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土曜日の書斎 別室

土曜日の書斎 別室

ノモンハン事件

昭和史断章  太平洋戦争への道


 
  1939 (昭和14) 年5月中旬、 外蒙古 ・ 満洲国間に発生した国境紛争は、 極東ソ連軍 ・ 関東軍の介入によって、 次第に規模を拡大。
  両軍共に戦略単位の兵力を投入しての局地戦争へとエスカレートするに至った。
  ノモンハン事件 と呼ばれる。
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  関東軍の企図は、 紛争初期段階で大兵を一挙投入して、 ソ ・ 蒙軍を撃滅し、 早期停戦に持ち込む事にあったが、 その作戦は、 著しい情報軽視と敵戦力の過小評価 ・ 戦慄すべき自己過信の上に成り立っていた。
  質 ・ 量共に圧倒的優勢を誇るソ連軍の反撃によって、 関東軍は壊滅的打撃を蒙って敗退した。



ノモンハン事件




1


 
  ゴビ砂漠東端ホロンバイル平原。
  ハルハ ・ ホルステン両河合流点付近。

  外蒙古との接壌地である満洲西北部は、 歴史的に国境線の不明確な地域であったが、 ノモンハン事件 に於いては、 同地域を貫流するハルハ河の東岸一帯が係争地となった。
  ハルハ河そのものを国境線と認定している日 ・ 満側と、 ハルハ河東方に国境線を画定しているソ ・ 蒙側の主張が食い違った結果である。

  ハルハ河東岸地区に陣地構築中のソ ・ 蒙軍を捕捉殲滅すべく、 第23師団等・・・関東軍隷下の地上部隊が作戦行動を開始したのは、 1939(昭和14)年7月1日未明の事であった。
  歩兵十三個大隊 ・ 対戦車火器112門 ・ 戦車70両 ・ 航空機180機 ・ 装甲車75両 ・ 自動車400両。
  ソ ・ 満国境の東部 ・ 北部両正面を除く他正面から転用可能な兵力の全てを集中投入しての、 関東軍にして空前の陣容で臨む作戦であり、 優にソ ・ 蒙軍を凌駕し得るものと、 軍首脳部は信じて疑わなかった。
  将兵の士気は、 極めて高かった。

  7月2日未明。
  ソ ・ 蒙軍の退路遮断を策して、 ハルハ河西岸地区 (外蒙領内) へ侵攻した第23師団主力は、 予想以上に強力なソ連軍の反撃に遭遇する。
  数百両もの戦車 ・ 装甲車が、 何群にも分かれ、 前方から、 側方から、 大挙襲来して来たのである。
  師団主力は歩兵二個連隊基幹で、 一両も戦車を帯同していない。
  対戦車火砲をフルに稼働して応戦し、 歩兵による火炎瓶 ・ 対戦車地雷を用いての肉迫攻撃が敢行され、 多数の敵戦車を炎上させたが、 弾薬の補充が続かない。
  加えて、 敵の砲火は激しさを増す一方であり、 徐々に非勢に陥って、 東岸地区への撤退を余儀なくされる事となる。

  同日。
  西岸地区に於ける師団主力の行動と策応して、 戦車二個連隊を主力とする支隊が東岸地区のソ連軍陣地を衝いたが、 熾烈な砲火に突進を阻まれ、 予想外の苦戦を強いられる。

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  7月3日。
  ソ連軍も戦車部隊を投入し、 戦車同士の格闘戦となったが、 砲身が短く、 装甲の薄い日本戦車は、 ソ連戦車の敵ではなく、 次々に撃破されていった。
  日本軍戦車部隊は、 僅か二日間の戦闘で、 半数に当たる約40両を喪失し、 敗退した。

  7月5日早朝。
  西岸地区から撤退した師団主力の加勢を得て、 東岸敵陣地への攻撃は再開されるが、 戦車砲 ・ 重砲を主体とする旺盛な火力で防護された敵防衛線を突破し得ず、 以後・・・日本側は一方的守勢に立たされる事となる。

  紛争の初期段階で大兵を一挙投入し、 ソ ・ 蒙軍を撃滅して、 速やかに停戦に持ち込むという関東軍の企図は完全なる失敗に終わった。
  その作戦構想は、 極東ソ連軍の実力に対する甚だしい認識不足の上に成り立っていた。
  装備に於いて、 物量に於いて、 補給能力に於いて、 ソ連軍は、 日本軍を遥かに凌駕していたのである。

  ・・・質は遂に量には勝てなかった。

  関東軍作戦参謀 ・ 辻政信少佐 は、 後年に至ってからもボヤき続けている。
  然し、 質 ・ 量共にソ連軍に及ばなかったというのが、 ノモンハン事件に於ける日本軍の実態なのである。
  辻政信少佐の云う “質” とは、 兵士個々人の資質を、 それも主として精神的次元に属する、 計量する術のない要素を指しているので有ろう。
  確かに、 必勝の信念とか、 敵を呑む気魄とかは、 実戦部隊の将士にとって不可欠のものかも知れないが、 参謀 という作戦を指導する立場に在る人間が、 濫りにそれを唱えるべきではない。
  近代戦の権威である筈の参謀が前近代的な精神論を必要以上に吹聴するのは、 参謀としての頭脳の貧困を物語るものでしかないのである。








2


 
  ソ連軍が積極的攻勢に出ず、 関東軍が潰滅を免れたのは、 ソ連側に紛争の全面戦争化を回避しようとする意志が働いていたからとされる。
  軍は侵さず、 侵さしめざる・・・とは、 辻政信起案に成る 『満ソ国境紛争処理要綱』 の第一項に満洲防衛の根本基調として謳われているフレーズであるが、 皮肉にも・・・その姿勢は、 ノモンハン事件に関する限り、 日本側ではなく、 ソ連側に於いて確立されていたと云える。
  辻政信は、 戦線が膠着状態に陥ったのを幸いに 勝負なし、 引き分け と嘯く始末で、 独善的な文飾に満ちた 『処理要綱』 の起案者らしい強弁ではある。

  投機的期待感から関東軍の軍事行動を一旦は容認した陸軍中央も、 流石に、 七月初頭からの惨憺たる戦況推移を見るに及んで、 従来の楽観的認識を改めざるを得なくなった。
  中国戦線が泥沼の様相を呈している情勢下での (対ソ全面戦争を誘発しかねない) 国境紛争拡大に、 深刻な懸念を抱き始めたのである。
  軍中央は、 関東軍参謀長 ・ 磯谷廉介中将 を上京させ、 紛争不拡大 ・ 早期収拾の方針を盛り込んだ 『ノモンハン事件処理要綱』 を示達し、 好機を捉え、 兵力を係争地区から撤去する事 (即ち、 ソ連 ・ 外蒙古の主張する国境線外への撤退) を求めた。
  然し、 磯谷参謀長は、 飽くまでもハルハ河東岸地区の確保を主張し、 越境するソ ・ 蒙軍に徹底的打撃を与える事によって初めて紛争不拡大を期し得るものであるとの強硬論を開陳し、 中央の意に服する気配すら見せなかった。
  そればかりではない。
  既に数千の英霊を犠牲にした現在、 ハルハ河東岸地区を放棄することは出来ないと、 ぬけぬけと云い放った。

  数千名もの将兵を犠牲に供したのは、 他ならぬ関東軍の拙劣な作戦指導がもたらした結果である。
  磯谷参謀長は無論の事・・・ 軍司令官 ・ 植田謙吉大将 も、 辻少佐以下の参謀連も、 関東軍首脳部全員が責を負わねばならない事である。
  その自己責任を棚に上げて、 作戦開始以来の戦死 ・ 戦傷者の累計数字を、 聖域の如くアピールし、 軍中央からの批難をかわす盾に転化している。
  本来、 自分達の無能の証明にしかならない事実を、 既に限界を露呈してしまっている作戦を尚も続行する大義名分に摩り替えているのである。
  詭弁の最たるものであった。

  業を煮やした軍中央は、 遂に、 関東軍司令官及び全幕僚の更迭を検討するに至ったが、 時既に遅く、 大兵力の展開を完了したソ連軍の総攻撃・・・ 八月攻勢 の火蓋は切られてしまったのである。

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  八月に入ってから、 ノモンハン戦線は膠着状態に陥っていたが、 ソ連は極秘裏に、 独国との間に 独ソ不可侵条約 の締結交渉を進行させていた。
  この水面下の動きを看取し得なかった日本は、 外交戦略上で、 独 ・ ソ両国から完全に手玉に取られていたと云える。
  例え一時的にせよ、 欧州方面から脅威を除去した事で、 極東方面での大規模な軍事行動が可能となったソ連は、 大攻勢へ向けて着々と準備を整えていたのである。
  そして、 是の日・・・8月20日早朝。
  航空機515機 ・ 狙撃兵三個師団 ・ 戦車二個旅団 (498両) ・ 機甲三個旅団 (装甲車385両) ・ 火砲542門という空前の規模を有する、 ソ連軍の総攻撃が開始される。

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  圧倒的に優勢な装備 ・ 物量を誇るソ連軍の前に、 関東軍の防衛線は全線に渡って粉砕される。
  押し寄せる敵戦車群に対して、 関東軍将兵は火炎瓶 ・ 対戦車地雷を用いての絶望的な肉迫攻撃を敢行するが、 効果らしい効果は得られなかった。
  日本軍陣地は悉く蹂躙されていった。

  ソ連軍の総攻撃開始から五日目・・・8月24日。
  日本軍は、 第23師団の残存兵力 (小林旅団) に予備兵力 (第7師団の森田旅団) を加え、 左翼方面で反撃に打って出るが、 戦況は最早絶望的であった。
  作戦上の投入兵力は二個旅団であるが、 その実質は、 歩兵二個連隊+独立守備隊一大隊に過ぎない。
  十分な火力の支援もなく、 圧倒的に優勢なソ連軍の機械化部隊に太刀打ち出来る筈がなかった。
  左第一線 (森田旅団) は集中砲火に前進を阻まれ、 右第一線 (小林旅団) は戦車群に蹂躙されて崩壊した。
  同日・・・。
  四昼夜に渡ってソ連軍の猛攻に耐えていた、 日本軍防衛線の最右翼拠点 ・ フイ高地が陥落。
  以後、 日本軍陣地は随所で分断 ・ 包囲され、 各守備隊は死守玉砕を余儀なくされていくのである。







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