勝るとも劣らずに、国内の異民族から嫌われているということです。

さらにそのソ連ですら使わなかった「ソ連民族」に相当する「中華民族」という造語を、恥知らずに使っているということです。

以前本ブログでも書いたことがありますが、私が中国人に「モンゴルという独立した民族国家があるのに、なんで内モンゴルをいつまでも占領しているんだ?」と聞いた時の答えです。

「モンゴル人はもちろん中華民族の一つです。本来は中国の領土なのですが、歴史的にソ連が中国の領土を違法に取ってしまったのです。なので、いずれは中国の領土に戻しますから、内外モンゴル人は一緒になれます。」だって。

私が「誰もそんなこと思ってないですよ。そもそもヨーロッパでは、チンギスハーンが有名で、モンゴルと中国は違うという認識は持っています」というと「はい、そうなんです。チンギスハーンはヨーロッパで一番最初に有名になった中国人なのです。なので、ヨーロッパ人は誤解しているのです。彼らには中国の歴史はわかりませんからね。」だって。

厚顔無恥というのかわかりませんが、共産党の教育はここまで捻じ曲げているんだと思いました。

内モンゴル人がいるから、モンゴルも中国人という理屈なら、朝鮮民族はどうなるんでしょうか?中国東北部には多くの朝鮮民族が暮らしています。あれも中華民族だとすると、韓国人はどうなるの?中国人なの?

と、皮肉の一つでも言いたいと思っていたら、ネットニュースに「習がトランプに、韓国はもともと中国の一部だった」と言ったそうです。つまり韓国人も立派な中華民族なんですね。

こんなセリフを21世紀の首脳会談で話す習は、やっぱり歴史を知らないんだと思うし、ソフトパワーは絶対に持てないと思いますね。彼も結局「ソ連型統治」しかできないということです。

(完)






Last updated  2017.11.03 14:02:23
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2017.10.29
カテゴリ:ユーラシアの歴史
社会組織も違います。モンゴルはモンゴル帝国は当然ですが、その始祖とされる匈奴やその後の柔然、更にはトュルク系の大帝国突厥に至るまで、統治者による支配構造は十進法による「人」の支配でした。

これだけ見ると何のことかわかりませんが、漢人は我々日本人と同じく支配の単位は「土地」です。それは農耕民族にとっては何といっても田畑が一番大事だからです。

織田信長にしろ、徳川家康にしろ、いやそのずっと前の平安時代にしろその領土をどう管理するかが大切でした。漢族も同じで、県とか村とかの単位で統治していたのです。

ですが、遊牧民は違います。新潟県魚沼市にいる羊を対象に税金を取ると言っても、遊牧民は簡単に移動してしまいます。取りに行ったらもぬけの殻なんて、当然です。

そうなると、対象は「人」なのです。「10人」「100人」「1000人」単位の十進法で組織し、一番大きな単位は「1万人」です。

今のモンゴル語は、恐らくロシアの影響なんでしょうが、欧米式に1000を一つの単位にします。つまり1万とは家わずに10千と言います。英語でも10 thousandですね。

しかし、昔のモンゴル語は日本と同じように万という単位を日常的にも使っていたのです。この話は置いといても、要するに「土地」をベースにした社会組織と「人」をベースにした社会組織では、全く構造が違うということです。

ここに見て来たとおり、これら3民族には「民族としての定義では何一つ、漢族との共通性はない」のです。

更に「民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある」とありますが、これで言えばどの3民族も「漢族」「中華」「中国」などに対する帰属意識はゼロです。

この3民族に共通なことは何かといえば、それは「中国嫌い」「漢族嫌い」「共産党嫌い」でしょう。これは間違いなく、共通点です。

ここまで見て来たように、特に問題となるモンゴル人、ウィグル人、チベット人は客観的に見ればどのような視点を持っても、漢民族でもなければ造語である中華民族でもないことは明白です。


では次の問題である「復興とは、いつの栄光に戻るのか?」ということについてです。「戻る、戻す」というのは時代を巻き戻すわけでも、社会構造を昔に戻すわけでもありません。

端的に言えば「領土」でしょう。それをいつの時代に戻したいのか?近い時代で言えば清ですし、一番大きかった時代で言えばもちろん元です。ですが、この両王朝は漢人の国ではありません。

元はもちろんモンゴル帝国の一部でしたし、清は満州人の国でした。もっと言えば満州人が支配層で、モンゴル人が準支配層という遊牧・狩猟民族連合軍のような支配構造でした。元と清に共通しているのは、漢人はともに被支配民族だったということです。

あの頃に戻したいなら、漢人支配も止めてもらわないといけません。漢人の国っぽい名前で唐もありますが、これも拓跋系という言わば遊牧・狩猟系民族の国であったのですから、唐に戻すとしても漢人支配は止めてほしいです。

何が言いたいのか?漢人に出て行けというのか?いいえ、まさかそんなことは言いません。私が言いたいのは、古来漢人には大きな領土を統治経営する能力はなかったということです。

元にしろ、清にしろ、農耕的な漢人領土の5倍以上はある巨大な領土を経営していました。他方、漢人中心の王朝である漢や明にしろ、広大な領土の経営は上手くは行ってなかったのです。

かなり国際的にも大国と見られていた明でさえも、当時の地図(1580年当時)を見ても、モンゴルもチベットもウィグルも満州も明の領土ではなく外国扱いされています。

なぜ元や清は途方もない広大な領土を統治できたのか?それは統治者自身が中原においては異民族であり、異民族をまとめ上げるノウハウを持っていたからです。

元を例に出せば、言語の違い、文字の違いはもちろん、宗教・習慣の違いを認め、尊重していたからです。農耕民族に対する統治と遊牧民族に対する統治方法を別にし、ウィグル人など能力ある異民族を統治の中枢に据え経営していたからです。

(続く)






Last updated  2017.11.02 11:39:35
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2017.10.26
カテゴリ:ユーラシアの歴史
その上で言えば、遊牧民を中心とするエリア(ユーラシア乾燥地帯)東部にあるモンゴル高原を中心とするモンゴル族、中国とインドの間にある高原・山間地帯を中心とするチベット族、そしてユーラシア乾燥地帯中部・南部のオアシス地域・トルキスタンを中心としてきたウィグル族の居住地域は、中国・中原の田園地帯を中心としてきた漢人の地域とは明確に分かれています。

それは中国の歴史の本を見ればだれでもわかるはずで、中国史上のほとんどの時代はこれら異民族の土地は「他国」と扱われてきました。

次は血縁関係です。これは土地よりももっと明確に分かれています。ある種の種族と言いますか、生物学的なことも含めいわゆる漢族とこれらの3民族は違います。

例えば日本人にもある「蒙古斑」ですが、これはモンゴル人にはありますが、漢人にはありません。一部で「漢人にもある」という人がいますが、それはちゃんと歴史を学ばないといけません。

そもそも清国も元はもちろん、隋や唐やその前の金だって統治者は漢人ではなかったのです。この5王朝は全部北方の遊牧民や遊牧・狩猟民族系です。

こうした民族が漢人中国を征服していたので、混血があったのは当たり前ですから、蒙古斑だってどこに出没するかはわかりません。

次は言語です。これも全然違います。モンゴル語はアルタイ系ですし、ウィグル語はモンゴル語と同じ体系を持つと言われるトュルク系です。当然ですが、語順から文字まで全部漢語とは違います。

チベット語はよくわかりませんが、チベット・ビルマ系と言われていますし、チベット語の表記はサンスクリットを表すために作られたとも言われていますから、インドの影響が強いようです。

そもそもこんなに長い間隣合わせにありながら、なんで漢字の影響が全くないのかが不思議です。漢人の中実質的にはいろんな民族に分かれていますが、それでもなんとなく「漢人」というアイデンティティがあるのはこの漢字という文字ですし、漢人はこれには強烈な誇りを持っています。

そんなに立派な漢字がありながら、なんで「同じ中華民族」であるこれら3民族はいずれも漢字を使わなかったのでしょうか?

これら3民族の文字の方が漢字よりも遅かったのですから、いくらでも「同じ中華民族」に伝える機会があったはずです。海を隔てた日本に伝播するよりもよっぽど簡単でしょう。

宗教についても明確に違います。チベット族は当然チベット仏教ですし、モンゴル族は「ダライラマ」の命名者であるほどで、当然チベット仏教です。

ウィグル族は昔は仏教だったようですが、現在は強烈なイスラム教なのはご存知の通りです。中国には、仏教もイスラム教も入りましたが、共産党以前でもこの2大宗教は中国の主流宗教とはなりませんでした。

伝承も当然違います。いつまで遡るかは別ですが、例えばモンゴル族やトュルク系の民族はテンゲル信仰があり、民族の祖先は「狼」や「鹿」などの動物が出てくる伝説があるのは、よく耳にすると思います。

漢族にとっては何でしょうか?始皇帝で有名な秦でしょうか?実はこの秦も漢族ではなく、北方の遊牧系だという話もありますが、まあ、いいでしょう。そこにアイデンティティがあるとしても、この3民族はそんなことこれっぽちも思っていません。

あえて秦をいうのであれば、モンゴル族にとっては、この頃の「ご先祖」は匈奴です。モンゴルではフンヌ、と言います。漢人が自分たちの始祖と信じる秦の時代にこの匈奴は北の大国として存在していたので、これは100%自らの始祖が違うと信じていることの証明でもあります。

(続く)






Last updated  2017.10.30 22:09:52
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2017.10.25
カテゴリ:ユーラシアの歴史
中国共産党大会の話題がニュースに載ると、頻繁に目にする文句が「中華民族の偉大なる復興」という文句。

一般の日本人の方々には「また習が大ぶろしきを広げて」という程度の認識かもしれませんが、多少なりともモンゴルやチベット、ウィグルの人たちと縁がある人には「何言ってんだ、こいつ?」と聞くたびに思うことでしょう。私もいつもこの言い方には「カチン」と来ます。

もちろん、一般論的に言えば習が言いたいことの概要はわかります。「19世紀以降、中国は欧米諸国に加えて日本からも植民地化や侵略をされたので、遅れた国になってしまった。それを救った共産党が、過去の栄光を取り戻すべく頑張ってますよ。いつか世界最強の国になるべく復興させますよ」と国民に言いたいのでしょう。そうしたメッセージを発したい気持ちは、まあいいとしましょう。

問題は、わざわざ「中華民族」というのはなぜか?「復興とは、いつの栄光に戻るのか?」ということです。当然ですが、このインチキ臭いスローガンには矛盾、不快感、自己中心的思想が満ち溢れています。

まずは中華民族を見てみましょう。私は「民族」というテーマに興味を持っていますので、そういう関係の本は相当読んでいる方だと思います。

ただ、いくら読んでもなかなか世界共通のこれだ!と言える「民族とは何かの定義」はないのです。完全に共通なものはないとはいえ、それでも多くの研究者の間では一定程度の共通認識はあります。

ウィキペディアでは「民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。 土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。」とあります。

これに種族的(生物学的)概念が入ったり、エスニシティ(歴史の共有など)をどう含めるかなどでは、議論はいろいろ分かれるようです。

が、細かいことを別にすれば、上記の定義を使うことで問題ないと思います。では、ここでモンゴル族、チベット族、ウィグル族が「漢人らと同じ中華民族」に含まれるか確認してみましょう。しかも一つ一つを。

まず土地です。これは千年単位で明確に分かれています。もちろんここで言うのは「中国共産党の侵略で、漢人の居住者数が急増したここ70年前以降のことは取りあえず無視します。それをやったら、民族の話以前の問題になってしまいますから。

ここで我々も認識しなければならないのは、日本のように島国でしかも千年単位で外国からの大きな侵略を受けたこともないような国や民族は珍しいということです。しかも海を隔てているので、国境なんて概念のない時代から自然と「境」はあったのです。

当然ですが、アイヌ民族、琉球民族、更には東北の蝦夷(えみし)など、この島国の中では複数の民族がいましたが、海を越えての大きな交わりはほとんどなかったわけです。

何を言いたいかと言えば「この島にいた民族たち」と「大陸にいた民族たち」との間では往来や移住はあったものの、その「境」はずっと比較的明確だったということです。

それに対して陸続きの大陸では、大まかなくくりでの民族の居住地はあったものの、その境界地帯は他民族との接続地帯として混合地帯が結構あったというのをまず頭に入れておかねばなりません。


(続く)






Last updated  2017.10.29 19:39:44
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