|
カテゴリ:カテゴリ未分類
1878 (明治11) 年 内務卿 ・ 大久保利通、 暗殺される。
旧来の特権を奪われた不平士族による、 最大にして最後の叛乱であった 西南の役 が鎮定された翌年・・・。 初代内務卿として、 叛乱鎮圧の総指揮を執った 大久保利通 は、 刺客群の襲撃に遭い、 非業の最期を遂げる。 享年49歳であった。 嘗ての盟友 ・ 西郷隆盛 を郷党と共に滅ぼし、 太政官政府の危機を収拾した大久保であったが、 切り捨てられていく者達の凄まじい怨念は、 彼の身に凝固する格好となったのである。 是の日・・・1878 (明治11) 年5月14日。 大久保は、 二頭立ての馬車に身を委ね、 赤坂御所へ向かっていたが、 紀尾井坂に差し掛かった時、 複数の人間の殺到する気配が伝わって来た。 刹那・・・。 けたたましい嘶きを発して、 駒が跳ね上がる。 鋭い怒号の応酬。 次いで、 馭者の絶叫。 ・・・事態を悟った大久保は、 自ら扉を押し開くと、 路上に降り立った。 白刃を構える襲撃者達の眼前に、 無防備に身を曝す態であった。 「奸賊・・・大久保ッ!」 「無礼者!!」 大久保が一喝するのと、 怨念を込めた刃が繰り出されるのは同時であった。 呻きを発して崩れる大久保を、 更に、 数条の刃が襲った。 廃藩置県の断行。 徴兵令公布。 征韓論の台頭と新政府分裂。 廃刀令の布告。 不平士族の全国的規模での叛乱。 そして、 西南の役・・・。 封建制社会が解体され、 近代的な 国民国家 ・ 日本 が誕生するための、 大いなる陣痛期であった明治初年代・・・。 太政官政府は、 食禄を失った、 大量の士族層の発生という、 極めて深刻な問題に直面していた。 それらは、 新国家建設の過程に於いて、 避けられぬ犠牲と云えたが、 その救済を廻って、 抜き差しならない対立が生じる。 多年労苦を共にした郷党を見捨てるに忍びず、 救済支援に奔命するも果たせず、 運命を共にするに至ったのが 西郷隆盛 。 そして、 西郷とは正反対の立場に身を置き、 新国家建設事業の推進者としての重責を全うしたのが 大久保利通 であった。 維新の英傑中最大の徳望家である西郷とあらゆる点で比較され、 その比較から生じるマイナー ・ イメージ・・・冷酷で非情な策略家 ・ 陰謀家の印象が定着している大久保。 成る程・・・希世の策謀家ではあった。 倒幕運動の最終段階・・・。 岩倉具視 という、 殆んど妖怪変化めいた陰謀の大家と絶妙のコンビネーションを保って、 宮廷工作に奔命し、 討幕の密勅を降下させるべく企み、 それが将軍 ・ 慶喜の大政奉還によって空振りに終わると、 王政復古のクーデターを仕組んだり・・・と、 徳川家を陥れる為の有りとあらゆる策謀を廻らせた事が、 取り分け、 その印象を強めている様子である。 何しろ、 乱世・・・変革期である。 幕末期は、 策士と呼ばれる人物を簇出させたが、 大久保の様に、 具体的で、 時代の大勢に適応した建設的プログラムを抱懐していた者は希であった・・・と云われる。 変革期を変革期たらしめるのに必要欠くべからざる 創造性 と 経綸の才能 を蔵していたという事で有ろうか。 さもなくば、 幕末期は、 際限のない破壊と殺戮と混乱と停滞に支配された暗黒時代と化していたで有ろう。 下手をしたら、 フランス辺りの植民地に成り下がっていたかも知れないのである。 西郷と共に・・・。 時流の趨勢を見通し、 藩論を、 従来の公武合体から、 武力倒幕の方向に転ぜしめた、 大久保の政治的手腕の巧みさ、 鮮やかさには端倪すべからざるモノが有る。 それまで、 薩摩藩と主家である 島津家 の利害を唯一の行動基準としていた者が、 早々に郷党意識から脱却し、 日本国家全体の未来を慮る様になるのである。 無論、 そういう大胆な価値観の転換が、 藩内で、 抵抗なく受け入れられたのは・・・。 第一に、 尊皇の旗印は変わらず、 要するに、 旧来の封建的大義名分論に違背しない範囲で、 巧妙に取り繕えた事。 第二に、 徳川幕府が倒れた後は島津幕府が出来上がる・・・という具合に、 藩主 ・ 島津久光 を口説いて、 廃藩置県 の断行日まで、 見事に騙し遂せた事・・・等による。 明治新政府成立後・・・1871 (明治4) 年7月14日。 維新の主導勢力であった薩 ・ 長 ・ 土三藩から供出された兵力を、 御親兵の名目で、 東京に集結させ、 その軍事的示威の下に、 廃藩置県は断行された。 二年前の版籍奉還以後、 旧封建領主が藩知事に任じられていたのであるが、 それが悉く罷免され、 新政府から派遣された官吏が、 県知事として地方行政を司る事となる。 実質的にクーデターに等しい荒療治が全国一斉に行われた訳であるが、 抵抗は皆無で、 無血の中に成就した。 既に、 様々な矛盾が表面化し、 破綻に瀕していた後期封建体制は完全に解体され、 中央集権体制 が確立したのである。 近代的な国民国家を成立させる上で、 不可欠の制度であった。 この時、 島津久光が、 西郷 ・ 大久保に謀られたと大激怒し、 憤懣遣る方なく、 盛大に花火を打ち上げさせて、 終夜・・・錦江湾上の屋形船から是を観覧したという逸話は、 既に伝説化されている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 14, 2011 03:00:04 AM
コメント(0) | コメントを書く |