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元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第五篇第三五章~三六章

第三五章 貴金属と為替相場
  第一節 金準備の運動
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 貴金属の流入については次のことに注意しておきたい。
 第一には、一方では金銀を産しない地域内での金属の移動と、他方では金銀の産地から他の産地への金銀の流動およびこれら諸国間のこの追加分の配分とのあいだに、区別がなされなければならない。・・・・・
 第二に。金銀を生産しない国々のあいだでは、貴金属はたえず流出したり流入したりしている。同じ国が絶えずそれを輸入し、また同様に絶えず輸出する。・・・・・貴金属の輸入超過や輸出超過は、ただ商品の輸入と輸出との関係の結果であり表現であるかのようにしか考えないのが常であるが、それは、同時に、商品貿易とは無関係な貴金属そのものの輸入と輸出との関係の表現でもあるのである。
 第三に。輸入と輸出とのどちらが優勢であるかは、だいたいにおいて中央銀行の金属準備の増減によって計られる。この測定器がどの程度まで正確であるかは、もちろん、まず第一に、銀行制度一般がどの程度まで中央集権化されているかどうかによって定まる。・・・・・
 第四に。金属輸出が流出(drain)という形をとるのは次のような場合である。すなわち、減少運動がかなり長いあいだ続き、したがって減少が運動の傾向として現われ、銀行の金属準備がその中位の高さよりもかなり低く押し下げられてついにはこの準備金の中位の最低限度まで減少してしまう場合である。・・・・・
 第五に。いわゆる国立銀行の金属準備の使命――といっても、けっしてそれだけが単独に金属準備の大きさを規制するものではない、というわけは、金属準備は国内取引や対外取引が麻痺しただけでも増大することがありうるからである――、この使命は三重である。(1)国際的支払のための準備金、一口に言えば世界貨幣の準備金。(2)膨張したり収縮したりする国内金属流通のための準備金。(3)銀行の機能と関連するものであって、単なる貨幣としての貨幣の機能とはなにも関係のないもの、すなわち、預金支払いのためや銀行券の兌換性のための準備金。それゆえ、この金属準備は、これらの三つの機能のどの一つに影響する事情によっても影響されることがありうるのである。すなわち、国際的準備金としては国際収支によって影響され、その場合国際収支がどんな原因によって決定されていようと、また貿易収支との関係がどうであろうと、それはかまわない。国内金属流通の準備金としては、この流通の膨張収縮によって影響される。第三の、支払保証準備金としての機能は、金属準備の独立な運動を規定するのではないが、しかしそれは二重に作用する。国内流通で金属貨幣(したがって銀を価値尺度とする国では銀貨)の代わりをする銀行券が発行されるならば、準備金の第二の機能はなくなる。そして、このために役だってきた貴金属の一部分は、引き続き外国へ出て行くであろう。この場合には、国内流通のための金属鋳貨の引出しは生じないし、また同時に、流通している金属貨幣の一部分の不動化による金属準備の一時的な補強も行なわれなくなる。さらに、もし預金の払出しや銀行券の兌換性のための金属準備の最低限度だけはどんな事情のもとでも確保されなければならないとすれば、このことは独特な仕方で金の流出または流入の作用に影響する。それは、準備金のうち、銀行がどんな事情のもとでも保有していなければならない部分に、または、銀行が他日無用なものとして手放そうとする部分に、影響する。純粋な金属流通と中央集権化された銀行制度のもとでは、銀行はその金属準備を同様にその預金の払出しの保証ともみなさなければならないであろう。そして、もし金属の流出が起きれば、1857年にハンブルグで起きたのと同じ恐慌が起きることもあるであろう。
 第六に。1837年のようなことを別とすれば、現実の恐慌はいつでも為替相場の転回の後に、すなわち貴金属の輸入が再び輸出を越えたときに、はじめて起きたのである。・・・・・
 第七に。一般的な恐慌が燃え尽きてしまえば、金銀は再び――その生産国からの新産貴金属の流入は別として――以前に各国それぞれの準備金として均衡を保って存在していたときと同じ割合で配分される。そのほかの事情が変わらないかぎり、それぞれの国にある金銀の相対的な量は、その国が世界市場で果たす役割によって規定されているであろう。金銀は、正常な分け前よりも大きな分け前をもっていた国から流れ出て、他方の国に流れ込む。・・・・・
 第八に。金属の流出は、たいていは外国貿易の状態の変化の兆候であって、この変化はまた、事情が再び恐慌に向かって成熟しつつあることの前兆である。
 第九に。国際収支はアジアに順でヨーロッパやアメリカに逆であることもありうる。

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 貴金属の輸入はおもに二つの時期に起きる。一方では、利子率の低い第一の局面でのことであって、この局面は恐慌の後に現われて生産の縮小を表わしている。そして次には、利子率は上がってくるがまだ中位の高さには達していない第二の局面でのことである。この局面では、還流は容易に実現され、商業信用は大きく、したがって貸付資本にたいする需要は生産の拡大に比例して増大しないのである。貸付資本が比較的豊富なこの二つの局面では、金銀という形態、つまりさしあたりは貸付資本としてしか機能できない形態で存在する資本の過剰な流入は、利子率に、したがってまた、事業全体の調子にも、大きく影響せざるをえないのである。
 他方では、入金がもはや順調ではなくなり、市場は供給過剰になって、外観上の繁栄がただ信用だけによって維持されるようになれば、したがってすでに貸付資本にたいする非常に強い需要が存在し、したがってまた利子率が少なくともすでに中位の高さに達していれば、そこには貴金属の流出、その連続的な激しい輸出が現われる。このような、まさに貴金属の流出に反映する諸事情のもとでは、直接に貸付可能な貨幣資本として存在する形態での資本を連続的に引き上げることの影響はかなり強くなる。それは直接に利子率に作用せざるをえない。ところが利子率の上昇は、信用取引を縮小させるどころではなく、かえってそれを拡大してそのあらゆる補助手段を過度に緊張させるようになる。それだから、この時期は破局の前触れになるのである。

   第二節 為替相場
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 外国為替相場は次のような事情によって変動することがありうる。
 (1) 当面の国際収支によって。これがどんな原因によって規定されていようとも、すなわち純粋に商業的な原因によってであろうと、外国での投資によってであろうと、あるいはまた、戦争などにさいして外国で正貨支払いがなされるかぎりでは、国家支出によってであろうと、それは問題ではない。
 (2) 一国の貨幣の減価によって。それは金属貨幣であっても紙幣であってもかまわない。これは純粋に名目的である。1ポンド・スターリングが以前の半分の貨幣しか表わしていないとすれば、言うまでもなくそれは25フランではなく12 1/2フランに換算されるであろう。
 (3) 二つの国の一方は「貨幣」として銀を使用し他方は金を使用している場合には、この二つの国のあいだの為替相場はこの二つの金属の相対的な価値変動によって左右される。

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 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」[“The Scotch hate gold.”]紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在を持っている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。

第三六章 資本主義以前
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 利子生み資本、またはその古風な形のものは高利資本と呼んでもよいが、それは、その双性の兄弟である商業資本とともに、資本の大洪水以前的形態に、属する。すなわち、資本主義的生産様式よりもずっと前からあって非常にさまざまな経済的社会構成体のなかに現われる資本形態に、属する。
 高利資本の存在のためには、生産物の少なくとも一部分が商品に転化しており商品取引と同時に貨幣がそのさまざまな機能において発展しているということのほかには、なにも必要ではない。
 高利資本の発展は、商人資本の発展に、またことに貨幣取引資本の発展につながっている。古代ローマでは、製造工業が古代の平均的発展よりもずっと低い状態にあった共和制の最後の時代以来、商人資本も貨幣取引資本も高利資本も――古代的形態のなかでは――最高点にまで発展していた。
 すでに見たように、貨幣が現われれば必然的に貨幣蓄蔵も現われる。とはいえ、職業的な貨幣蓄蔵者は、高利貸に転化するときにはじめて重要になるのである。・・・・・
 とはいえ、資本主義的生産様式以前の時代に高利資本がとる特徴的な存在形態には、二つのものがある。私は特徴的な形態と言う。同じこれらの形態は資本主義的生産の基礎の上でも再現するが、しかし単に従属的な形態としてである。それらはここではもはや利子生み資本の性格を規定する形態ではない。この二つの形態というのは、第一に、浪費をこととする貴人、おもに土地所有者への貨幣貸付による高利である。第二には、自分自身の労働条件をもっている小生産者への貨幣貸付による高利である。この小生産者のうちには手工業者も含まれているが、しかしまったく独自に農民が含まれている。というのは、およそ資本主義以前の状態にあっては、それが小さな独立な個別生産者たちの存在を許すかぎりでは、農民階級がその大多数をなさざるをえないからである。両方とも、高利による富裕な土地所有者の破滅も、小生産者たちの搾取も、大きな貨幣資本の形成と集積とに通ずる。しかし、どの程度までこの過程が近代ヨーロッパでのように古い生産様式を廃止するかということは、また、歴史的な発展段階によって、またそれとともに与えられる諸事情によって、定まるのである。・・・・・
 ここでは、利子という形で、生産者の最も必要な生活手段(後の労賃に相当する額)を越えるすべての剰余(後には利潤や地代として現われるもの)が高利貸によって呑みこまれてしまうこともありうる。それだから、国家の手にはいるものを除いてすべての剰余価値を利子が取りこむという場合のこの利子の高さを、利子は、少なくとも正常な利子は、この剰余価値のただ一部分をなしているだけだという場合の近代の利子率の高さと比較するのは、まったくばかげたことなのである。このような比較にさいしては、賃金労働者は自分を使用する資本家のために利潤も利子も地代も、要するに全剰余価値を生産して引き渡すのだということが忘れられているのである。ケアリはこのばかげた比較をやって、それによって、資本の発展とそれに伴う利子率の低下とが労働者にとってどんなに有利であるかを示そうとしている。・・・・・
 奴隷制が行なわれているかぎり、あるいはまた剰余生産物が封建領主やその家臣によって食いつぶされてしまうかぎり、そして奴隷所有者や封建領主が高利に抑えられているかぎり、生産様式はやはり同じままである。ただそれが労働者にとっていっそう過酷になるだけである。債務を負った奴隷所有者や封建領主がますます多く吸い取るのは、彼自身がますます多く吸い取られるからである。あるいは、彼はついに高利貸に席を譲ってしまい、高利貸自身が土地所有者や奴隷所有者になるのであって、ちょうど古代ローマの騎士がそれである。昔の搾取者が行なう搾取は多かれ少なかれ家長的だった、というのはそれがだいたいにおいて政治的権力手段だったからであるが、この搾取者に代わって、冷酷な、金銭をむさぼる成り上がり者が現われるのである。しかし、生産様式そのものは変えられないのである。
 資本主義以前のすべての生産様式のもとで高利が革命的に作用するのは、ただ、高利が所有形態を破壊し分散するからでしかない。つまり、この所有形態の強固な基礎と、それが同じ形態で絶えず生産されることとに、政治的編成はもとづいているのである。アジア的な諸形態のもとでは、高利は、経済的衰微と政治的腐敗とのほかにはなにもひき起こすことなしに、長く存続することができる。・・・・・
 高利は、消費的な富に比べれば、それ自身資本の成立過程として歴史的に重要である。高利資本と商人財産とは、土地所有者に依存しない貨幣財産の形成を媒介する。生産物の商品としての性格が発展していなければいないほど、交換価値がその生産をその十分な広さと深さとにおいて征服していなければいないほど、ますます貨幣は、使用価値での富の局限された表現様式に対立して、本来の富そのものとして、一般的な富として、現われる。このことに貨幣蓄蔵はもとづいている。世界貨幣および蓄蔵貨幣としての貨幣を別とすれば、特に支払手段の形態こそは、貨幣が商品の絶対的形態として現われるものである。また、特に支払手段としての貨幣の機能こそは、利子を、したがってまた貨幣資本を発展させるものである。浪費をこととし退廃をひき起こす富
が欲するものは、貨幣としての貨幣、なんでも買える手段としての貨幣である。(また債務支払のためにも。)小生産者が貨幣を必要とするのは、なによりもまず支払のためである。(領主や国家への夫役や現物納付が貨幣地代や貨幣租税に転化することはこの点で大きな役割を演ずる。)どちらの場合にも貨幣は貨幣として必要とされるのである。他方、貨幣蓄蔵は高利においてはじめて現実的となり、その夢を実現する。貨幣蓄蔵の所有者が望むものは、資本ではなく、貨幣としての貨幣である。しかし、利子によって彼はこの蓄蔵貨幣をそのまま資本に転化させる。・・・・・
 とはいえ、支払手段としての貨幣の機能は、高利の本来の大きな特有な地盤である。一定の期限のある貨幣納付、すなわち借地料や年貢や租税などはみな貨幣支払の必要を伴っている。それだから、概して高利は、古代ローマから近代にいたるまで、徴税請負人につきものなのである。
・・・・・
 だいたいにおいて利子生み資本は近代的信用制度のもとでは資本主義的生産の諸条件に適合させられる。高利そのものは、ただ存続するだけではなく、資本主義的生産の発展している諸国民のもとでは、すべての古い立法がそれの課していた制限から解放されるのである。利子生み資本は、資本主義的生産様式の意味では借入がなされないような、またなされることができないような、諸個人や諸階級にたいしては、またはそのような事情のもとでは、高利資本の形態を保持する。たとえば、質屋などで個人的な必要のために借りる場合、享楽的富のために浪費の目的で借りる場合、または、生産者が資本家でない生産者、小農民や手工業者などであり、したがってまた直接生産者として自分自身の生産条件の所有者である場合、最後に、資本家的生産者が小さな規模で仕事をしており、したがってあの自分で労働する生産者によく似ている場合がそれである。・・・・・
 しかし、けっして忘れてならないのは、第一には、相変わらず貨幣――貴金属の形態での――が土台であって、この土台から信用制度は事柄の性質上けっして離脱することができないということである。第二には、信用制度は私人の手による社会的生産手段(資本や土地所有の形態での)の独占を前提するということであり、信用制度はそれ自身一方では資本主義的生産様式の内在的形態であるとともに他方ではこの生産様式をその可能な限りの最高最終の形態まで発展させる推進力だということである。・・・・・
 高利も商業も与えられた生産様式を搾取するのであり、それをつくりだすのではなく、外からそれに関係するのである。高利は、絶えず繰り返しその生産様式を搾取できるようにするためにそれを直接に維持しようとするのであり、保守的であり、ただそれをいっそう悲惨にするだけである。生産要素が商品として生産過程にはいり商品として生産過程から出てくるということが少なければ少ないほど、貨幣から生産要素をつくりだすことはますます特別な行為として現われる。流通が社会的再生産のなかで演ずる役割が重要でなければないほど、ますます高利は栄えるのである。
 貨幣財産が特別な財産として発展するということは、高利資本に関して言えば、高利資本はそのすべての請求権を貨幣請求権の形でもっているということを意味している。生産の主要部分が現物給付などに、つまり使用価値に、限られていればいるほど、ますますその国では高利資本が発展するのである。
 高利が二つのことを実現するかぎり、すなわち、第一には一般に商人身分と並んで独立な貨幣財産を形成するということを実現し、第二には労働条件をわがものにするということ、すなわち古い労働条件の占有者を滅ぼすということを実現するかぎり、高利は産業資本のための諸前提を形成するための強力な槓?である。・・・・・
      利子禁止が教会に教えた利益
 「利子をとることを教会は禁止していた。しかし、窮境を脱するために自分の財産を売ることを禁止してはいなかった。それどころか、貨幣の貸し手に自分の財産を一定の期間、または返済が行なわれるまで譲り渡しておいて、貸し手はそれを担保とみなすと同時に占有期間中もそれを利用して、自分が手放していた貨幣の代償が得られるようにすることを、けっして禁止してはいなかった。・・・・・教会自身も、また教会に属する共同団体や聖徒団体も[Pia corpora]、ことに十字軍時代には、そこから大きな利益を引き出した。このことは、国富の一大部分をいわゆる『死手』に占有させることになった。なぜならば、ことに、このように固定した抵当の占有を隠しておくことはできなかったので、ユダヤ人はこのやり方では高利貸をすることができなかったからである。・・・・・もし利子の禁止がなかったならば、教会も修道院もこんなに富裕になることはけっしてできなかったであろう。」(J・G・ビュッシュ『商業の理論的・実際的説明』、第三版、ハンブルグ、1808年、第二巻、55ページ。)




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