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ゴビ砂漠東端ホロンバイル平原。
ハルハ ・ ホルステン両河合流点付近。
外蒙古との接壌地である満洲西北部は、 歴史的に国境線の不明確な地域であったが、 ノモンハン事件 に於いては、 同地域を貫流するハルハ河の東岸一帯が係争地となった。
ハルハ河そのものを国境線と認定している日 ・ 満側と、 ハルハ河東方に国境線を画定しているソ ・ 蒙側の主張が食い違った結果である。
ハルハ河東岸地区に陣地構築中のソ ・ 蒙軍を捕捉殲滅すべく、 第23師団等・・・関東軍隷下の地上部隊が作戦行動を開始したのは、 1939(昭和14)年7月1日未明の事であった。
歩兵十三個大隊 ・ 対戦車火器112門 ・ 戦車70両 ・ 航空機180機 ・ 装甲車75両 ・ 自動車400両。
ソ ・ 満国境の東部 ・ 北部両正面を除く他正面から転用可能な兵力の全てを集中投入しての、 関東軍にして空前の陣容で臨む作戦であり、 優にソ ・ 蒙軍を凌駕し得るものと、 軍首脳部は信じて疑わなかった。
将兵の士気は、 極めて高かった。
7月2日未明。
ソ ・ 蒙軍の退路遮断を策して、 ハルハ河西岸地区 (外蒙領内) へ侵攻した第23師団主力は、 予想以上に強力なソ連軍の反撃に遭遇する。
数百両もの戦車 ・ 装甲車が、 何群にも分かれ、 前方から、 側方から、 大挙襲来して来たのである。
師団主力は歩兵二個連隊基幹で、 一両も戦車を帯同していない。
対戦車火砲をフルに稼働して応戦し、 歩兵による火炎瓶 ・ 対戦車地雷を用いての肉迫攻撃が敢行され、 多数の敵戦車を炎上させたが、 弾薬の補充が続かない。
加えて、 敵の砲火は激しさを増す一方であり、 徐々に非勢に陥って、 東岸地区への撤退を余儀なくされる事となる。
同日。
西岸地区に於ける師団主力の行動と策応して、 戦車二個連隊を主力とする支隊が東岸地区のソ連軍陣地を衝いたが、 熾烈な砲火に突進を阻まれ、 予想外の苦戦を強いられる。
7月3日。
ソ連軍も戦車部隊を投入し、 戦車同士の格闘戦となったが、 砲身が短く、 装甲の薄い日本戦車は、 ソ連戦車の敵ではなく、 次々に撃破されていった。
日本軍戦車部隊は、 僅か二日間の戦闘で、 半数に当たる約40両を喪失し、 敗退した。
7月5日早朝。
西岸地区から撤退した師団主力の加勢を得て、 東岸敵陣地への攻撃は再開されるが、 戦車砲 ・ 重砲を主体とする旺盛な火力で防護された敵防衛線を突破し得ず、 以後・・・日本側は一方的守勢に立たされる事となる。
紛争の初期段階で大兵を一挙投入し、 ソ ・ 蒙軍を撃滅して、 速やかに停戦に持ち込むという関東軍の企図は完全なる失敗に終わった。
その作戦構想は、 極東ソ連軍の実力に対する甚だしい認識不足の上に成り立っていた。
装備に於いて、 物量に於いて、 補給能力に於いて、 ソ連軍は、 日本軍を遥かに凌駕していたのである。
・・・質は遂に量には勝てなかった。
関東軍作戦参謀 ・ 辻政信少佐 は、 後年に至ってからもボヤき続けている。
然し、 質 ・ 量共にソ連軍に及ばなかったというのが、 ノモンハン事件に於ける日本軍の実態なのである。
辻政信少佐の云う “質” とは、 兵士個々人の資質を、 それも主として精神的次元に属する、 計量する術のない要素を指しているので有ろう。
確かに、 必勝の信念とか、 敵を呑む気魄とかは、 実戦部隊の将士にとって不可欠のものかも知れないが、 参謀 という作戦を指導する立場に在る人間が、 濫りにそれを唱えるべきではない。
近代戦の権威である筈の参謀が前近代的な精神論を必要以上に吹聴するのは、 参謀としての頭脳の貧困を物語るものでしかないのである。
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