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古代国家の終焉と中世の開幕を告げる 寿永の大乱 。
政権掌握と同時に貴族化し、 古代国家の権威と一体化してしまった平家一門が、 滅亡の道をたどっていったのは、 回避する事の出来ない運命でもあった。 一方、 平家打倒を旗印に掲げる源氏一門にしても、 中世武士団の最大勢力としての役割を、 古代国家の支配を覆し、 武家政権を創設するという歴史的使命を、 好むと好まざるとにかかわらず担わされていたのである。 そして、 その使命を達成する過程に於いて、 深刻な内部対立を克服しなければ成らなかった。 木曽の 義仲 と東国の 頼朝 。 信濃一円を平らげ、 京都に通ずる美濃路 ・ 北陸路を制した義仲が、 頼朝に先駆けて入京を果たしたのは、 地理的優位性から見て、 必然の帰結であったと云えるが、 それは義仲の悲劇性と表裏を成してもいた。 平家撤退に膚接する義仲入京が、 (義仲当人にとって) 最も間の悪い時機に行われたと云うのは、 今日では定説化している。 ・・・長途の遠征に人馬ともにつかれ切って入京した武士たちの見出したものは、 連年の飢饉に死者が巷にあふれ、あらかた廃墟と化していた平安京だけであった。 ・・・遠征軍による徴発 ・ 略奪 ・ 暴行 ・ 青田刈りが京都と周辺一帯に頻発し、 横行した。 京都の人心はまったく義仲らをはなれ、 法皇以下の貴族たちとの対立は当初からあらわになっていた。 (石井進著 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 から) 関東に在って着々と地盤固めに邁進していた頼朝と、 領国経営を等閑視し、 勢いに任せ、 京都へ猛進した義仲。 その差異はその儘・・・両者の運命の分岐点とも成ったのである。 義仲の勢威の背景を成している軍事力の基盤は存外に脆弱であった。 義仲の陣営に参じた有力武士の多くは、 時の勢いに靡いたのであって、 決して義仲の威に慴伏していたわけではない。 廟堂での不人気に加えて、 西国で平家軍の反撃に遭い、 惨敗を喫すると、 義仲の求心力は急速に失われていく。 更に、 東国から頼朝軍が西上を始めると、 離反者が後を絶たなくなるのである。 頼朝軍の西上は 後白河法皇 の策動によるもので、 関東一円からの年貢上納を名目としている。 義仲 ・ 頼朝の対立関係を利用し、 両者を争わせ、 その力を削ごうとする後白河法皇の企図は、 大筋として成功を見たと云える。 大筋として・・・と云うのは、 義仲を手玉に取るのは容易であったが、 慎重で警戒心の強い頼朝を、 意の儘に従わせる事は出来なかったからである。 陰謀の渦巻く京都を忌避し、 頼朝自身は本拠地の東国から離れようとしなかった。 加えて、 後白河法皇は、 貢納と引換えに、 東国一円の実質的支配権を認めざるを得なかった。 武家政治の創始 という頼朝の構想は、 実現に向けて大きく前進したのである。 一方、 追い詰められた義仲は、 兵を動かし、 策動の根源である法皇御所 ・ 法住寺殿 を攻め、 後白河法皇を幽閉するに至った。 法住寺殿は炎上し、 法皇の近臣も含め、 大量の犠牲者を出した。 完全に手玉に取った筈の義仲であったが・・・。 法皇御所の焼打ちという、 平家ですら成し得なかった暴挙に及ぼうとは、 流石の後白河法皇も予測出来なかったのでは有るまいか。 義仲は、 摂関家と結んで、 征夷大将軍 の宣下を受けるが、 それは滅び行く者の最後の足掻きでしかなかった。 鎌倉方に義仲討滅の大義名分を与えるものでしかなく、 敗亡の日は目前に迫っていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 16, 2011 02:05:09 AM
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