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松尾芭蕉の最期を扱った文学作品としては 芥川龍之介 の短編小説 ・ 『枯野抄』 が良く知られています。
然し、 芭蕉の内面に焦点を当てた作品では有りません。
・・・芭蕉はさつき、 痰喘にかすれた声で、 覚束ない遺言をした後は、 半ば眼を見開いた儘、 昏睡の状態にはいつたらしい。
・・・傷しいのはその眼の色で、 これはぼんやりした光を浮べながら、 まるで屋根の向うにある、 際限ない寒空でも望むやうに、 徒に遠い所を見やつてゐる。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。 」 ――事によるとこの時、 このとりとめのない視線の中には、 三四日前に彼自身が、 その辞世の句に詠じた通り、 茫々とした枯野の暮色が、 一痕の月の光もなく、 夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。
・・・と、 芭蕉に就いては、 何処までも客観的描写に留まり、 敢えてその内面に立ち入ろうとはしません。
作者の興味は、 俳聖の死に臨んでの孤高の心境を慮るのではなく、 偉大な師の臨終に際会した高弟達 (いわゆる・・・蕉門十哲) の心理を掘り下げる事に向けられています。
そして、 その一人の 内藤丈艸 に就いては、 恩師 ・ 夏目漱石 の死に臨んで抱いた芥川自身の心情が仮託されているとも指摘されています。
・・・芭蕉の呼吸は、 一息毎に細くなつて、 数さへ次第に減じて行く。
喉も、もう今では動かない。
・・・するとこの時、 ・・・黙然と頭を垂れてゐた丈艸は、 あの老実な禅客の丈艸は、 芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、 限りない悲しみと、 さうして又限りない安らかな心もちとが、 徐に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。
悲しみは元より説明を費すまでもない。
が、 その安らかな心もちは、 恰も明方の寒い光が次第に暗 (やみ) の中にひろがるやうな、 不思議に朗な心もちである。
しかもそれは刻々に、 あらゆる雑念を溺らし去つて、 果ては涙そのものさへも、 毫も心を刺す痛みのない、 清らかな悲しみに化してしまふ。
・・・丈艸のこの安らかな心もちは、 久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、 空しく屈してゐた彼の自由な精神が、 その本来の力を以て、 漸く手足を伸ばさうとする、 解放の喜びだつたのである。
彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、 菩提樹の念珠をつまぐりながら、 周囲にすすりなく門弟たちも、 眼底を払つて去つた如く、 唇頭にかすかな笑を浮べて、 恭々しく、 臨終の芭蕉に礼拝した。
(芥川龍之介 『枯野抄』 )
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