1769246 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

土曜日の書斎 別室

土曜日の書斎 別室

アラモ砦攻防戦

戦史断章  米国戦史編



アラモ砦攻防戦




1


 

  1836年3月6日。
  テキサス共和国軍が立て籠もる要塞 ・ アラモ は、 圧倒的兵力を誇るメキシコ軍の総攻撃によって陥落。
  十三日間に渡った攻囲戦闘は終結する。
  指揮官 ウィリアム ・ トラヴィス 以下百数十名の守備隊は全滅した。



18600303.jpg

陥落寸前のアラモ砦内部。
守備隊最後の拠点である礼拝堂へ雪崩れ込むメキシコ軍。
映画 『アラモ』 (1960年度作品 ・ 初版パンフレットから)


  合衆国28番目の州 ・ テキサス は、 17世紀末以降・・・多くの国旗がはためいた係争地としての歴史を背負っている。
  メキシコの属州であった1820年代から1830年代にかけて、 テキサス開拓事業の主要な役割を担っていたのは、 国外 (主として米国) から誘致された入植者達であった。
  人々は、 苛酷な自然環境や疫病の猛威と闘い、 悪条件を克服しつつ、 土地を切り拓き、 生活を根付かせて来たのである。
  然し、 米国系住民の増加を脅威と捉える様になったメキシコ政府は、 彼らの生活を圧迫する方向へ政策を転換させていった。
  政府との間に取り交わしていた十年間徴税免除の契約を反古にされ、 自治権を圧縮された事は、 入植者を激昂させるに十分であった。
  俄かに免税と自治権拡大を求める声が湧き起こり、 テキサス地区は騒然たる情況を呈するに至る。
  ・・・スペインの植民地支配から脱して月日が浅く、 メキシコは国情が安定していなかった。
  強大な軍事力を背景として権力を掌握した “救国の英雄” サンタ ・ アナ が、 独裁色を露わにし、 (メキシコ共和国) 憲法を蹂躙する挙に出たのは、 そうした最中の事である。
  メキシコ各地に激しい批難 ・ 反撥の声が渦巻き、 その煽りを受け、 テキサスの騒擾は更にエスカレート、 反政府運動としての性格を強めていく。
  そして、 そのうねりは日成らずしてテキサス独立運動へと収斂されていき、 叛乱分子は根絶やしにすると豪語する、 独裁者サンタ ・ アナとの対決を避け難いものとしていったのである。
  不当な支配に屈するか、 血と汗で購われた生活を守るため結束して戦うか、 決断を迫られた開拓者達が選んだのは後者の方であった。
  テキサス地区全域で、 (共和国軍の前身となる) 民兵部隊が組織され、 緊張は極度に高まった。

  1835年9月。
  テキサス地区の騒乱を鎮めるべく、 サンタ ・ アナは遂に軍隊を派遣。
  同10月。
  ゴンザレス近郊で、 メキシコ軍の一部隊と民兵部隊の間に武力衝突が発生。
  メキシコ軍は退却し、 テキサス側を俄然勢い付かせる。
  同12月。
  意気上がるテキサス側は、 メキシコ軍の重要拠点である サン ・ アントニオ 攻略に乗り出し、 激戦の果てに同市を制圧。
  メキシコの軍 ・ 官憲をリオ ・ グランデ河の対岸へ追放する事に成功する。
  開拓者のためのテキサス建設へ向けて、 大きな一歩が踏み出された格好であるが・・・。
  サンタ ・ アナが報復の為、 更なる大軍を送り込んで来る事は必至であった。
  来たる対戦に備え、 テキサス側は急遽・・・サン ・ アントニオ郊外の伝道所跡を補修し、 籠城の態勢を固める事となる。
  テキサス独立戦争史に名を残す アラモの砦 である。


  サンタ ・ アナ麾下のメキシコ正規軍は、 共和国軍の予想を上回る速度で急迫して来た。
  険路を選び、 悪天候を衝いての強行軍であった。

  2月23日。
  サン ・ アントニオに到着すると、 メキシコ軍は直ちにアラモ攻囲網を形成。
  十三日間に渡る攻囲戦の幕が開かれる事となる。


†                                        †


  アラモ攻囲戦をモチーフとする映画作品の多くは、 アラモ籠城を、 共和国軍最高司令官 サミュエル ・ ヒューストン の発意によるものとして描いている。
  決戦準備が整うまでの間、 要衝 サン ・ アントニオ に防衛拠点を設け、 メキシコ軍の前進を阻止する作戦であったと説明しているわけであるが・・・。
  実際には、 ヒューストンはアラモ防衛の意義を疑問視し、 早い段階で、 守備隊に撤収命令を発している。
  然し、 命令を受領した守備隊指揮官 ジェイムス ・ ニール大佐 は、 それに従うのを拒み、 籠城策を取り続けたのである。
  因みに・・・。
  その時、 ヒューストンの命令書を携え、 アラモに赴いたのが、 西部切っての侠客で、 ナイフ使いの名手として鳴らした ジェイムス ・ ボウイ
  彼が愛用した尖端両刃仕様のナイフ ( “ボウイ ・ ナイフ” ) の呼称にその名を刻む、 この人物は、 抜群の知名度と人望 ・ 剛毅な気性 ・ 傑出した指導力を買われ、 大佐 として遇されていた。
  ボウイ大佐は、 ヒューストンの特使で有りながら、 ニール大佐に同調し、 そのままアラモに留まる事となる。

18600303.jpg

  確かに、 戦略上の要衝に位置するアラモ砦で有ったが・・・。
  砦それ自体は、 およそ堅塁と呼べるものではなかった。
  満足な防御工事を施す間とてなく、 兵員も、 火砲 ・ 弾薬も、 十分な数量を備えてはいなかった。
  天嶮に拠っていたわけでもない。
  本来、 兵站陣地としての役割を担うべき場所で、 砲兵部隊を帯同する戦略軍を迎え撃つ様に造られていないのである。
  強いて云うなら、 ワーテルロー会戦に於ける (ウェリントン軍の右翼陣地であった) ウーグモンの様に・・・。
  主力決戦に際して、 自軍の構成する長大な防衛線の一角に位置付けられた場合に、 相応の威力を発揮する拠点と成り得ていたかも知れない。
  然し、 結果的に、 アラモ守備隊は、 圧倒的兵力を擁するメキシコ軍を相手に、 頑強な抵抗を継続し、 その進撃を阻んだのであった。
  この間、 後方の軍司令部に増援の要請が繰り返し行われたが、 是に応じる余力は共和国軍になかった。
  指揮官 ウィリアム ・ トラヴィス中佐 (ニール大佐は、 訳有って攻囲戦開始前に離脱) が、 守備隊全員を前に、 最早・・・来援は絶望的である旨を告げ、 彼と共に留まるか、 離脱するか、 各人の意思に委ねると申し渡したのは、 攻囲十一日目。
  メキシコ軍の側では総攻撃の準備が着々と進められていた最中の事である。
  砦に留まるのは確実な死を意味したが、 脱出を望む者は皆無であったと云われる。
  矢張り、 アラモの映像化作品で必ず描かれる、 伝説的逸話である。

18600303.jpg
↑ 映画 『アラモ』 (2004年度作品)

  そして、 攻囲十三日目の是の日・・・1836年3月6日。
  サンタ ・ アナは、 全軍に総攻撃の命を下す。

  戦闘が開始されたのは未明。
  攻撃軍兵士達は、 四周から一斉に押し寄せた。
  守備隊の必死の防戦も及ばず、 先ず、 北側の壁が崩される。
  トラヴィス中佐が敵弾に斃れたのは、 この死闘のさなかに於いてである。

18600303.jpg
↑ 映画 『アラモの砦』 (1955年度作品)

  或いは城壁を乗り越え、 或いは破壊口から・・・。
  続々と侵入する攻撃軍に、 守備隊は圧迫されていった。
  構内から兵舎へ・・・。
  そして、 礼拝堂の塔内へと・・・。
  黎明の空が血の色を滲ませる頃、 戦闘は終わりを告げる。
  守備隊は、 全員が戦死を遂げた。

  ウィリアム ・ トラヴィス。
  ジェームス ・ ボーイ。
  そして、 テネシー州から義勇軍を率いて駆け付けた ディビー ・ クロケット

  新生共和国 の未来を信じて戦った男達の志は、 共和国軍の兵士達を鼓舞し、 受け継がれ、 最終的勝利へと結実するのである。









© Rakuten Group, Inc.