1571416 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ものぐさ父さんの子育て

PR

全46件 (46件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 >

こどもの頃の思いで

December 1, 2011
XML
私の曾祖父は、宮大工なのですがNHKのプロフェッショナルで数寄屋建築の名工の話をやっていたので、ちょっと調べてみました。

小学校6年生の時に、両親と一緒に行ったことは覚えていました。曾祖父のフルネームを間違えて覚えていたのですが、いろいろ検索をしているうちに見つけました。

長女の受験が終わったら、子どもたちを連れて訪れてみたいと思っています(実現しないだろうなぁ)。







Last updated  December 2, 2011 09:48:50 PM
コメント(2) | コメントを書く


November 10, 2009
帰宅すると次女が『新造人間キャシャーン』を見ていました。懐かしい。

タツノコプロっぽいキャラクターで結構好きでした。一目見てすぐにわかりました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、1973年10月2日から1974年6月25日まで、フジテレビ系で毎週火曜日19時~19時30分に放映されていたそうです。ちょうど、小学校4年生から5年生にかけてということになります。

それにしても懐かしい。







Last updated  November 24, 2009 12:42:44 PM
コメント(2) | コメントを書く
October 29, 2009
私は黒糖系のお菓子が好きです。黒糖をからめた麩菓子や黒棒など。黒糖かりんとうも好きです。

たぶん小さい頃に駄菓子屋で食べた黒棒の影響でしょうね。5円か10円でくじをひくやつ。当たりだと幅の広い黒棒がもらえるんです。覚えている人いるかな?

おっと食べたくなってきた。







Last updated  November 19, 2009 09:34:20 PM
コメント(0) | コメントを書く
July 30, 2009
いつの間にか7月も残るところあと1日。

自分が子供の頃、夏休みってどうやって過ごしていたのか?ふと考えてみました。
小学校の頃は、毎日のように学校のプール開放に通っていた気がします。あとは、自由研究で悩んでいたことも夏休みの思い出かな。でも、中学生の時のこととなると、まるで覚えていません。中学生の頃は、部活動にそれなりに(てきとうにさぼりながら)通っていたはずなのですがその記憶も曖昧。

いったいどうやって過ごしていたんだろう?

PS:『ころころろ』を購入しました。







Last updated  August 29, 2009 10:42:03 PM
コメント(0) | コメントを書く
October 4, 2008
大人になってからも一度だけ叔母に甘えたことがあります。お母さん(妻)の実家でお義母さんに罵倒された直後、公衆電話から叔母に電話をしました。

原因は、お母さん(妻)が母の日に私の母にプレゼントしたエプロンを母が私には小さいから誰か他の人に使ってもらって、と返したことでした。母にしてみれば、自分には小さすぎることが一目でわかったので、誰か他の人に使ってもらった方がいいということだったのでしょうが、それまでうちの母親に自分の母親にはない優しさを感じ始めていた妻にとっては大ショックなできごとだったようです。そのことを義母(妻の母親)に話したのでしょう。義母は義母で、娘が私の実家はいい、いいと話すので内心面白くなかったところへ、この話ですから、妻に全面的に同調したようです。もう結婚していたと思いますが、妻の実家でこのことが話題になり、母のことをなじられてすごく嫌な気持ちになりました。妻の実家をでてすぐに自分の気持ちを誰かに伝えたくなりました。当然、母には話すわけにもいかず、電話したのが叔母でした。

どうして叔母に電話したのか、今考えると、叔母なら母のことも妻のことも義母のことも恨まずに話を聞いてくれるだろうと思ったからのような気がします。実際、電話してみると誰を悪く言うわけでもなく、そういうときもあるからがんばれというようなことを言ってくれたと記憶しています。叔母に話している間に涙声になってしまいましたが、話終わった後はある程度落ち着いていました。

その後も叔母は妻のことを可愛がり続けてくれました。叔母にしてみれば、姑で苦労しているので、妻の気持ちもわかる部分があったのかもしれません。残念ながら、その後母と妻の関係はこの事件の前のようには戻りませんでしたが、男の母親とその妻なんてそんなものかもしれません。







Last updated  October 6, 2008 10:34:33 PM
コメント(3) | コメントを書く
October 3, 2008
母と叔母の関係でもう一つ思い出しました。

うちの母親は、呑気でお気楽、おしゃべりが好きでおせっかいでもありました。妹や弟にとっては、勉強もでき運動も得意で明るいお姉さんだったのだろうと思います。9人もいると、全員が全員仲がいいというわけではなく、口もきかないというほど仲が悪い組み合わせもありました。そんな中、私の母親だけがどの兄弟とも仲良くやれたのも、小さな母親役であることに加え、自慢の妹・姉であったからでしょう。自分ができなくても、姉/妹ができることは自然と自慢に思うものなのでしょう。叔母は、生前よく「ねえちゃんは、勉強も運動もよくできたけど、私は勉強の方はさっぱりだった」と言っていましたが、これもそんな気持ちの表れなのかなと思います。母は母で妹や弟のお手本にならなければという意識があったのかもしれません。

一方で、毎朝の実家での会話から垣間見える叔母の会社での仕事ぶりや公平さ、親戚の行事での要領のよさや仕切りのよさなどを見ていると、叔母は単に勉強にまったく興味を覚えなかっただけだったのだろうと思います。もし、勉強に興味を持ついいきっかけがあたえられていたら、きっとすごくできたんだろうなと思います。その点、母には4つ歳上の一番上の兄がおりました。この長兄は、勉強家でとても読書をよくする人だったそうで、母も大好きな兄だったようです。自然と兄が勉強する姿をすぐそばで見る機会のあった母はラッキーだったとも言えます。とはいえ、貧乏な11人家族ですから母も小さい頃から家事を手伝わされ、勉強する時間など特別には与えられなかったそうですから、りっぱなものです。昔の家では、長男とその他のこどもたちとでは待遇に大きな差があったそうです。

同じ両親に育てられ、似たような環境の中で育っても、兄弟の中での位置は全員異なりますし、周りにいる友だちも違います。同じ時代に同じ街で同じ両親に育てられても、随分と差があるのですから、ましてやそのどれかでも違えば、性格が大きく変わるのももっともなのだと改めて思いました。
(続く)


楽天トラベル








Last updated  October 5, 2008 11:28:36 PM
コメント(0) | コメントを書く
October 1, 2008
突然の叔母の死の知らせを聞いたのが日曜日の朝でしたので、まだ実感が湧 かないというのが本当のところです。日曜日、布団に静かに横たわっている叔母の安らかな顔を見ていると、寝息が聞こえてくるような錯覚を覚えるほどでした。

叔母の側の甥・姪を数えてみたところ、なんと17人。なにしろ9人兄妹ですから、叔母には大勢の甥と姪がおります。その中でも、叔母と接した時間は私が一番長かったと思います。

叔母の兄妹、つまり私の母の兄妹は今書いたように9人兄妹でした。勉強の善し悪しはいろいろだった ようですが、親分肌が多い兄妹だったそうで、叔母も悪ガキでいつも怒られていたと聞かされています。叔母たちの父親、私にとっての祖父は、椅子の修理店を 家業としておりとても厳しい人だったそうですが、母親である私の祖母は元看護婦でいつも近所の人達に頼られる存在だったそうです。その影響でしょうか、こ のガキ大将軍団のような9人は、皆共通して弱いものいじめを良しとせず、手先が器用で仕事の段取りをつけたりするのがとてもてきぱきとしていました。一 人っ子である私にとっては理想の兄妹であり羨ましい存在でもありましたし、兄妹って何かってことを学ぶ教材でもありました。

叔母と接した時間が長かった大きな理由は、私の母がその兄妹の長女だったからです。
9人もいると長女は、小さな母親的な存在にならざるを得な かったのでしょう。叔母が学生の頃に、すでに社会人だった母が服を作ってもらったという話は何度も聞かされました。叔母にとっては大切な嬉しい思い出だからこそ、何度も聞かせてくれたのだと思います。そういうことをとても大切にする人でした。

また、もう一人の叔母とともに母と同じ流派の華道を習っておりましたので、二人の叔母と母に連れられて、なんども東京を往復したりもしました。こんなときは、妹たちに息子 の世話を押しつけることも多かったようで、自然と叔母たちと交流する機会が多かったと思います。他の従兄弟たちが二人か三人の兄弟・姉妹だったため、一人っ子の私を不憫に思ってくれていたことも可愛がってもらった理由かもしれません。

母は、典型的な長女で、呑気でお気楽な性格な人でしたから、一人っ子の私を平気で家に置いたまま、買い物に長時間出ても気にしない人でした。はじめは一人で留守番できていても、7時を過ぎても帰ってこないときなどはだんだんと心細くなり、叔母に電話したりしたものです。
「あんた一人なの?まったくねえちゃんもしょうがないねぇ」
と心配してくれた叔母の声が蘇ってきます。

一方、叔母は上から数えて6番目。兄3人、姉2人の下に生まれています。仕事で要領がよかったのも、兄や姉の様子から学ぶ機会が多かったからでしょう。たぶん兄妹の中では、母と叔母は一番タイプが違う二人だったような気がしますが、だからこそよかったのかもしれません。叔母の突然の死は、母にとっても大 ショックだったと思います。
とくに仕事を辞めて自由な時間が増えてからは、叔母は叔父とともに本当に母のことを大切にしてくれました。とくに亡くなった私の父の具合が悪くなってから は、病院の送り迎えを嫌な顔ひとつせずに何度もしれくれましたし、食欲が落ちた父が食べたくなるようにと食事に連れ出したりもしました。病院までいつも付 き添っていた母にとってこれはとてもありがたいことでした。
(続く)









Last updated  October 3, 2008 11:12:53 PM
コメント(0) | コメントを書く
September 30, 2008
母の強い希望で、一緒にお通夜の晩に葬儀場に泊まりました。

叔父には少し休んでもらいたかったし、叔父本人も告別式の前は一旦自宅に戻りたいようでしたので、葬儀社の方にお任せしようということでしたので、お通夜の晩は母も家に戻そうと思ったのですが、母がどうしても妹に付き添ってやりたいと。自分のことを大切にしてくれていたかけがいのない妹を失った母にとって、お骨になる前の妹とすごせる最後の時間だったわけで気持ちもよくわかります。叔父もいいと言ってくれたので泊まってもらうことにしたのですが、一人で泊まらせるわけにもいかないので、私も一緒に泊まることになりました。

夜は久しぶりに母といろいろ話をしました。叔母の話から始まり、家系図を描き始めたのですが、複雑すぎておじいさん、おばあさんの代までで終わってしまいました。母の実家は、ほとんどの親戚が近隣に住んでいるため付き合いの範囲も広く、すべてを網羅するのはかなり大変そうです。でも、自分のルーツを確認するというこの作業、なかなか面白かったです。今度は、従兄弟たちも交えてやってみたいですね。









Last updated  October 1, 2008 09:45:57 PM
コメント(6) | コメントを書く
September 28, 2008
朝、「おばあちゃん(私の母)から電話」という長女の声で起こされました。電話に出ると、叔母が夕べ夜中に亡くなった、と。急遽、予定を変更して車で叔母の家まで往復しました。

お母さん(妻)に告げると、寝ぼけていた顔が急に真顔になりました。こどもたちにもお母さんにもいつも優しくしくくれていた叔母は、(両親をすでに亡くした)お母さんにとっても心をゆるせる存在でした(私の母とは微妙な関係ですが、これは私の母親と妻という関係ですから仕方ないでしょう)。
今日は、一日お父さん塾をする予定でしたが、急遽予定を変更して車で叔母にお別れに行ってきました。とは言え、三人のこどもたちにはまだ実感が湧かないようでした。かろうじて長男が多少わかったぐらいでしょうか。次女にいたっては、楽しいドライブぐらいにしか思っていないようでしたが、4歳児には理解しろと言ってもまだ無理でしょう。

叔母の家に到着したのは、お昼過ぎ。座敷で布団に寝かされている叔母の寝顔は、横から見ていると寝息が聞こえてきそうなくらい安らかなものでした。大好きな美空ひばりの番組を見て、遅めのお風呂にはいったそうですが、なかなか出てこないので叔父が様子を見に行ったら、洗面所で倒れていたとのことです。以前から胸部大動脈瘤があることはわかっていましたから、破裂してしまったのでしょう。手術は、そのリスクと年齢から考えて手術の負荷に耐えられないだろうということで、見合わせるしかないと以前叔母が話していました。これに加えて、このところ自分と同い年の友だちが続けて世を去り、次は自分の番かもと言っていた叔母の不安が的中してしまいました。


こどものいない叔母夫婦は、私だけでなく自分の側、叔父の側の両方の甥や姪を本当に可愛がっていました。なかでも、私は叔母の兄妹の長女だった母の息子だったので、たぶん一番可愛がってもらったと思います。私の父親があまり気兼ねしなくてもいいタイプだったこともあって、結婚してからは職場近くの我が家に朝立ち寄って、姑さんに対する愚痴を吐き出してすっきりしてから仕事に行くという毎日でした。だから、叔母と接した時間でも甥、姪の中で No. 1 だったと思います。私が結婚してからは、お母さん(妻)も可愛がってくれましたし、こどもができてからは、私のこどもたちをトイザらスに連れて行ってはいろいろとおもちゃを買ってやるのを楽しみにしてくれていました。私がこどもを連れて帰省していると聞けば、車で飛んできてくれました。

学生時代の私の母にしてもらったことや私の父親が毎朝叔母が立ち寄っても嫌な顔ひとつしなかったことなどを恩義に感じてくれていたのでしょう、父親が亡くなってからは、頻繁に母を連れ出してくれていました。定年まで工場で女性工員として働いてきた叔母は、番長肌でいつも同僚に気配りをしている人でもありました。仕事前の朝の会話では、職場でのできごとなども母と離したりしていましたので、その会話を毎日聞かされたことは私の人生にも大きな影響を与えてくれたような気がします。番長肌ですから、きっと押し付けがましいと感じる人もいたでしょうが、いつも他人の気持ちを思いやるひとだったと思います。


義母、父、義父に続いて、叔母がまた一人この世を去りました。このところはすっかり叔母に頼っていた母が、そう遠くない将来に後を追うのも覚悟しなければならないでしょう。そういう年齢になったのだと実感しました。

今回は、お母さん(妻)が気持よくついてきてくれました。明後日のお通夜には私だけが参加しますが、その翌日の葬儀にはお母さんもこどもたちを連れて参列してくれると言ってくれました。とても感謝しています。






Last updated  September 28, 2008 10:48:16 PM
コメント(10) | コメントを書く
August 18, 2008
お母さん(妻)と娘二人がいなくなって実質的に最初の晩でした。長男は、塾で帰りが遅いので久しぶりに誰もいない家に帰宅しました。なんか寂しいものですね。それで思い出しました、鍵っ子だったこどもの頃を。

【玩具】
トイザらスオンラインショッピング

私の母親は勤めていたわけではありませんでしたが、お茶とお花の先生をやっていて、自分でも毎週火曜日にはお茶を習いに行っていました。自分が教えている方のお茶のお稽古は自宅でやっていましたが、お花は自宅以外に近所にある(母親が結婚するまで勤めていた)会社の華道部に出稽古に行っていたりしていました。さらに、ちょっとでかけるとあっちで話し込み、こっちで話し込みというタイプだったので、一人息子が家で待っていることなどお構いなしに出歩いておりました。5時、6時に帰ってくればいい方で、7時ぐらいになることもしょっちゅう。ひどい時には、8時ぐらいまで帰ってこないことなどもありました。小学校入学と同時に自宅の鍵を持たされましたから、一週間のうち半分以上(もっとだったような気もします)は、自分で玄関の鍵を開けて誰もいない自宅に帰っていました。家に帰った後は、一人遊びをしたり友だちのうちに行って遊んだりと過ごしていました。夕方、友だちのうちから戻っても、家が真っ暗だとさすがにちょっと心細かったりしたものです。
高学年になると、勝手にインスタントラーメンを作ったり(なぜか当時インスタントラーメンを箱単位で買っていた)、給食の余りの食パンと牛乳を持ち帰り、ホットサンドを作ったり、ピザトーストを作ったりなどもしました(とろけるチーズが出始めた頃でした)。兄妹がいないと一人で時間を過ごすといってもすぐにやることなんかなくなってしまうので、自然と調理に目覚めたんでしょうね。あとは、父親の書斎を探索して(仕事道具の)製図の道具をいじったり、家の中をあっちこち探索したりなどもよくやりました。勝手にいろいろやっていたわりには、あまり怒られた記憶はありません(右の耳から左の耳へ、だったのかも…)。
当時は、テレビも今見たいにずっと子供の番組をやっているわけではなく、映る民放も1局しかなかったのも大きかったですね。

とは言え、7時を過ぎても母親が帰ってこないと、どこかで事故にあっているんじゃないだろうかと段々心配になってくるのが小学生。頭の中で妄想がどんどん膨らんで、どんどん心配になったものです。

東京ディズニーリゾート(R)

ちなみに今日の夕飯は、三回目のカレー。夕べ、お母さんが作っていってくれたカレーです。明日も、長男は塾があるので夕飯は外食か冷蔵庫にあった焼うどんでも作ろうかな。どうせ、自分が食べるだけだと思うと、何かを一生懸命作ろうという気も起こりません。

長男と二人で、「静かすぎて落ち着かないね」などと話ながらお風呂に入りました。









Last updated  August 18, 2008 11:54:27 PM
コメント(10) | コメントを書く

全46件 (46件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 >


© Rakuten Group, Inc.