360549 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第四篇第十六章~十七章

第四篇 商品資本および貨幣資本の商品取引資本および
      貨幣取引資本への転化(商人資本)
 第十六章 商品取引資本
 商人資本または商業資本は、商品取引資本と貨幣取引資本という二つの形態または亜種に分かれる。この二つのものを、資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで、これからもう少し詳しく特徴づけることにしよう。しかも、そうすることがますます必要だというのは、近代の経済学が、その最良の代表者たちにあってさえも、商業資本を直接に産業資本と混同していて、商業資本を特徴づける特性を事実上まったく見落としているからである。

P337L5
 ところで、商品取引資本は、この絶えず市場にあり変態の過程にあってつねに流通部面に包みこまれている流通資本の一部分が転化した形態にほかならないのである。ここで一部分というのは、商品売買の一部分はつねに直接に産業資本家どうしのあいだで行なわれているからである。このような部分はこの研究ではまったく捨象することにする。なぜならば、このような部分は、商人資本の概念規定、その独自な性質の認識にはなんの役にもたたないし、他方、われわれの目的のためにはすでに第二部で十分に述べておいたからである。

P339L12
 だから、商品取引資本は、まったく、生産者の商品資本、すなわち貨幣への転化の過程を通り市場で商品資本としての機能を果たさなければならない商品資本以外のなにものでもないのであって、ただ、この機能が、生産者の付随的な操作としてではなく、今では資本家の特殊な種類である商品取引業者の専門の操作として現われ、一つの特殊な投資に属する営業として独立させられるだけである。
 なおまた、このことは、商品取引資本の独自な流通形態にも現われる。商人は商品を買って次にそれを売る。G-W-G´である。単純な商品流通では、または産業資本の流通過程として現われる商品流通W´-G-Wでも、流通は、各個の貨幣片が二度持ち手を換えることによって媒介される。・・・・・同じ商品が売る人の手から買う人の手に移り、そして、今度はこの人が売り手になってその人の手から別の買う人の手に移る。それは二度売られる。そして、何人もの商人があいだにはさまる場合にはもっとたびたび売られることもありうる。そして、まさにこのような同じ商品の販売の繰り返し、その二度の場所交換によって、はじめて、その商品の購入に前貸しされた貨幣が最初の買い手によって回収され、彼へのその貨幣の還流が媒介されるのである。一方の場合W´-G-Wでは、商品がある姿で譲渡されて別の姿で取得されるということを、同じ貨幣の二度の場所変換が媒介する。他方の場合G-W-G´では、前貸しされた貨幣が再び流通から取り返されるということを、同じ商品の二度の場所変換が媒介する。まさにこういうことのうちに、商品は生産者の手から商人の手に移ってもまだ最終的に売れているのではないということ、商人は販売という操作――または商品資本の機能の媒介――をさらに続行するだけだということが現われているのである。しかしまた同時に、このことのうちには、生産資本家にとってW-Gであるもの、商品資本という一時的な姿にある彼の資本の単なる機能であるものが、商人にとってはG-W-G´であり、彼が前貸しした貨幣資本の特殊な価値増殖であるということも現われている。商品変態の一つの段階が、ここでは、商人に関しては、G-W-G´として、すなわち一つの特別な種類の資本の展開として、現われるのである。・・・・・
 ところで、なにがこの商品取引資本に独立に機能する資本の性格を与えるのであろうか?この資本は、販売も自分でする生産者の手にある場合には、明らかに、ただ、彼の資本がその再生産過程の特殊な一段階にあるときに、つまり流通部面に滞留しているあいだにとる特殊な一形態として現われるだけであるが。
 第一に。商品資本が、その生産者とは別な担当者の手によって貨幣へのその最終転化、つまりその第一の変態、すなわち商品資本としてのそれに属する機能を市場で行なうということ、そして、商品資本のこの機能が商人の操作によって、つまり彼の行なう売買によって媒介されており、したがってこの操作が、産業資本の他の諸機能から分離されて独立させられた特別な営業として、形成されるということ。それは社会的分業の特殊な一形態であって、これによって、元来は資本の再生産過程の特殊な一段階でなされるべき、つまりこの場合には流通の段階でなされるべき機能の一部分が、生産者とは別な特別な流通担当者の専有機能として現われるのである。しかし、それだけでは、まだけっしてこの特殊な業務は、その再生産過程にある産業資本とは別な、それにたいして独立な、一つの特殊な資本の機能としては現われないであろう。たとえば、商品取引が産業資本家の単なる商業出張員とかその他の直接的代理人によって営まれるような場合には、実際にそれはこのような独立な資本の機能としては現われないのである。そこで、さらに第二の契機が加わってこなければならない。
 第二に。この契機は、独立の流通担当者である商人が貨幣資本(自分のかまたは借り入れたそれ)をこの立場で前貸しすることによって、はいってくる。その再生産過程にある産業資本にとっては単にW-Gつまり商品資本の貨幣資本への転化または単なる売りとして現われるものが、商人にとってはG-W-G´として、同じ商品の買いと売りとして、したがってまた、買いでは彼から離れて行き売りによって彼に帰ってくる貨幣資本の還流として、現われるのである。

P343L11
 このように商品資本は、商人が貨幣資本を前貸しするということによって、商品取引資本として一つの独立な種類の資本の姿を取るのであるが、この貨幣資本が資本として増殖され資本として機能するのは、ただ、それがもっぱら商品資本の変態、商品資本の商品資本としての機能、すなわち商品資本の貨幣への転化を媒介することに携わるということだけによるのであって、それはこの媒介を商品の不断の売買によって行なうのである。これはこの貨幣資本の専有の操作である。このような、産業資本の流通過程を媒介する仕事が、商人の運転する貨幣資本の専有の機能なのである。この機能によって、彼は自分の貨幣を貨幣資本に転化させ、自分のGをG-W-G´として表わすのであって、この同じ過程によって彼は商品資本を商品取引資本に転化させるのである。
 商品取引資本は、それが商品資本の形態で存在するかぎり、また商品資本の形態で存在しているあいだは――社会的総資本の再生産過程を見れば――明らかに、産業資本のうちのまだ市場にありその変態の過程にあって現に商品資本として存在し機能している部分にほかならない。それだから、ただ、商人によって前貸しされる貨幣資本、すなわちもっぱら売買だけに用いられるべき、したがってけっして商品資本および貨幣資本の形態以外の形態をとらず、けっして生産資本の形態をとらないで、いつでも資本の流通部面に閉じ込められたままの貨幣資本、――ただこのような貨幣資本だけが、いま資本の総再生産過程に関連して考察されるべきものなのである。

P345L13
 商人資本が必要な割合を越えないかぎり、次のように推定することができる。
 (1) 分業の結果として、もっぱら売買だけに従事する資本(これには、商品を買い入れるための貨幣のほかに、商人的業務の経営に必要な労働や商人の不変資本である倉庫や運輸などに投じなければならない貨幣が属する)は、仮りに産業資本家が自分の業務の商業的部分も全部自分で営まなければならないとした場合に比べて、より小さいということ。
 (2) 商人が専門にこの業務に従事するので、生産者にとって自分の商品がより速く貨幣に転化させられるだけではなく、商品資本そのものがその変態を、生産者の手のなかでする場合よりも、より速くすませるということ。
 (3) 商人資本全体を産業資本と対比して見れば、商人資本の一回転は、一つの生産部面にある多数の資本の回転を表わすだけではなく、いろいろな生産部面にあるいくつもの資本の回転を表わすことができるということ。・・・・・
 一般的には次のように言ってよい。産業資本の回転は、流通期間によってだけではなく生産期間によっても制限されている。商人資本の回転は、その資本がただ一定の商品種類だけを取り扱うかぎりでは、一つの産業資本の回転によってではなく同じ生産部門のなかのすべての産業資本の回転によって制限されている。・・・・・
 商人資本の回転は、同じ大きさの産業資本の回転または一回の再生産と同じではない。それは、むしろ、生産部面が同じであろうと別々であろうといくつかの産業資本の回転の総計に等しい。総貨幣資本のうち商人資本の役をする部分は、商人資本の回転が速ければ速いほど小さく、おそければおそいほど大きい。生産が発展していなければいないほど、商人資本の総額は、一般に流通に投ぜられる商品の総量にたいする割合ではますます大きいが、絶対的には、またはより発展した状態に比べれば、ますます小さい。逆ならば逆である。それだから、このような未発展な状態では本来の貨幣資本の最大の部分が商人の手中にあって、商人の財産は他の人々の財産にたいして貨幣財産を形成するのである。
 商人が前貸しする貨幣資本の流通の速さは次のものによって定まる。(1)生産過程が更新されていくつもの生産過程が接続して行なわれる速さ。(2)消費の速さ。
 商人資本がその価値量いっぱいにまず商品を買って次にそれを売るという前述のような回転だけをするということは、必要ではない。むしろ、商人はこの両方の運動を同時に行なうのである。その場合には彼の資本は二つの部分に分かれる。その一方は商品資本から成っており、他方は貨幣資本から成っている。・・・・・商品取引資本は、このような、商品資本または貨幣資本の姿で商人の手のなかにある産業資本の単なる形態でないかぎりでは、貨幣資本のうち商人自身のものとして商品の売買に駆使される部分以外のなにものでもない。この部分は、生産のために前貸しされた資本のうち貨幣準備、購買手段としていつでも産業家の手にあっていつでも彼らの貨幣資本として流通しなければならないであろう部分を、縮小された規模で表わしている。この部分は今では縮小されて商人資本家の手中にあり、そのようなものとしていつでも流通過程で機能している。それは、総資本のうち、収入の支出を別とすれば、再生産過程の連続を維持するために絶えず購買手段として市場で流通しなければならない部分である。それは、再生産過程が速ければ速いほど、また支払手段としての貨幣の機能すなわち信用制度の機能が発達していればいるほど、総資本にたいする割合ではますます小さいのである。

P350L13
 商人資本は、流通部面のなかで機能している資本以外のなにものでもない。流通過程は総再生産過程の一段階である。しかし、流通過程では価値は、したがってまた剰余価値も、生産されはしない。ただ同じ価値量の形態変化が行なわれるだけである。じっさい、商品の変態のほかにはなにも行なわれないのであり、この変態そのものは価値創造や価値変化とはなんの関係もないのである。生産された商品の販売で剰余価値が実現されるとすれば、それは、剰余価値がすでにその商品のなかに存在しているからである。したがってまた、第二の行為、貨幣資本と商品(生産要素)との再交換では、買い手によって剰余価値が実現されるのではなく、ここではただ貨幣と生産手段や労働力との交換によって剰余価値の生産が準備されるだけである。それどころではない。このような変態に流通期間――そのあいだは資本がおよそなにも生産せずしたがって剰余価値も生産しない期間――が費やされるかぎりでは、この期間は価値創造の制限である。そして、剰余価値は、利潤率としては流通期間の長さにちょうど反比例するものとして表わされるであろう。それだから、商人資本は価値も剰余価値も創造しないのである。すなわち、直接には創造しないのである。商人資本が流通期間の短縮に役だつかぎりでは、それは、間接には、産業資本家の生産する剰余価値をふやすことを助けることができる。商人資本が市場の拡張を助け資本家たちのあいだの分業を媒介し、したがって資本がより大きな規模で仕事をすることを可能にするかぎりでは、その機能は産業資本の生産性とその蓄積とを促進する。商人資本が流通期間を短縮するかぎりでは、それは前貸資本にたいする剰余価値の割合、つまり利潤率を高くする。商人資本が資本のよりわずかな部分を貨幣資本として流通部面に閉じ込めておくかぎりでは、それは、資本のうちの直接に生産に充用される部分を増大させる。

第十七章 商業利潤
P353L3
 こういうわけで、商品取引資本――それと結びついているかもしれない保管や発送や運輸や仕分けや小売りのようなすべての異質的な機能を取り去って売るための買いというその本来の機能に限定して見たそれ――は、価値も剰余価値も創造しないのであり、ただ、価値と剰余価値との実現を媒介し、また同時に諸商品の現実の交換、ある人の手から他の人の手への商品の移行、社会的物質代謝を媒介するだけである。とはいえ、産業資本の流通段階も生産と同様に再生産過程の一段階をなしているのだから、流通過程で独立に機能する資本もいろいろな生産部門で機能する資本と同様に年間平均利潤をあげなければならない。もし商人資本が産業資本よりも高い百分率平均利潤をあげるならば、産業資本の一部分は商人資本に転化するであろう。もし商人資本がより低い平均利潤をあげるならば、反対の過程が起きるであろう。商人資本の一部分は産業資本に転化するであろう。商人資本よりもたやすくその職分、その機能を変えることのできる資本部類はないのである。
 商人資本そのものは剰余価値を生まないのだから、平均利潤の形でその手に落ちる剰余価値は、明らかに生産的資本全体が生みだした剰余価値の一部分である。だが、いま問題なのは、どのようにして商人資本は、生産的資本が生みだした剰余価値または利潤のうちから自分のものになる部分を自分に引き寄せるのか?ということである。
 商業利潤は単なる追加であり、商品の価値を越えての商品の価格の名目的な引上げであるということは、ただ外観でしかない。

P354L5
 産業資本家の場合には、彼の商品の販売価格と購買価格との差額は、その商品の生産価格と費用価格との差額に等しく、または、社会的総資本を見る場合には、諸商品の価値と資本家にとっての諸商品の費用価格との差額に等しく、この差額はまた、諸商品に対象化されている労働の総量が諸商品に対象化されている支払労働の量を越える差額に帰着する。産業資本家によって買われた商品が販売可能な商品として再び市場に投げ返される前に、それらの商品は生産過程を通るのであり、この過程では後に利潤として実現されるべきその商品の価格成分がはじめて生産される。ところが、商品取引業者の場合はそうではない。商品が彼の手のなかにあるのは、ただ、商品がその流通過程にあるあいだだけのことである。・・・・・すなわち、産業資本家が商人に生産価格で売った商品、または、総商品資本を見る場合には、価値どおりに売った商品を、商人が生産価格よりも高く売り、その価格に名目的な追加をし、したがって、総商品資本を見れば、それを生産価格よりも高く売って、その実質価値を越える名目価値の超過分をとりこむということ、一口に言えば、商品をそれが値するよりも高く売るということによって、である。・・・・・
 これは、商品の価格引上げによる商業利潤の実現がさしあたり現象として現われる姿である。そして、じっさい、利潤は商品の名目的な価格引上げから生ずるという、すなわち商品を価値よりも高く売ることから生ずるという全観念は、商業資本の考え方から生まれたのである。
 しかし、もう少し詳しく見れば、これはただの外観だということがすぐわかる。また、資本主義的生産様式を支配的な生産様式として前提すれば、商業利潤はこのような仕方で実現されるのではないということがわかる。(ここで問題にするのは、つねに平均だけであって、個々の場合ではない。)商品取引業者が彼の商品にたいするたとえば10%の利潤を実現することができるのは、ただ、彼がその商品を生産価格よりも10%高く売るからにほかならない。とわれわれが想定するのはなぜであるか?それは、われわれが、この商品の生産者つまり産業資本家(彼は産業資本の人格化として外界にたいしてはつねに「生産者」として現われる)がその商品を商人に生産価格で売った、仮定したからである。・・・・・しかし、産業資本家が商人に商品を生産価格で売るということは、なぜ仮定されたのか?というよりも、この過程ではどういうことが前提されていたのか?それは、商業資本(ここで問題にするのはただ商品取引資本としての商業資本だけである)は一般的利潤率の形成には加わらないということである。一般的利潤率の論述ではどうしてもこの前提から出発せざるをえなかったのであるが、そのわけは、第一には、商業資本そのものがそのときにはわれわれにとってまだ存在しなかったからであり、第二には、平均利潤、したがってまた一般的利潤率が、さしあたりはどうしても別々の生産部面にある産業資本によって現実に生産される利潤または剰余価値の平均化として展開されざるをえなかったからである。これに反して、商人資本では、われわれが問題にするのは、利潤の分配には参加するがその生産には参加しない資本である。だから、今度は以前の論述を補足することが必要になるのである。
 一年間に前貸しされる産業資本の総額は720c+180v=900(単位はたとえば100万ポンド)で、
m´は100%だとしよう。そうすれば、生産物は720c+180v+180mである。次にこの生産物または生産された商品資本をWだとすれば、Wの価値または生産価格(というのは両者は諸商品の総計については一致するのだから)は1080であって、総資本900についての利潤率は20%である。この20%は、前に述べたところによれば、平均利潤率である。なぜならば、ここでは剰余価値は、別々な構成をもつあれこれの資本にたいしてではなく、平均構成をもつ総産業資本にたいして計算されているからである。だから、Wは1080で、利潤率は20%なのである。ところで、この900ポンドの産業資本のほかになお100ポンドの商人資本が加わって、これもその大きさに比例して産業資本と同じ利潤の分けまえをとると仮定しよう。前提によれば、この商人資本は総資本1000の10分の1である。そこで、商人資本は10分の1の割合で総剰余価値180の分けまえにあずかり、したがって18%という率の利潤を手に入れる。だから、実際には、総資本の残りの10分の9のあいだに分けられる利潤はたった162しかない。すなわち、900という資本にたいしてはやはり18%である。だから、Wが産業資本900の所有者たちによって商品取引業者に売られる価格は720c+180v+162m=1062である。そこで、商人が自分の資本100に18%の平均利潤をつけるとすれば、彼は諸商品を1062+18=1080で、すなわち諸商品の生産価格で、または総商人資本を見ればその価値で、売ることになる。といっても、彼は彼の利潤をただ流通のなかで流通によってあげるのであり、ただ彼の購買価格を越える彼の販売価格の超過分によってあげるのであるが、しかし、それにもかかわらず、彼はそれらの商品を価値よりも高く、または生産価格よりも高く、売るのではない。というのは、彼がそれらの商品を価値よりも安く、または生産価格よりも安く、産業資本家から買ったからにほかならないのである。・・・・・平均利潤率には、総利潤のうち商業資本の手に落ちる部分がすでに算入されている。それゆえ、総商品資本の現実の価値または生産価格は
k+p+h(このhは商業利潤)に等しいのである。つまり、生産価格または産業資本家自身が売る場合の価格は、商品の現実の生産価格よりも小さいのである。または、諸商品の総体を見れば、産業資本家階級がそれを売る価格は、その価値よりも小さいのである。たとえば前にあげた例では、900(諸費用)・プラス・900の18%、すなわち900+162=1062である。いま、商人は、自分にとって100の費用がかかる商品を118で売ることによって、たしかに18%をつけ加える、とはいえ、彼が100で買った商品には118の価値があるのだから、彼がその商品を価値よりも高く売ることにはならない。われわれは以上に述べたようないっそう詳しい意味での生産価格という表現を保持しておこうと思う。・・・・・
 このように、商人の販売価格を越えるのは、販売価格が総価値を越えるからではなく、購入価格が総価値に満たないからである。・・・・・
 以上に述べたことから次のようになる。
 (1) 産業資本にたいする商人資本の割合が大きければ大きいほど、産業利潤の率はそれだけ小さく、逆ならば逆である。
 (2) ・・・・・
 他の事情はすべて変わらないと前提すれば、商人資本(といっても小売商人の資本は一つの雑種で例外である)の相対的な大きさは、その回転の速度に反比例し、したがって再生産過程一般のエネルギーに反比例する。科学的分析の進行のなかでは、一般的利潤率の形成は、産業資本とその競争から出発して後にはじめて商人資本の介入によって訂正され補足され修正されるものとして現われる。歴史的発展の進行のなかでは事柄は正反対である。諸商品の価格を始めて多かれ少なかれ商品の価値によって規定するものは商業資本である。そして、一般的利潤率がはじめて形成されるのも、再生産過程を媒介する流通の部面でのことである。最初は商業利潤が産業利潤を規定する。資本主義的生産様式が広がって生産者自身が商人になってからはじめて、商業利潤は、総剰余価値のうちの、社会的再生産過程に携わる総資本の一可除部分としての商業資本に帰属する一可除部分に、縮小されるのである。

P360L12
・・・・・商人の貨幣資本は、事実上はただ、最終消費者のする支払を先にするだけである。とはいえ、このように言うことが正しいのは、ただ、これまでと同じように、商人が少しも空費を使わないということ、すなわち、彼が商品を生産者から買うために前貸ししなければならない貨幣資本のほかには、流動資本であろうと固定資本であろうとどんな資本も商品の変態すなわち売買の過程で前貸しする必要がないということを仮定する場合だけである。ところが、この過程のとおりにはいかないということは、すでに流通費の考察(第二部第六章)で見たとおりである。そして、このような流通費は、一部は商人が他の流通担当者たちから請求できる費用として現われ、一部は直接に彼の独自な業務から生ずる費用として現われるのである。
 このような流通費がどんな種類のものであろうとも、すなわち、純粋に商人的な業務そのものから生ずるもので商人の独自な流通費に属するものであろうと、または、補足的な、流通過程のなかで加わってくる生産過程、たとえば発送や運輸や保管などから生ずる費目を表わすものであろうと、とにかくこのような流通費は、商人の側で、商品購入に前貸しされた貨幣資本のほかに、つねに、これらの流通手段の購入や支払に前貸しされた追加資本を前提する。この費用要素は、流動資本から成っているかぎりでは全部が、固定資本から成っているかぎりではその摩滅の程度に応じて、追加要素として商品の販売価格にはいる。そして、純粋に商業的な流通費のように、商品の現実の価値追加分を形成しない場合にも、名目的な価値を形成する要素として商品の販売価格にはいる。しかし、流動資本であろうと固定資本であろうと、この追加資本全体が一般的利潤率の形成に加わるのである。・・・・・運輸業者や鉄道経営者や船舶運航業者は『商人』ではない。われわれがここで考察する費用は、買うことの費用であり、売ることの費用である。すでに前にも述べたように、このような費用は計算や簿記や市場操作や通信などに帰着する。そのために必要な不変資本は、事務所や紙や郵便料金などから成っている。その他の費用は、商業賃金労働者の充用に前貸しされる可変資本に帰着する。(発送費や運輸費や関税前払などは、一部は、商人が商品を買い入れるときにそれを前貸しするものと見ることができ、したがって商人にとっては購買価格にはいるものと見ることができる。)
 これらいっさいの費用は、商品の使用価値の生産に費やされるのではなく、商品の価値の実現に費やされるのである。それは純粋に流通費である。それは直接的生産過程にははいらないが、流通過程にはいるのであり、したがって再生産過程の総過程にはいるのである。

P362L7
 これらの費用のうちで、ここでわれわれの関心をひくただ一つの部分は、可変資本に投ぜられる部分である。(そのほかにも次のことが研究されなければならないであろう。第一に、ただ必要な労働だけが商品の価値にはいるという法則は、流通過程ではどのようにして貫かれるか。第二に、蓄積は商人資本の場合にはどのように現われるか。第三に、商人資本は社会の現実の総生産過程ではどのように機能するか。)・・・・・それゆえ、商業資本家は、剰余価値量のわけまえを受けるために、つまり自分の前貸を資本として増殖するために、賃金労働者を充用する必要はないのである。彼の営業や彼の資本が小さければ、彼自身が彼の充用するただ一人の労働者であってもよい。彼に支払われるものは、利潤のうちの、商品の購買価格と現実の生産価格との差額から彼のために生ずる部分である。
 他方ではまた、商人が前貸しする資本量が小さい場合には、彼が実現する利潤は、比較的高級な熟練賃金労働者一人の労賃よりもけっして大きくないこともあろうし、場合によってはそれよりも小さいことさえあるであろう。実際にも、商人のほかに、生産的資本家の直接の商事担当者である仕入れ人や販売人や出張員が機能していて、彼らは労賃の形なり販売のつど得られる利潤の配当(Provission, Tanti`eme)の形なりで同じかまたはより多くの収入を得ているのである。第一の場合には、商人が独立な資本家として商業利潤を取り入れる。他方の場合には、産業資本家の賃金労働者である店員に利潤の一部分が、労賃の形なり、彼を直接の商事担当者とする産業資本家の利潤の歩合配当の形なりで支払われるのであって、この場合には彼の雇い主は産業利潤も商業利潤も取りこむのである。しかし、これらのどの場合にも、たとえ流通担当者自身にとっては自分の収入が単なる労賃として現われ、自分のした労働への支払として現われようとも、また、そういうものとして現われない場合には、彼の利潤の大きさが比較的高級な労働者一人の労賃にしか匹敵しないことがあろうとも、彼の収入はただ所業利潤だけから生まれるのである。このことは、彼の労働が価値創造労働ではないということから出てくるのである。・・・・・商人資本が、それの必要な限界のなかに制限されているかぎり、相違はただ次の点だけである。すなわち、資本機能のこのような分割によって、ただ流通過程だけに費やされる時間が少なくなり、流通過程のために前貸しされる追加資本が少なくなり、そして、総利潤中の、商業利潤の姿で現われる損失分が、この分割のなされない場合に比べてより小さくなるということだけである。前にあげた例で商人資本100のほかにある720c+18v+180mが産業資本に162すなわち18%の利潤を残し、したがって18の控除をひき起こすとすれば、もしこの独立化がなければ必要な追加資本はおそらく200となり、そうなれば産業資本家の総前貸は900ではなくて1100となり、したがって剰余価値180にたいしてはたった164/11の利潤率となるであろう。・・・・・すなわち、社会の総資本の一部分は価値増殖過程にはかかわりのない付随的な操作のために必要であるということ、そして、社会的資本のこの部分は絶えずこの目的のために再生産されなければならないということである。個々の資本家にとっては、また産業資本家階級全体にとっても、そのために利潤率が減らされのであるが、それは、同じ量の可変資本を動かすために必要なかぎりで追加資本がつけ足されれば、そのつど生ずる結果なのである。

P366L3
 そこで問題は、商業資本家――ここでは商品取引業者――が使用する商業賃金労働者については事情はどうか?ということである。
 一面から見れば、このような商業労働者も他の労働者と同じに賃金労働者である。第一には、労働が商人の可変資本によって買われ、収入として支出される貨幣によって買われるのではなく、したがってまた、個人的サーヴィスのためにではなく、ただそれに前貸しされる資本の自己増殖という目的だけのために買われるというかぎりで、彼は賃金労働者である。第二には、彼の労働力の価値、したがって彼の労賃が、他のすべての賃金労働者の場合と同じように、彼の独自な労働力の生産・再生産費によって規定されていて、彼の労働の生産物によって規定されてはいないというかぎりで、彼は賃金労働者である。・・・・・
 商業賃金労働者についての厄介な点は、けっして、彼らは直接には剰余価値(利潤はその転化形態でしかない)を生産しないにもかかわらずどうして直接に自分たちの雇い主のために利潤を生産するのか、ということを説明することではない。この問題は事実上すでに商業利潤の一般的な分析によって解決されている。産業資本は、自分が少しも等価を支払っていない労働が商品に含まれており実現されているのでその労働を売ることによって利潤をあげるのであるが、それとまったく同じように、商業資本は、商品のなかに(商品の生産に投ぜられた資本が総産業資本の可序部分として機能するかぎりで、その商品のなかに)含まれている不払労働を全部は生産的資本に支払わないでおきながら、商品を売るときには、まだ商品のなかに含まれているが自分はそれに支払っていないこのような部分にも支払ってもらうことによって、利潤をあげるのである。剰余価値にたいする商人資本の関係は、産業資本のそれとは違った関係である。産業資本は他人の不払労働の直接的取得によって剰余価値を生産する。商人資本は、この剰余価値の一部分を産業資本から自分のほうに移させることによって、それを自分のものにする。・・・・・商業資本家は、彼の貨幣を資本にする機能そのものを、大部分は彼の労働者たちに行なわせる。このような店員たちの不払労働は、剰余価値をつくりだしはしないとはいえ、商業資本家のために剰余価値の取得をつくりだすのであって、結果から見ればこの資本にとっては同じことである。だから、この不払労働はこの資本にとっては利潤の源泉なのである。もしそうでなければ、商人的業務はけっして大規模には、つまりけっして資本主義的には、営まれることができないであろう。
 労働者の不払労働が生産的資本のために直接に剰余価値をつくりだすのと同様に、商業労働者の不払労働は商業資本のためにこの剰余価値の分けまえをつくりだすのである。
 厄介なのは次の点である。商人自身の労働時間や労働は、すでに生産されている剰余価値の分けまえを彼のためにつくりだすとはいえ、価値創造労働ではないとすれば、彼が商業労働力の買い入れに投ずる可変資本については事情はどうなのか?この可変資本は投下費用として前貸商人資本に加算することができるであろうか?もしできなければ、それは利潤率平均化の法則と矛盾するように見える。前貸資本としては100しか計算できないのに、150を前貸しする資本家があろうか?もしそれをするとすれば、それは商業資本の本質と矛盾するように見える。なぜならば、この資本種類が資本として機能するのは、産業資本のように他人の労働を動かすということによるのではなく、それ自身が労働するということ、すなわち売買の機能を果たすということによるのであって、ただそうすることの代償としてのみ、ただそうすることによってのみ、産業資本が生産した剰余価値の一部分を自分の手に移すのだからである。
 (そこで次のような点を研究しなければならない。商人の可変資本。流通で必要な労働の法則。どのようにして商人労働はその不変資本の価値を維持して行くか。総再生産過程での商人資本の役割。最後に、一方では商品資本と貨幣資本とへの、他方では商品取引資本と貨幣取引資本とへの、二重化。)

P370L3
 直接に商品の売買に投ぜられる総商人資本をBとし、これに相応する、商業的補助労働者への支払に投ぜられる可変資本をbとすれば、B+bは、どの商人も店員なしでやってゆくと仮定した場合、つまり一部分がbに投ぜられないと仮定した場合に必要な総商人資本Bの大きさよりも小さい。とはいえ、これではまだ困難はかたづいてはいない。
 商品の販売価格は、(1)B+bにたいする平均利潤を支払うのに足りるものでなければならない。このことは、すでに、B+bが元来のB一般の縮小であり、bのない場合に必要であろうよりも小さい商人資本を表わしているということによって、説明されている。しかし、この販売価格は、(2)bにたいする新たに追加的に現われる利潤のほかに、支払われた労賃すなわち商人の可変資本=bそのものをも補填するに足りるものでなければならない。このあとのほうのことが困難な点である。Bは、一つの新しい価格成分をなすのか、それとも、B+bによって得られる利潤のうちの、ただ商業労働者に関してのみ労賃として現われ商人自身に関しては彼の可変資本の単なる補填として現われる一部分でしかないのか?あとのほうの場合には、商人が彼の前貸資本B+bにたいしてあげる利潤は、ただ、一般的な率にしたがってBに落ちる利潤・プラス・bに等しいだけで、このbは彼が労賃の形で支払うものではあるがそれ自身は少しも利潤を生まないということになるであろう。
 じっさい、問題は、bの限界(数学的な意味での)を見いだすことである。まず、困難な点を精密に確定しておこう。直接に商品の売買に投ぜられる資本をBとし、この機能に消費される不変資本(物的な取引費用)をKとし、商人が投ずる可変資本をbとしよう。
 Bの補填は少しも困難を呈しない。それは、商人にとっては、ただ、実現された購入価格、または製造業者にとっての生産価格でしかない。商人はこの価格を支払う。そして、再販売によって彼の販売価格の一部分としてBを取りもどす。また、このBのほかに、前に説明したように、Bにたいする利潤を受け取る。たとえば商品は100ポンド・スターリングで、これにたいする利潤は10%だとしよう。そうすれば、この商品は110ポンドで売られる。この商品はすでに以前から100ポンドである。100ポンドの商人資本はこれにただ10をつけ加えるだけである。
 さらにKを見れば、これは、不変資本中の生産者が販売や購入に消費するであろう部分、といっても彼が直接に生産に使用する不変資本への追加分をなすであろう部分とせいぜい同じ大きさであり、実際にはこの部分よりも小さい。それにもかかわらず、この部分は絶えず商品の価格から補填されなければならない。または、同じことであるが、商品のこれに相当する一部分がこの形態で絶えず支出されなければならず、また――社会の総資本を見れば――この形態で絶えず再生産されなければならない。前貸不変資本のこの部分は、直接に生産に投ぜられている全不変資本量と同様に、利潤率に制限的に作用するであろう。産業資本家が自分の業務の商業的部分を商人に任せるかぎりでは、彼はこの資本部分を前貸しする必要はない。彼に代わって商人がそれを前貸しする。そのかぎりでは、これはただ名目上のことでしかない。だから、この不変資本の生産は、ある種の産業資本家たちの固有の業務または少なくともその一部分として現われるのであり、したがってこの種の産業資本家は、生活手段を生産する資本家に不変資本を供給する産業資本家と同じ役割を演ずるのである。だから、この両方によって、産業資本家にとっては利潤の削減が行なわれるのである。しかし、分業に伴う集積や節約のおかげで、この削減の程度は、産業資本家自身がこの資本を前貸ししなければならない場合に比べれば、より小さい。利潤率の削減は、このようにして前貸しされる資本はより少なくなるので、より少なくなるのである。
こういうわけで、これまでのところでは販売価格はB+K+(B+K)にたいする利潤から成っている。販売価格のこの部分は、これまでに述べたところでは、少しも困難を呈しない。ところが、今度はbが、すなわち商人の前貸しする可変資本が、はいってくる。
これがはいることによって、販売価格はB+K+b+(B+K)にたいする利潤+bにたいする利潤となる。
Bは購入価格を補填するだけで、Bにたいする利潤のほかにはどんな部分もこの価格につけ加えない。Kは、Kにたいする利潤だけではなく、Kそのものをつけ加える。しかし、K+Kにたいする利潤すなわち、流通費中の不変資本の形で前貸しされる部分・プラス・これに相応する平均利潤は、産業資本家の手のなかでは商業資本家の手のなかでよりも大きいであろう。平均利潤の削減は次のような形で現われる。すなわち、まず完全な平均利潤が――前貸産業資本からB+Kが引き去られてから――計算されるが、この平均利潤からB+Kのために引き去られる部分が商人に支払われ、したがってこの引き去り分が商人資本という特別な資本として現われるという形である。
しかし、b+bにたいする利潤については、すなわち、利潤率が10%と想定されているこの場合ではb+1/10bについては、事情は違っている。そして、ここに本当の困難があるのである。
商人がbで買うものは、想定によれば、ただ、商業労働、つまり資本流通の諸機能W-GおよびG-Wを媒介するために必要な労働でしかない。ところが、商業労働は、資本が商人資本として機能するために、資本が商品の貨幣への転化および貨幣の商品への転化を媒介するために、一般に必要な労働である。それは、価値を実現しはするが創造はしない労働である。そして、ただ資本がこのような機能を行なう――つまり資本家がこの操作、この労働を自分の資本で行なう――かぎりで、この資本は商人資本として機能して一般的利潤率の規制に参加するのであり、すなわち総利潤から自分の配当を引きだすのである。ところが、b+bにたいする利潤では、まず第一に労働に支払われ(というのは、それを産業資本家が商人自身の労働に支払っても商人から支払いを受ける店員の労働に支払っても同じことだから)、そして第二に商人自身がしなければならないはずのこの労働への支払にたいする利潤が支払われるように見える。商人資本は、第一にbの払いもどしを受け、第二にbにたいする利潤を受け取る。つまり、このようなことは次のようなことから生ずるのである。すなわち、商人資本は、まず第一に、自分が商人資本として機能するための労働にたいして支払を受けるということ、そして第二に、自分が資本として機能するので、すなわち機能資本としての自分に利潤で支払われるような労働をするので、利潤の支払を受けるということから生ずるのである。だから、これが解決しなければならない問題なのである。
 B=100、b=10、利潤率=10%と仮定しよう。われわれはK=ゼロとするのであるが、そのわけは、購買価格のうちでここでは問題にならないすでにかたづいている要素を再び不必要に計算に入れないようにするためである。そうすれば販売価格は、B+p+b+p(=B+Bp´+b+bp´
――p´は利潤率)=100+10+10+1=121となるであろう。
 しかし、もしbが商人によって労賃に投ぜられないとすれば――bはただ商業労働つまり産業資本が市場に投ずる商品資本の価値の実現のために必要な労働に支払われるだけだから――、事柄は次のようになるであろう。B=100で買ったり売ったりするために商人は自分の時間を費やすであろう。そして、彼の使える時間はこれだけだと仮定しよう。bすなわち10によって代表されている商業労働は、もしそれが労賃によってではなく利潤によって支払われるとすれば、もう一つの商業資本=100を前提する。というのは、その10%はb=10だからである。この第二のB=100は商品の価格に追加的にはいらないであろうが、しかし10%ははいるであろう。それだから、100ずつで二度=200での操作が行なわれ、商品を200+20=220で買うであろう。
 商人資本は、絶対に、流通過程で機能する産業資本の一部分が独立した形態にほかならないのだから、商人資本に関するすべての問題は次のような仕方で解決されなければならない。すなわち、さしあたりは、商人資本に特有な現象がまだ独立には現われないで産業資本に直接に関連してその分枝として現われているという形で問題を提起するという仕方である。作業場とは違った事務所として、商業資本はいつでも流通過程で機能している。そこで、いま問題になっているbも、さしあたりは産業資本家自身の事務所のなかで研究されなければならない。
 もともと、このような事務所は、産業的作業場に比べれば、あるのかないのかわからないほど小さいのが常である。とはいえ、生産規模が拡大されるにつれて、産業資本の流通のために絶えず行なわれなければならない商業的操作もふえてくるということは明らかであって、それは、商品資本の姿でそこにある生産物を売るためにも、その代金を再び生産手段に転化させるためにも、またこれらの全体について計算するためにも、必要な操作である。価格計算も簿記も出納も通信もすべてこれに属する。生産規模が発展すればするほど、同じ割合でではないにしても、産業資本の商業的操作、したがって価値および剰余価値を実現するための労働やその他の流通費もますます増大する。そのために商業賃金労働者の充用が必要になり、このような労働者が固有の事務所を形成するようになる。彼らのための出費は、労賃の形でなされるとはいえ、生産的労働の買い入れに投ぜられる可変資本とは違っている。それは、直接には剰余価値を増加させることなしに、産業資本家の出費、前貸しされるべき資本の量を増加させる。なぜならば、この出費によって支払われる労働は、ただすでに創造されている価値の実現に用いられるだけだからである。この種の他の出費がどれでもそうであるように、この出費も利潤率を低下させる。なぜならば、前貸資本は増大するのに剰余価値は増大しないからである。剰余価値mは変わらないのに前貸資本CはC+デルタCに増大するとすれば、利潤率m/Cに代わってそれよりも小さい利潤率m/C+デルタCが現われる。そこで産業資本家はこの流通費を、不変資本のための彼の出費とまったく同様に、その最小限度に制限しようとする。だから、産業資本とその商業賃金労働者との関係は、その生産的賃金労働者との関係と同じではない。他の事情が変わらないで生産的賃金労働者がより多く充用されればされるほど、それだけ生産は大量的になり、それだけ剰余価値はまたは利潤は大きくなる。ところが、反対に、生産の規模が大きくなればなるほど、そして実現されるべき価値、したがってまた剰余価値が大きくなればなるほど、つまり生産商品資本が大きくなればなるほど、それだけ事務所費が、相対的にはではないとしても、絶対的には増大して、一種の分業への動機を与える。どんなに利潤がこのような支出の前提であるかは、ことに、商業賃金の増大につれてしばしばその一部分が利潤の歩合で支払われるということに現われている。労働といっても、価値の計算とかその実現とか実現された貨幣の生産手段への再転化とかに伴う媒介的操作でしかない労働、したがってすでに生産されていてこれから実現されるべき価値の大きさによってその規模が定まるような労働、このような労働が、直接に生産的な労働のようにこれらの価値のそれぞれの大きさや数量の原因として作用するのではなく、その結果として作用するということは、当然のことである。そのほかの流通費についても同様である。多くのものを計算し包装し運送するためには、多くのものがそこになければならない。包装労働や運送労働などの量は、その活動目的である商品の量によって定まるのであって、その逆ではないのである。
 商業労働者は直接には剰余価値を生産しない。しかし、彼の労働力の行使は、緊張や力の発揮や消耗として、他のどの賃金労働者もそうであるように、けっして彼の労働力の価値によって限定されてはいない。それゆえ、彼の賃金は、彼が資本家のためにその実現を助ける利潤量とはなんの必然的な関係もないのである。彼が資本家に費やさせるものと彼が資本家の手に入れてやるものとは、違った大きさである。彼が資本家の手に入れてやるというのは、彼が直接に剰余価値を創造することによってではないが、彼が一部分は不払の労働をするかぎりで、剰余価値を実現するための費用の軽減を助けるからである。本来の商業労働者は、賃金労働者の比較的高級な部類に属する。すなわち、その労働が技能労働であって平均労働の上にある賃金労働者の部類に属する。とはいえ、その賃金は、資本主義的生産様式が進むにつれて、平均労働に比べてさえも下がってくる傾向がある。それは、一部は事務所内での分業によるものである。すなわち、労働能、力のただ一面的な発達だけが生産されることになり、そしてこの労働能力の生産は資本家にとって一部は少しも費用がかからないで、むしろ労働者の技能が機能そのものによって発達し、しかもそれが分業につれて一面的になればなるほどますます急速に発達するからである。第二には、資本主義的生産様式が教授法などをますます実用本位にするにしたがって、予備教育や商業知識や言語知識などが科学や国民教育の進歩につれてますます急速に、容易に、一般的に、安価に再生産されるようになるからである。国民教育の普及は、この種の労働者を以前はそれから除外されていたもっと劣悪な生活様式に慣れていた諸階級から補充することを可能にする。さらに、それは志願者をふやし、したがって競争を激しくする。こうして、いくらかの例外を除いて、資本主義的生産様式が進むにつれてこれらの人々の労働力の価値は下がってくる。彼らの労働能力は上がるのに、彼らの賃金は下がる。資本家は、より多くの価値と利潤とを実現することになれば、このような労働者の数をふやす。この労働の増価は、つねに剰余価値の増加の結果であって、けっしてその原因ではないのである。



© Rakuten Group, Inc.