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元MONOZUKIマスターの独白

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『国家の品格』藤原正彦を読んで

『国家の品格』藤原正彦を読んで


 


 論理が命であろうと一般的にはおもわれている数学者が、その「論理」の限界性、不可能性を梃子にして、論旨を展開していることがこの本のセールスポイントであろう。
 論理だけで構築されている数学のような分野でも、論理ですべてに決着をつけられない事例として、藤原は「不完全性定理」なるものの存在を挙げています。数学に疎いわたしが、当然のことながら始めて耳にする定理です。藤原によれば『どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定出来ない命題が存在する』ということを、一九三一年にオーストリアの数学者クルト・ゲーデルが証明したそうです。
 「数学の世界でさえこうである、いわんや一般の世界では」というスタンスで藤原は、様々な事例、例え話をならべて、論理の限界性、不完全性、不可能性を説いている。しかし、いうまでもなく藤原は、論理がダメと主張しているわけではない。論理だけではダメといっているのである。『論理だけでは人間社会の解決は図れない』といっているのである。
 帝国主義、共産主義、資本主義も、藤原によれば、それが論理ゆえにダメと一刀両断のもとに切り捨てられます。藤原の全体の議論を大きく損ねているわけではないとはいえ、わたしには、杜撰とおもわれるる点を指摘しておきます。『歴史を振り返ると「帝国主義」の時代というのがありました』(傍点筆者)と、藤原は近代的合理精神の破綻を説くなかで、あっさり述べている。地政学的にその国を自国の利益に組み入れる、というような古典的で露骨で可視的で、なおかつ(ここが一番肝心な所であるが)効率の悪い「帝国主義」は、なるほど過去のものです。しかし、資本の論理は、藤原がおもうような善意とか悪意などでは動くことはありません。資本主義は、他国の領土などを占領したり統治したりというコストを嫌って、当該国から経済的利益のみを得たいという、スマートで不可視的で効率の良い「帝国主義」へと形態をすでに変えているのです。藤原のいうグローバルスタンダードはアメリカンスタンダードにすぎない、という主張はこの意味において同意できる。おなじくこの意味において、すでに日本はアメリカ帝国主義の一属国にすぎないともいいうるのである。また、なんとかのひとつ覚えよろしく、どこかの首相が叫んでいる「市場のことは市場に」という市場原理主義のキャッチフレーズも、資本主義の厚化粧を落としてみれば「軽くヤバイ」などといってすまされるたぐいのものではないと気づくでしょう。
 もうひとつ挙げておきます。長くなりますが、省略するとわかりづらいのでそのまま引用します。『平等と平等も衝突です。平等な条件で競争すると弱肉強食となり、貧富の差が大きくなり、不平等となります。(1)結果の平等ではなく機会の平等だ、という論が流行していますが、噴飯ものです。全大学生の親の中で、東大生の親の所得が最も多いことが証拠です。貧者の子弟は良質の教育を受ける経済力に欠けるため、東大入学の機会が小さくなります。(2)すなわち、平等な競争が貧富の差という結果を生み、それが機械の不平等を生んでいるのです。(3)平等が不平等を生むということです。(4)結局、神は自由も平等も与えなかったということです。』(傍線、傍点、括弧数字すべて筆者)なんだか、入試センターの国語の出題文みたいになってしまいました。みなさんは、この文章をすんなり理解できますか?わたしには、なにが「噴飯もの」なのか、なにが「すなわち」なのか、よく飲み込めません。まず、傍線(1)は、ひとつの論理、仮説です。わたしも、この論理に異論はありません。そして、藤原が「証拠」として提出した傍線(2)は、それ自体は統計的事実であって、これもなんら異論を差し挟む余地をみとめません。しかし、傍線(3)に至ると解せません。論理の飛躍もしくはすり替えがおこなわれているからです。論理とか仮説ではなく、歴史的事実とか現実において、いつどこで「平等な競争」なるものが成立したというのだろうか。藤原がいうような、平等と平等が衝突するわけでも、傍線(4)のような「平等が不平等を生む」わけでもなく、「不平等が不平等を生む」ということにすぎない。つまり不平等の再生産過程こそが、歴史的事実であり現実であったはずにちがいない。
 また藤原は、この著書の第三章において、「自由」「平等」「民主主義」についても、その成立および存在に疑問を投げかけている。そして同時にわたしもここで藤原に対し、この著作の根幹にかかわる疑問を投げかけたいとかんがえている。藤原は、こういう。
『もちろん国民が時代とともに成熟していくなら問題はありません。・・・・・しかし、冷徹なる事実を言ってしまうと、「国民は永遠に成熟しない」のです。・・・・・したがって、「成熟した判断が出来る国民」という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない。』と断じたあと、藤原は、「平等」ではなく「惻隠」をと説く箇所で、さらにこう断じます。『・・・・・「惻隠」こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となります。』(傍線はいずれも筆者)‘
 「国民」が永遠に成熟しないかどうかは、ここでは問わない。「惻隠」が「平等」以上の有効な価値を有しているか否かも、ここでは問わない。問題は、藤原が一方で期待などかけようもないとにべもなく否定している「国民」と、もう一方で同じ藤原が多大な期待をかけようとしている「人々」は、いったいどんな関係にあるのか理解に苦しむということです。わたしには、「国民」も「人々」も同じ人間群を指しているとしかおもえません。藤原は、自身が期待できないとする同じ人間群に対し、期待すると表明しているにすぎない。つまり、明らかな論理矛盾です。藤原自身の語り口を真似るならば、冷徹なる事実を言ってしまうと、自分の論理的都合を優先するあまりのごく単純な不具合にすぎません。
 この第三章には、ほかにも細かなほころびがいくつか見うけれられます。たとえば、資本主義の宗教的根拠となっているプロタンティズム。そのなかでも、カルヴァン主義の「予定説」の非常識を説くのに、藤原は『仏教の方では基本的に、善をなした人とか、念仏を一生懸命に唱えた人だけが救済されるという、理解しやすい因果律だからです。』という。キリスト教同様、仏教にもいろんな宗派があります。浄土系の他力道では、藤原のいう理解しやすい因果律ばかりではないでしょう。親鸞、一遍までいけば「いわんや悪人をや」という逆説まで包容されていることも、広く知られているはずである。
 また藤原は、「マスコミが第一権力に」という箇所でこうもいう。『・・・主権在民とは「世論がすべて」ということです。そして、国民の判断材料はほぼマスコミだけですから、事実上、世論とはマスコミです。言い方を変えると、日本やアメリカにおいては、マスコミが第一権力になっているということです。・・・・・現実にはこの立法・行政・司法の三権すら、今では第一権力となったマスコミの下にある。』ここにはふたつ問題が含まれている。ひとつは、「国民」が判断材料を「ほぼマスコミ」しか持ち得ないのに、藤原および藤原が推奨するエリートたちは、黄金にも似た特別な判断材料を持っているらしいか持ち得るということである。これは眉唾でしょう。わたしにいわせれば、藤原もしくはエリートたちが持っているらしい、特別な判断材料がかりに存在するとしても、その程度のものは「国民」だって持っているだろうし、持ち得るはずです。ここで、暗黙裡に藤原がいいたいのは、どんな判断材料も「国民」には猫に小判だというのが本音なのではないのか。
 ふたつめは、もうすこし悪質です。比喩とか例えならともかく、あるいは井戸端会議や酒場の酔いどれ談義ならば、笑って聞き逃すことも可能でしょう。しかし、ベストセラーといえるほどの本の著者の言説となると、昨年の小泉劇場選挙にも似たうそ寒いものを感ずる。わたしは、ここでは瑣末な議論よりも、藤原に対しひとつの仮説を実験することを奨めたい。かれが第一権力とする「マスコミ」を味方につけて、国家権力と対決するに足るテーマをかけて本気で闘ってみるといい。そこでは、藤原自身もいうところの「論理」や「理屈」が、なんの役にも立たないことをおもい知らされ、唯一第一の権力の所在がいずこにあるのか、いやでもおもい知るにちがいない。その肉体でもって。
 さらに、「真のエリート」が必要という部分でも、藤原はこう述べている。『・・・・放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。』(傍点筆者)自分だけは間違いない、と藤原はかんがえているだろう。けれども、エリートとくに藤原がお気に召す「真のエリート」なるものは、だれがどこでどのように認定するのか、ぜひ藤原にお聴きしたいものです。このかんがえ方の構造には、ヒットラーなるものを生む危険性が胎生されているとわたしはおもう。戦争をする主体は、暴力装置=軍事力をその当該国において所有する国家権力であることは、自明の理である。にもかかわらず藤原は、自身が否定的な「論理」、しかも「形式論理」を用いて「主権在民が戦争を起こす」などという、結論をむりやり導き出す。この「形式論理」を敷衍していけば、戦争を総理大臣がひきおこしても、天皇が・・・、将軍が・・・、王様が・・・大統領がひきおこしても、すべて愚かな国民が、・・・人民が、・・・人々が悪いとなるしかない。
 かくのように、『国家の品格』というタイトルにもかかわらず、国家にかかわる部分の把握が、藤原において地道に明確に掘り下げられた形跡がみられない。むしろそこのあたりを、意図的に曖昧かつ乱暴に素通りした感さえある。わたしが疑問を抱く箇所は、ほとんどそこにかかわるからである。たとえば、『国家の品格』ではなく、『人間の品格』とか『国際人の品格』であったなら、理解もでき、腑にも落ちる箇所はいくらでもある。ただし、センセイショナリティは格段に落ちることになって、ベストセラーでありえたかどうか保証の限りではない。
 そうはいっても、この本にはキラリと光るいくつもの主張もたしかにある。論理だけでは人間社会の解決は図れない。情緒と形の大切さ。武士道精神の復活。天才を生む風土。等々、大上段に振りかぶらない教育論、人間論としてならば、きわめてユニークでおもしろい読み物であることは、けっして否定しない。確率論に関したところでは、「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺を例にして、おもしろおかしく解説してくれている。それによると、風が吹いても桶屋が儲かる確率は一兆分の一以下であり、ようするに儲からないとのことだそうです。
 この手法を真似ていえば、藤原の『国家の品格』を読んで、「国民が民主主義を放棄する」確率、「エリートから真のエリートを選び出す」確率、「真のエリートが誤謬を犯さない」確率、「真のエリートが品行方正のままいられる」確率などを掛け合わせると、「品格ある国家」の出現する確率は、いかほどのものになるでしょうか。わたしには、「危うい国家」が出現する可能性よりも高いとは、とうていおもえません。
 結論として、民主主義の内実とは、主権在民を形式的なものからより真実なものへと、一歩でも半歩でも近づける永久作業のことにほかならない。「成熟しそうもない国民」のひとりとして、また「惻隠の情を持つことができそうな人々」のひとりとして、わたしは、それがたとえ蝸牛のような歩みであったとしても、蝸牛の歩みを歩み続けるほかはないとかんがえます。これまでに死に終えた名も無き民と、いまも生きている名も無き民がつながる術は、それしかないとおもうから。
                      青柳 昭廣(2006.1.24)



注:傍点の表示がマスターにはできませんので読みづらいとこはお許しください。


  


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