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田崎正巳のモンゴル徒然日記

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モンゴル2008@ Re[4]:ジンギス・カン料理の名前は変えられるのか?(08/16) 七詩さん、ありがとうございます。今の中…
七詩@ Re:ジンギス・カン料理の名前は変えられるのか?(08/16) 社会主義体制下のモンゴルではジンギスカ…
モンゴル2008@ Re:ジンギス・カン料理の名前は変えられるのか?(08/16) じょんたのおばあちゃんさん、ありがとう…
じょんたのおばあちゃん@ Re:ジンギス・カン料理の名前は変えられるのか?(08/16) 追伸です。 Facebookに私の自分の言葉で訴…
じょんたのおばあちゃん@ Re:ジンギス・カン料理の名前は変えられるのか?(08/16) おはようございます。 確かに「ジンギスカ…

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モンゴルの近現代史

2019.08.13
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このブログで何度かお伝えしている通り、今年はノモンハン事件(ハルハ河戦争)があった1939年から80周年の年になります。

これに合わせて、7月に日本とモンゴルの合同シンポジウムがあったりしたのですが、当然のことながら80周年を「祝う」行事は他にもいろいろあります。

7月にハルハ河に行った時、日本人が建てた戦没者モニュメント前で皆で哀悼の心を捧げました。

その時にそのモニュメントの一部が壊れていたので、ウランバートルからそれを修理するためのモンゴル人が来ていたことは、このブログでもお話ししました。その修理をする建設会社の社長さんが、偶然に今年の冬に新宿で一緒にお寿司を食べた人だったことも書きました。

その時に何げなく聞いた言葉が頭に残っていました。「8月末にプーチン大統領が来るから、その時までには綺麗にしておかないといけない」ということでした。

その日程のことかどうかは確認はしていませんが、プーチン大統領が9月3日にウランバートルにやってくると聞きました。当然のことながら、ハルハ河戦争祝勝80周年を祝うためでしょう。

このこと自体は、日本人としては何か言える立場にはないのですが、残念ながら釈然としないところはあります。なぜか?

ハルハ河戦争でソ連がモンゴルを助けて、満洲・日本軍を退けたのはその通りですが、それによってモンゴルは何を得、何を失ったのかも考えないといけないと思うからです。

現代史のモンゴル歴史家であるS.バートル氏は次のように述べています。

「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところがこの戦争に先立つ1年半の間に、「国家反逆罪」で有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数にのぼった。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけとって見ても、19,895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる。」

この数字はモンゴル側だけの数字で、しかも一般的にモンゴル人の間で有名な第二次世界大戦後の「粛清」の数字は含まれていません。純粋なハルハ河戦争前の数字です。

モンゴルの被害を助けてくれたのがソ連とすると、ソ連はモンゴル人のハルハ河戦争による死亡者・行方不明者を「わずか」269人に抑えてくれたという意味では大きな意味があったのだろうと推察します。

ですが、その前にモンゴル人19,895人を処刑せよと指示したのもソ連だったのです。

2万人近くを殺しておいて、モンゴルを助けたというロシアもロシアですが、それ以上におかしいのは「ロシアのお兄さんたちのおかげで、モンゴルはハルハ河戦争に勝利した」と喜んでいるモンゴル人は、一体何を考えているのでしょうか?

もちろん、こうしたおかしな話に気づいているモンゴル人もいますが、「私たちは、何でも言いたいことは自由に言う」と威張っているモンゴル人の偉い人たちも、ロシアに対しては何も言えないのが現状なのです。

それはガソリンという現代のエネルギーの重要戦略物質をほぼ100%ロシアに抑えられているからです。モンゴルが原油産出国なのに未だに原油は100%輸出するだけで、自国内では利用できないことも、もとはと言えばロシアがモンゴルに製油所を設立することを認めなかったことに遡ります。

社会主義時代ソ連は「石油精製所建設、水力発電所建設、モンゴル鉄道の輸送力強化事業」など、数多くのプロジェクトに反対してきたのです。

2010年まではモンゴルはロシアの国営会社からその会社が勝手に決めた値段でガソリンを輸入するという方法しかありませんでした。

現在は中国からの輸入を始めたので、ロシア依存度は95%になりましたが、やはり極端に依存していることには変わりありません。

新空港とロシアとは一見何の関係もなさそうですが、実は大きな関係があるのです。

  • ff760535de13756b2fd89c70b219f04e.jpg


モンゴルの評論家、ジャルガルサイハンさんによれば

「新国際空港にも燃料調達の選択ができるようになることが期待される。航空燃料に関しては2種類の規格がある。それはロシア規格のTC1と国際規格のJetA-1である。航空会社は両方の規格の燃料を使っているが、1機の航空機の主翼にある燃料タンクに混合して使うことはない。モンゴル政府は日本政府に何度も要望を出し続け、新国際空港にTC-1のみを入れる2,000トン容量の4つの燃料貯蔵タンクを建設した。」

のだそうです。つまりモンゴル政府自ら、燃料調達の多様化をできないようにしてるのです。

モンゴル国内の有力会社同士が、新空港会社への燃料調達会社になるべく争っていますが、ロシア規格の航空燃料にしたので、どう争ってもロシアの国営会社から買うしかないのです。こうした、一見表立ってはいない舞台でのロシアの政治力は全く衰えていないようです。

ハルハ河戦争は日本側が悪い。この見方に私は全く疑いの余地は持っていませんが、それを助けてくれた「ソ連のお兄さん」が、その戦争の100倍近くのモンゴル人を殺し、その後長い間、今に至るまでモンゴルを支配し続けていることを、モンゴル人は一体どう考えているんだろうと、ちょっと不思議に思っています。

9月3日に来るプーチンは、お得意の存在感ある言動で、より一層モンゴルの政界を縛り続けることでしょう。






Last updated  2019.08.18 17:56:46
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2019.07.16
ノモンハン戦争の戦場跡地訪問も終了しました。


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  • 今も80年前と同じ姿の、のんびりした馬たちの姿です。


    来るときにチョイバルサン空港から11時間もかかったので、明日は早朝4時出発です。

    前日はハルハ河現地での宿泊で、ほとんど満足な食事とは行きませんでしたが、今晩は最後の晩餐ということでご馳走が出ました。


    IMG_1181.JPG

  • ホルホグです。羊の肉を丸ごと熱した石で野菜と一緒に蒸し焼きにしたものです。ウランバートルではなかなかお目にかかれない豪勢な料理です。




    今回のハルハ訪問には、チョイバルサンから大変重要な人が合流してくれました。


    IMG_1182.jpg

  • バルガ族のトゥメンウルジーさんです。


    バルガ族と言うのはモンゴル族の一つの部族です。今のモンゴル国の多くはハルハで、南モンゴル(内モンゴル)にはチャハルが多いですが、この2つの集団以外にも多くの部族があります。

    バルガ族はロシア革命などで難を逃れてホロンボイル高原に南下してきたブリヤード人らがその先祖とされています。

    モンゴル族のアイデンティティは、モンゴル語(もちろん、方言は多い)を話すことと、遊牧・狩猟などを生業とする人たちです。

    ノモンハン戦争の時はハルハ河より西のモンゴル国側にはハルハ族、東の満洲国側にはバルガ族が住んでいました。

    その背後の支援勢力がソ連と日本だったのです。ソ連と日本はお互いを敵視していましたから、戦おうが何しようが問題ないのですが、ハルハとバルガはともにモンゴル人です。

    このことが、戦争そのものよりも大きな悲劇を生みました。要するに、お互いモンゴル人同士ですし、通婚もあったようです。憎み合う理由もなければ、殺したいなんて思うはずもありません。

    むしろ当時の「モンゴル人全体」としていれば、できれば仲良くなりたい、ロシアや中国にバラバラにされた民族をもう一度一緒に一つになりたい、という願望があったのです。

    同時にこの「汎モンゴル」の思想に対しては、中国もソ連も、日本までもが「危険な考え方。絶対に阻止しないといけないこと」との共通の危機感を持っていたことが、更なる悲劇につながったのです。

    ハルハ族がバルガ族と会って、少しでもニコニコして和やかな雰囲気を持ったら、ソ連は「危険人物。スパイ」と見なしました。ソ連だけではありません。日本人も同じ考え方を持っていました。

    当時は「スパイかもしれない」イコール「粛清」、つまり処刑を意味しました。事実、たくさんのハルハ人とバルガ人が殺されたのです。敵国ではなく、自分たちを「保護」する国によって。

    恐らく遊牧民らしい穏やかな挨拶をしたことでしょう。「サエンバエノー」と言いながら、匂いたばこを交換したかもしれません。それら遊牧民としての当たり前の行為は、ソ連と日本から見たら「危険な行為」となったのです。


    そんな背景を持つバルガ族のトゥメンウルジーさんです。ご両親は第二次大戦後、中国化する満洲を逃れて「モンゴル人の国」モンゴル人民共和国へ逃亡してきました。


    IMG_1185.JPG

  • この写真のご両親は、モンゴルに入った後、「日本のスパイ容疑」で殺されました。

    もちろん、ハルハ人がバルガ人を憎んで殺すことはあり得ません。当時のモンゴルにはほとんど主権がなく、すべてはソ連の言いなりでした。モンゴルの首相さえも簡単にソ連により殺されていた時代です。

    トゥメンウルジーのお兄さんは、ノモンハン戦争で満洲国側の戦士として活躍したそうです。その後、モンゴル人民共和国に渡りましたが、結果はご両親と同じで、粛清されました。

    幼かったトゥメンウルジーさんだけが生き残ったのです。

    まさに「中国内に残って、漢人によるモンゴル人粛清」にあうか「モンゴル国に逃亡してスパイ容疑で処刑されるか」、行くも地獄、残るも地獄しか待っていなかったのが、当時のバルガ族だったのです。

    実は、ノモンハン戦争の戦場で亡くなったモンゴル人(ハルハとバルガ)よりも、その前後でソ連人や満洲国(つまり日本人)の手で粛清された人数の方が多いという事実があります。

    この流れは、社会主義時代のモンゴル国の粛清、南モンゴル(内モンゴル)におけるモンゴル人の大量殺戮にもつながる思想がベースにあるのです。

    この話は、別の日にまた本ブログで書きたいと思っています。

    今回この場で、互いに戦争をしたモンゴル人と日本人が仲良くなれて平和になったことを喜ぶだけでなく、厳しい運命を背負わされたバルガ族の彼が同じ場にいてくれたことに、私は本当に感謝しました。

    トゥメンウルジーさんは、日本人にもハルハ人にも言いたいことは山ほどあるでしょうけど、終始穏やかでニコニコしておられたのが印象的でした。ちなみに彼は苦労して勉学し、その後モンゴルの国会議員にまでなったのだそうです。




    翌朝4時のキャンプ地です。


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  • 曇りが多かったですが、なんだか最終日は晴れそうな感じでした。



    早朝の草原です。


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  • どこまでも続く草原。




    ようやくゲルが見えました。


    DSC_0230.JPG

  • 写真左に小さく数軒のゲルが見えます。写真中央右の黒いのは犬です。あのゲルから朝の散歩に出ているのでしょう。



    何やら異様な人工物が見えます。


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  • 手前だけでなく、遠くにも大きな建機のようなものがいくつも見えます。


    近づいて見ると。


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  • 大きな掘削機械です。

    これは石油の掘削をしているのです。実はソ連時代からモンゴルのここドルノド県では石油が埋蔵されていることはわかっていました。

    今ここで石油を掘っているのは中国企業です。掘った原油は全量中国へ送られて、そこで精製されます。モンゴルでどんなに石油が採れても、ガソリンは輸入するしかないのが現状です。



    旅の途中、ずっと曇天が続いていましたが、遂に晴れました。


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  • やっとモンゴリアンブルーに巡り合えました。

    今晩なら満天の星が見れるだろうなあ、と心で思いながらハルハの地を後にしました。


    (完)






    Last updated  2019.07.25 15:52:55
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    2019.07.15
    いよいよ、本当の戦場跡地です。

    前日行ったところも本当の戦場跡地なのですが、ほとんど痕跡は残っていませんでした。

    が、今日訪れたのは「屋外ハルハ河戦争跡地保存時域」とでも言うべき、80年前の戦争の爪痕を今日に伝える場所なのです。

    まずは入口です。


    IMG_1172.JPG

  • この一帯の案内図です。

    よく見ると、車や飛行機などの絵が描かれているのが見えます。ここにはこうした残骸が残っているということです。


    入ってすぐに目についたのは、掘立小屋です。


    DSC_0143.JPG

  • これはソ連・モンゴル軍の基地だったところです。

    草原の中のくぼんだ場所にありました。80年前の木造にもかかわらず、しっかりと残されていました。中に入っても、3‐4人は動けるスペースがありました。


    このソ・モ連合軍基地から見える光景がこれです。


    DSC_0147.JPG

  • 写真中央に二本の柱が立っているのが見えます。ここが日本側の陣地でした。

    まさに、ほんの数百メートルしか離れていない感覚で対峙していたのがわかります。鉄砲でも大砲でも簡単に届きそうな距離です。



    対する日本軍の基地はどうだったのでしょうか?木造建築なら日本の方が優れていそうですが・・・


    DSC_0222.JPG

  • これだけ?はい、これだけです。

    いわゆる土豪です。ちょっと穴掘って、木の柵みたいなので土を押さえているだけ。はっきり言って、ほとんど無防備と言えばその通りです。

    いろんな書物を読むと、彼我の戦力の差は歴然としており、1:10どころか1:100くらいの差だったようです。

    例えば、ソ連の戦闘機100機に対して日本側3機とか。日本側は高性能で、1機で3機や5機を相手に撃ち落としたとありますが、だから何だというんでしょうか?勝てるはずありません。


    戦闘機の残骸です。


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  • これはソ連製だそうです。

    同行した日本人の中に自動車や機械のエンジニアの方々がおられて、「80年前でこんな素材を使っていたのか!」と日本との差を説明してくださいました。

    翼にアルミを使い、軽量化を図っていたとのこと。80年前はソ連の方が技術的にずっと進んでいたのでしょう。



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  • 飛行機の残骸は、あちこちにありました。日本側のはもともと少ないせいか、見当たりませんでした。



    車もありました。


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  • オープンカーで、恐らくフォルクスワーゲンのビートルのような形をしていたのではないかと推測されます。

    驚くことにサスペンションなどもしっかりしていて、とても80年前から放っておかれた状態には見えませんでした。



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  • これは日本軍の車のようです。メーカー名も全く分からないほど、朽ち果てていました。


    このブログだけではお伝えきれないほどの大量の残骸が残っていました。


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  • こんな薬きょうもそこら中に落ちていました。鍋釜などの生活用品や小型の武器のなどもありました。

    が、当然のことながら物量的には圧倒的にソ・モ連合軍の方が多く、日本側には情けないような軽量品(飯盒や虫よけの網を付けた帽子とか)しかありませんでした。

    ノモンハンのことを書いた本の多くには「重火器で装備したソ連軍」と「竹やり装備の日本軍」みたいに書かれていましたが、本当にそうなんだと思うばかりです。


    こんな遠い戦場にも日本人の遺族の方々が訪れていた跡がありました。


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  • 実はロシア側の慰霊碑もあり、それは大きくて立派です。しかも、とても綺麗に清掃され、生花が供えられていました。遺族を思う気持ちには、国の違いはありません。


    今回訪れて思ったのは、こうした戦場跡地は「たまたま残っていた」わけではないということです。

    モンゴル側がロシアと共同で意図的にこの地を整備し、保存してきたのです。なので、ハルハの他の地域にあった残骸をこの保存地域に移動させて置いたというのもあるそうです。

    この地に、日本人がモンゴル人の案内で訪れる平和な今に感謝せずにはいられません。

    モンゴル人は他の東アジアの国々とは違い、戦争結果を政治や資金援助の駆け引きに使おうという人たちではありません。

    社会主義時代には「反日思想」が教育されましたが、それを今も引きずっている人も見当たらないほどの親日国家です。昔を共に悲しみ、思いをはせてくれる人たちでした。

    ここは日本人として感謝しないといけないと思います。

    (続く)






  • Last updated  2019.07.24 12:04:17
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    2019.07.14
    戦場を巡る旅は更に続きます。


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  • これはまさに戦場となったハルハ川の支流のホルステン河です。



    こういうのどかで小さな河のそばには、馬たちものんびり草をはんでます。

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  • この馬たちの行動を国境侵犯というのが、日本軍の論理です。まさに「こじつけ」としか言いようがありません。


    この辺りは昔ながらの、のどかな遊牧民が住んでいます。


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  • 少年たちがモンゴル相撲をやっています。

    ウランバートルではもうなかなか見ることはできませんが、田舎へ行けば相撲を取っている少年を目にすることは多いです。




    日本人慰霊碑の一部が壊れかけていたので、修理をするためウランバートルから職人さんらがやってきました。


    写真5
    実はこの建設会社の社長さんとは、数か月前に日本の新宿で一緒にお寿司を食べました。まさか、この西の果てのハルハで再会するとは思ってもいませんでした。

    なんでも、この日本人戦没者慰霊碑がある「ソ連・モンゴル ハルハ河戦争博物館」には、8月にプーチン大統領も来るのだそうです。それもあって、この慰霊碑も綺麗にするのだと言ってました。

    中国と北朝鮮の「血の友誼」もそうですが、やはり戦争で共に血を流した関係を重視するのは、政治としての大事な行動なんだと思います。

    ロシア側から見れば、今のモンゴルにとってロシアは過去の存在のようになってしまっているかのようですが、「ロシアがモンゴルを助けた。共通の敵は日本。」を常に意識させるのは、重要な政治的行動なのだと思います。



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  • 慰霊碑には、日本語、モンゴル語そしてロシア語で平和への祈りが書かれていました。

    この慰霊碑の前で、皆で1分間の黙とうを捧げました。

    そして、正装したモンゴルのトッププロ奏者、アマルバヤルさんの馬頭琴の音色が、日本人戦没者慰霊碑に響き渡りました。

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  • 日本の歌も含めた音楽が、無念に散った日本兵の魂に届くといいです。


    慰霊祭には地元の子供たちも参加しました。


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    たくさんの子供たちがやってきました。手にしているのは、日本から持ってきた歯ブラシセットのお土産です。



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  • 最後に記念撮影です。



    同行者の中には、メディアの方もおられました。


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  • 同行された共同通信の記者の方です。

    携帯もインターネットもつながらない場所でも、衛星とつなげて日本と電話したり、ネットで記事を送ることもできます。

    この写真右側にある白い弁当箱みたいなのが、衛星通信向けのアンテナみたいなものだそうです。日本の編集の人と「今日の締め切りに間に合いますか?」みたいに普通に話していました。


    その記事はなんとその日のうちに新聞のニュースに載っていました。


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  • これは日経新聞のネット上のニュースです。共同通信ですから、全国の地方紙などにも載ったことでしょう。


    80年前の悲惨な戦争の思いの中で通信衛星を使うハイテク装備を見て、なんだか映画に出てくる「通信兵」のように感じてしまいました。

    この後は、いよいよ屋外の戦争遺品を残してある保存地域に行きます。

    (続く)






    Last updated  2019.07.23 16:37:07
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    2019.07.13
    ハルハ河に到着しました。

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  • 信濃川のような大河ではないですが、モンゴルとしては結構大きな河です。



    近くには牛や馬たちがのんびり草を食んでました。

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  • こうした家畜たちが、ハルハ河に水を飲みに来るのは当たり前のことですし、ハルハ河を渡って向こう岸に行くのもごく日常的な光景なんでしょう。

    その馬を追いかけてきた遊牧民を見て「国境侵犯」として武力で襲ったのですから、明らかに日本側に非があったと思います。


    私たちは実際の戦場となった場所へ行きました。

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  • ここはモンゴル・ソ連連合が拠点としたところです。平原が続く中にある比較的凸凹した高台です。




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  • 思ったより傾斜が強い登り道でした。


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  • 頂上へ行くと、結構見晴らしがいい高台です。こちらからは日本軍は丸見えだったというのがよくわかります。



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  • 平成4年や10年に日本から慰霊団がやってきた記念碑がありました。

    平成4年と言えば1992年とまだモンゴルは民主化した直後でモンゴル社会は混乱していた時期です。

    しかも当時は社会主義時代の反日教育が色濃く残っていたでしょうから、親日で優しいモンゴル人に囲まれながらここまでやってきた私たちとは全く違う苦労があったことでしょう。

    何のために戦い、戦死したかもわからないような戦争で命をなくされた方、その遺族の方々の無念の思いは本当に辛いものがあったと思います。



    慰霊碑にはこんなものも。

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  • ヘルメットです。しかも弾で打ち抜かれた日本軍のヘルメットでした。むごいというしかありません。


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  • 別の慰霊碑です。なんだか1枚でも多く慰霊碑の写真を撮って帰るべきだと思いました。もしかして何かのきっかけで、ご遺族の方が本ブログのこの写真を目にしていただける方がおられたらいいなという思いで載せてます。



    私たちにできることは、黙とうして慰霊の気持ちを捧げるだけです。
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  • 心からの黙とうの念を捧げました。


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  • モンゴル馬頭琴奏者のトッププロのアマルバヤルさんが、ここでも馬頭琴を演奏してくれました。ここではモンゴルの曲と日本の曲も弾いてくれました。日本の調べが天に届くように祈ってます。


    (続く)






  • Last updated  2019.07.20 21:28:10
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    2019.07.12
    長い長い道のりを経て、ようやくハルハに到着しました。

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  • ハルハ河 90と書かれています。

    これはハルハ地域全体を見下ろせる場所で、1990年にロシアと共に建てたものです。



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  • 遠くに戦場だった場所が見下ろせます。左の高い塔は、ハルハ河戦争記念碑で、右にハルハ村(ソム)が見えます。



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  • モンゴルとロシアが共に戦った地として書かれています。

    忘れてはならないのは、日本は敵国であり、モンゴルはソ連兵に助けられてこの戦いに勝利したということです。

    当然のことながら、アジア各地に残る戦争記念碑はほぼすべてが「日本が敵国」であったということです。戦争の傷跡は、何年たっても消えることはないと改めて思いました。


    上記写真のハルハ村に降りて、戦争博物に行きました。

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  • ここでも主役はモンゴルとソ連であり、日本は敵国です。


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  • 建物は一見立派ですが、もう50年近く経っているので、建物自体は相当劣化しています。実戦で使われた戦車も展示されてます。



    その建物のすぐ目の前に、日本兵の慰霊碑が建てられていました。

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  • 2001年に京都の知恩院などが中心となって建てたものです。明日はここで慰霊祭を行う予定です。


    ハルハ河戦争博物館の中は、戦死者の名簿や数々の写真が展示されていました。


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  • ここにはモンゴル人兵士の戦死者の名前が書かれています。


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  • たくさんの戦場の写真がありました。


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  • これは戦場マップと言えるものです。

    やや左側にある青く蛇行している線が「ハルハ河」で、日本側が主張した満洲とモンゴルの国境です。

    中央部の左上から右下に書かれている直線が「ノモンハン・オボー」を貫く、モンゴル・ソ連側が主張した国境です。なので戦争は主として、この2つの国境線の間で行われたことがよくわかります。

    地図の左側(モンゴル・ソ連連合軍の陣地)の方が標高が高く、右側の日本陣地を良く見通せたことがわかります。(ハルハ河の左側は等高線が寄っており、高地になっているのがわかる。)


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  • 日本兵の遺留品も展示されていました。



    この後、更に戦地跡地に行きます。

    (続く)






    Last updated  2019.07.20 13:27:17
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    2019.07.11
    私たちを乗せた6台の車は、真っ暗な大地を突き進んでいきました。厚い雲に覆われて、残念ながらモンゴル特有の満天の星は見ることはできませんでした。とはいえ、日本の空気の澄んだ田舎で見れるレベルでした。

    真っ暗な道でもスピードはすごいです。時には時速90kmや100kmも!遠くで見るとまっ平らな草原ですが、実際には凸凹がたくさんあります。穴が開いてたり、石があったり。もちろん、草原そのものも舗装路とは全く違います。

    こうした集団で運転するときは、日本人であれば常に「6台一緒かな?」を確認しながら走行しますが、モンゴル人はある程度は意識するものの、あっという間に見えなくなるほど離れてしまいます。

    そんなこんなで、真っ暗闇の中、道に迷ってしまいました。他の車はどうしてる?と思っても、もちろん見えません。携帯電話の電波すら届かない大草原の真ん中です。

    ドライバーは、地元の人もいれば、ウランバートルからの人もいます。あれこれ迷って、ようやく他の車たちと再会し、一路目的地ボイル湖を目指しました。

    ようやく到着したものの、1台がいません。なので、私たちを下ろした後、再び草原に向かって探しに行きました。結局、40分ほどで最後の1台が到着することができました。

    当初の予定では夜中の12時か1時ころの到着でしたが、大幅に遅れて早朝の4時半到着となってしまいました。

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  • へとへとになった私たちは、ボイル湖のほとりにあるリゾートキャンプに入りました。

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  • モンゴル東部から中国北部にかけての大きな草原をホロンボイル高原と呼びますが、これはホロン湖とボイル湖周辺の草原であることを意味します。
    そのボイル湖がここです。

    DSC_0015.JPG

  • 手前は砂浜で、その先にボイル湖があります。


    なかなかきれいなキャンプ地です。ゲルのような形をした固定式住居でした。もちろんトイレ付きです。

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  • こんなリゾート地ならなかなかいいなと思いましたが、当初の予定ではここを朝8時過ぎには出発のはずでした。部屋に入ったのは5時半過ぎですから、ほんのちょっと横になってから出発しないといけません。


    ですが、結局皆寝入ってしまい、朝10時過ぎまで休んでいました。湖まで行ってみると、何組かの家族がリゾート気分でのんびりと日光浴をしていました。

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  • この湖は随分と遠浅です。お父さんと小さなお嬢ちゃんが、かなり沖まで歩いていきましたが、こんなに浅いです。

    ここ数日雨が降ったから大丈夫でしょうが、モンゴルは雨が少ないので、場合によっては湖の大きさも結構縮んでしまうのではないかと思いました。


    リゾート気分を味わう間もなく、わずか数時間の滞在でハルハ河へ向けて出発です。

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  • 朝、到着した時から気になっていましたが、このプリウス、とてもじゃないですが自力脱出は無理でしょう。

    恐らく後でランクルに引っ張ってもらうことになるでしょう。こんなところへプリウスが来てはいけないということです。


    昨晩は真っ暗で外の景色は見えませんでしたが、やはり大草原は続きます。


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  • こんな景色が延々と続きます。何枚も写真を撮りましたが、どれも似たようなものです。


    道もこんな感じ。

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  • 送電線に沿って草原の道は続きます。

    人間は休憩できましたが、車も給油が必要です。ガソリンスタンドは滅多にないので、あるところで入れておかなければいけません。


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  • この2台、どちらもランクル(正確には1台はレクサスLX)ですが、給油口が左右逆です。微妙な違いを発見して、なんだかうれしくなりました。


    そして再び出発です。

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  • 私たちのランクルは最終尾車として、全員を確認しながら進みました。



    (続く)






  • Last updated  2019.07.19 13:27:48
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    2019.07.10
    ノモンハン戦争80周年シンポジウムのあった翌日に、日本人モンゴル人合わせて28名程度がノモンハン戦争のあった現地ハルハ河に向かいました。

    昨年から、「今年はハルハ河方面に行く!」と決めていました。オプションは2つ。友人のUさんとのんびりキャンプでもしながら行くか、このツアーに参加するか。

    日本人にとってモンゴルはビザ不要で自由にどこへでも行ける国です。が、このハルハ河地域の中国との国境付近は違います。事前に国境警備軍の許可証が必要なのです。

    また私なりにノモンハン戦争についてはいろんな文献を読んではいますが、日本のトップクラスの研究者と同行できるのは大きな魅力です。これらのことから、「のんびり個人旅行」ではなく「研究者らとのグループ旅行」を選びました。

    ハルハ河は首都ウランバートルからは遠く、飛行機でドルノド県の県庁所在地であるチョイバルサンまで1時間半。更にその後車で7時間の予定です。

    もちろん、その行程は舗装道路なしというか、そもそも道路はないので、草原の轍を走ることになります。ゴビやフブスグルへの旅行でも車での大草原走行は経験していますが、さすがに7時間走りっぱなしはありません。

    • IMG_1035.jpg


    ウランバートル空港で乗り込みます。飛行機は1時間遅れで出発しました。

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  • 窓から見える風景は、もちろん果てしなく続く草原です。



    チョイバルサン到着は夕方5時半でしたが、まだまだ昼間のように明るかったです。
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  • フンヌエアーのプロペラ機でしたが、結構快適でした。

    フンヌというのは漢字で書くと匈奴。そうです、昔歴史の授業で学んだ「きょうど」です。モンゴル人は、この匈奴をモンゴル人の祖先の国と考えています。

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  • これがドルノド県のチョイバルサン空港です。チョイバルサンは、モンゴル国独立時の有名な将軍です。


    ここからは車です。
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  • ご覧の通りの「ランクル軍団」です。

    正確には、ランクル2台、レクサスLX2台、アルファード1台、ハイエース(ワイド版)1台の合計6台に乗り込みました。

    アルファードとハイエースは、これからの難路大丈夫かなとちょっと気になりましたが、まあドライバーはプロですから大丈夫でしょう。

    私はランクルに乗り込みました。全体の8割近くが日本人ですが、私の車両には日本人は私だけです。ま、日本から来た人たちには、私は「現地側の人」ということになっていたようですから。


    IMG_1045.jpg

  • ドルノド県の草原は、大草原の多いモンゴルの中でもトップクラスの「どこまでも平地の草原が広がる場所」としてモンゴル人には有名な地域です。

    ドルノドの草原をモンゴル人が「車でずっと見ていても、何も景色が変わらない。眠くなって2‐3時間寝て起きたら、まだ同じ場所を走っていた」と表現するほど、平原が続きます。

    モンゴルには大きな草原は多いですが、山も起伏も見えず、何時間も地平線が見え続けるのはドルノド県にしかないかもしれません。

    何時間も走ったら、ようやく夜も更けてきまっした。チョイバルサンのスーパーで買ったパンやハムをサンドイッチにして夕食で食べたら、なんと馬頭琴の登場です。

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  • この奏者アマルバヤルさんは、モンゴル国立馬頭琴楽団のソロ奏者で、モンゴルでも名高いトッププロです。

    こんなすごい人が、一緒に来てくれたのには感激しました。実はアマルさんは、日本で5年間演奏活動をしたことがあり、日本語も上手です。

    私はずっとランクルで隣のシートでしたが、穏やかでとても優しい素晴らしい方です。ちょっとモンゴル人にはいないタイプです。

    大草原で夜空を見ながら素晴らしい馬頭琴の音色を聞くなんて、ウランバートルではありえない贅沢です。

    馬頭琴を聞いていると、やはりこれは街中やコンサート会場の音楽ではなく、草原で聞くべきものだとわかりました。日本人全員が、草原で聞く馬頭琴に大感激していました。私も今まで聞いた中で最高だったと断言できます。

    しかしながら、夜はどんどん更けていき、周りは真っ暗になっていきました。もう草原が凄いとか言ってられません。そしてついに、懸念していたハイエースが沼地にハマってしまいました。

    まっすぐの道(轍)が連夜の雨で大きな水たまりになってしまったところがあり、それを避けようと草が多いところへ進んだのですが、そこがなんと草が茂っている沼地のようになっていたのです。モンゴル人らは「これは避けられなかった沼地だな」と言ってました。

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  • で、ランクルです。ロープでけん引したら、たくさん人を乗せたままで重いはずのハイエースを力強く引っ張り上げました。

    いやー、やっぱり陸の王者ランクルです。昨今のなんちゃってSUVとはわけが違います。

    やはりモンゴルの大草原を走るには、1台だけでの走行は、たとえ夏でも危険であることがよくわかりました。

    (続く)






    Last updated  2019.07.17 12:14:08
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    2019.07.09
    シンポジウム後は、ホテルでパーティでした。場所はなんとシャングリラ!大きなテーブルが5つ6つ出て、フレンチっぽいコースを美味しくいただきました。

    シンポジウムにいなかった来賓が結構していました。

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  • 左の男性は、モンゴル国初代大統領のオルチバトさんです。


    まずは田中先生が挨拶されました。

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  • 田中先生はモンゴル語で話されたので、通訳のUさんは日本人向けに日本語に通訳しました。日本語も知ってる(当然!)田中先生からは、Uさんの通訳に対して「上手な通訳でしたね」と言ってました。


    続いての挨拶は、朝青龍のお母さんことプレブバダムさんです。

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  • 「私は日本人からはいつも「朝青龍のお母さん」としか呼ばれず、名前で呼ばれたことはないんですよ」と笑っていました。

    私は以前、飛行機の中でお目にかかっていたので、今回が二度目でした。朝青龍のイメージとは違って、とても優しそうな方です。


    最後はオチルバト元大統領の夫人のあいさつでした。

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  • この後は、同じテーブルの方々といろいろお話しました。日本人とモンゴル人が8人ほどいましたが、全員初対面です。

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    モンゴルに来るのは4回目という方もいますし、初めてという方も。大学の先生や高校の先生、元新聞社の方や、外語大モンゴル語科卒業の方など、いろんな方がいました。

    モンゴル初心者の方からは、いろいろ質問を受けたのでできるだけ丁寧に答えました。「いやー、あなたの説明は本当にわかりやすいですね!」と言っていただけて、なんだかとても嬉しかったです。

    こうした機会で、少しでもモンゴルファンの日本人を増やしたいと思いました。

    明日からいよいよこの方々(来賓は除く)とハルハ河へ向かいます。予定では、飛行機でドルノド県の県庁所在地へ1時間半、その後は車で7時間とのことです。一体どうなることでしょうか?

    (完)






    Last updated  2019.07.16 17:36:39
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    2019.07.08
    田中先生は、ホワイトボードにハルハ河付近の見取り図を書きながら説明されました。

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  • 以下、先生のお話の骨子を私の理解と合わせてまとめます。ハルハ河戦争(ノモンハン事件)に関心がない方も、日本とモンゴルに縁のある方は是非とも頭の隅にでも入れておいてください。

    まずは、名称から。ご存知の通り、日本ではノモンハン事件、モンゴルではハルハ河戦争と呼びます。

    日本側が「事件」と呼ぶのは、建前上は「正式な宣戦布告をしていないから」ですが、本音は「関東軍が勝手に起こしてしかも大失敗したので、責任を逃れるためにいかにも軽い国境紛争に見せかけるために「大したことありません。ちょっとした事件です」みたいな感じで命名した」というところです。

    この名称の違いが、実はこの戦争(当たり前ですが、両軍合わせてわずか3か月ちょっとで4万人以上も死んだのですから、大きな戦争です)の原因でもあるのです。

    ノモンハンというのは、ハルハ河よりも東、つまり満洲寄りにある地名で、ノモンハニー(ノモンハンの)・ブルト・オボーのことです。

    オボーとは、モンゴルの交通の要所などにあるあのオボーです。ノモンハンのノモンは元々はお経などに由来する言葉で偉い僧侶のことで、ノモンハーンというのは法王と訳すのがいいようです。

    今ではノミン(本)というモンゴル語で一般的に使われています。当時、モンゴル側はこのオボーを起点とする線を国境と見なしていたのです。

    一方の満州国(イコール日本人)は「国境とは通常河や山であるのが常識」ということで、ノモンハンより西側20キロにあるハルハ河を国境と解釈していました。この20キロの違いが、大きな犠牲を強いる戦争につながったのです。

    ハルハ河のあるドルノド県は、モンゴルの中でも大草原で有名な地域です。とにかくまっ平らな草原が延々と続く地です。そこは首都から1000キロ近くも離れた、のんびりとした遊牧民が暮らす土地でした。

    当然、家畜もたくさんいます。ある時、馬がハルハ河に水を飲みに来ました。そしてその馬が、ハルハ河の向こう岸へ渡ったんです。

    なので、遊牧民はその馬を追いかけてハルハ河を渡りました。現地へ行っていればわかりますが、それはそれはなーーんにもないところですから、馬が河を渡るのも自然なことですし、牧民が馬を追うのも生業として当然です。

    遊牧民だから国境なんて知らない、という説を唱える日本人もいますが、それは違います。遊牧民は、我々には目印もわからないような大草原でも、昔から「境界線」は意識してきました。

    その時は、ハルハ河からは国境のノモンハンまで20キロも離れているのですから、何の問題もなく河を渡ったということです。

    が、日本軍はそれを「国境侵犯だ!」と騒いで、無防備の遊牧民を攻撃したのです。要するに殺したってことです。

    これをきっかけにノモンハン戦争がはじまりました。私は満洲事変やその後の日本軍のやり方を見ても、「これは難癖付けるいいチャンス」とばかりに、陸軍本部には内緒で関東軍が勝手に攻撃したのだと確信しています。

    ここからのその後の経緯を書きだすと、とても本章では対応できないので、いつか別の形で皆さんにお届けしたいと思います。

    ただ、田中先生が指摘された重要な点を一つ書きます。それは、バルガ族の存在です。バルガ族というのは、主としてロシア領内にいたブリヤード・モンゴル人がロシア革命などで難を逃れて満洲北部に南下したモンゴル人の部族です。

    モンゴル人には多くの部族がいますが、今のモンゴル国の人口の8割を占めるのはハルハ族です。なので、このノモンハン付近はハルハ族とバルガ族の部族境界線だったのです。

    境界線とはいっても、同じモンゴル人、同じ遊牧民同士ですから、お互い親近感があり、とても憎み合って殺し合う関係ではありませんでした。会えば一緒にたばこで挨拶する(モンゴル人は匂いたばこで挨拶する)関係でした。

    しかしながら、ハルハ人の後ろにはソ連が、バルガ人の後ろには満洲国・日本がいて、ソ連、日本両国とも「モンゴル人同士が仲良くなるのは絶対に認めない」という立場でした。

    通婚もしていましたから、親戚もいたことでしょう。ですが、ノモンハン戦争ではこの両モンゴル人部族が駆り出され、「嫌々ながらも」お互いに殺し合うという悲劇が起きたのです。

    ノモンハン戦争は、小さな領土問題を大きな戦争にしてしまっただけでなく、友好的であったモンゴル人部族同士をも引き裂いてしまった、とんでもない戦争なのです。

    悲劇は続き、当時モンゴル側(ハルハ族とソ連人)と満洲側(バルガ族と日本人)が接触したり、話し合いの場を持ったりもしたのですが、その場にいたハルハ人とバルガ人のほとんどは、その後ソ連と日本によって処刑されたのです。

    敵を殺したのではなく、味方(ハルハ人をソ連が、バルガ人を日本が)が殺したのです。なぜなら「敵同士の場なのに、お互い和気あいあいと仲良さそうにしていたから。」要するにスパイ容疑で銃殺されたのでした。

    このような、なかなか日本国内では語られることがない視点を持つ田中先生ならではの話がたくさん出て、皆聞き入ってました。

    (続く)






  • Last updated  2019.07.15 23:27:14
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