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カテゴリ:こどもの頃の思いで
突然の叔母の死の知らせを聞いたのが日曜日の朝でしたので、まだ実感が湧 かないというのが本当のところです。日曜日、布団に静かに横たわっている叔母の安らかな顔を見ていると、寝息が聞こえてくるような錯覚を覚えるほどでした。
叔母の側の甥・姪を数えてみたところ、なんと17人。なにしろ9人兄妹ですから、叔母には大勢の甥と姪がおります。その中でも、叔母と接した時間は私が一番長かったと思います。 叔母の兄妹、つまり私の母の兄妹は今書いたように9人兄妹でした。勉強の善し悪しはいろいろだった ようですが、親分肌が多い兄妹だったそうで、叔母も悪ガキでいつも怒られていたと聞かされています。叔母たちの父親、私にとっての祖父は、椅子の修理店を 家業としておりとても厳しい人だったそうですが、母親である私の祖母は元看護婦でいつも近所の人達に頼られる存在だったそうです。その影響でしょうか、こ のガキ大将軍団のような9人は、皆共通して弱いものいじめを良しとせず、手先が器用で仕事の段取りをつけたりするのがとてもてきぱきとしていました。一 人っ子である私にとっては理想の兄妹であり羨ましい存在でもありましたし、兄妹って何かってことを学ぶ教材でもありました。 叔母と接した時間が長かった大きな理由は、私の母がその兄妹の長女だったからです。 9人もいると長女は、小さな母親的な存在にならざるを得な かったのでしょう。叔母が学生の頃に、すでに社会人だった母が服を作ってもらったという話は何度も聞かされました。叔母にとっては大切な嬉しい思い出だからこそ、何度も聞かせてくれたのだと思います。そういうことをとても大切にする人でした。 また、もう一人の叔母とともに母と同じ流派の華道を習っておりましたので、二人の叔母と母に連れられて、なんども東京を往復したりもしました。こんなときは、妹たちに息子 の世話を押しつけることも多かったようで、自然と叔母たちと交流する機会が多かったと思います。他の従兄弟たちが二人か三人の兄弟・姉妹だったため、一人っ子の私を不憫に思ってくれていたことも可愛がってもらった理由かもしれません。 母は、典型的な長女で、呑気でお気楽な性格な人でしたから、一人っ子の私を平気で家に置いたまま、買い物に長時間出ても気にしない人でした。はじめは一人で留守番できていても、7時を過ぎても帰ってこないときなどはだんだんと心細くなり、叔母に電話したりしたものです。 「あんた一人なの?まったくねえちゃんもしょうがないねぇ」と心配してくれた叔母の声が蘇ってきます。 一方、叔母は上から数えて6番目。兄3人、姉2人の下に生まれています。仕事で要領がよかったのも、兄や姉の様子から学ぶ機会が多かったからでしょう。たぶん兄妹の中では、母と叔母は一番タイプが違う二人だったような気がしますが、だからこそよかったのかもしれません。叔母の突然の死は、母にとっても大 ショックだったと思います。 とくに仕事を辞めて自由な時間が増えてからは、叔母は叔父とともに本当に母のことを大切にしてくれました。とくに亡くなった私の父の具合が悪くなってから は、病院の送り迎えを嫌な顔ひとつせずに何度もしれくれましたし、食欲が落ちた父が食べたくなるようにと食事に連れ出したりもしました。病院までいつも付 き添っていた母にとってこれはとてもありがたいことでした。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 3, 2008 11:12:53 PM
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