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元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第一篇第一章

    第一部 資本の生産過程
          
第一篇 商品と貨幣
  第一章 商品
   第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

P51 L15
 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。
 そこで商品体の使用価値を見ないことにすれば、商品体に残るものは、もはやただ労働生産物という属性だけである。・・・・・
・・・・・これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、還元されているのである。・・・・・
・・・・・これらの物が表しているのは、もはやただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられているということだけである。

  P55 L8
 ・・・つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。
 ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。
{・・・・・商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に交換によって移されなければならない。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。

   第二節 商品に表わされる労働の二重性

  P57 L6
 上着とリンネルとが質的に違った使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違ったもの――裁縫と織布である。もし、これらの物が質的に違った使用価値でなく、したがって質的に違った有用労働の生産物でないならば、それらはおよそ商品として相対することはありえないであろう。上着は上着とは交換されないのであり、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはないのである。
 いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現れている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。

  P58 L10
 使用価値である上着やリンネルなど、簡単に言えばいろいろな商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働との結合物である。

  P60 L2
・・・たしかに、人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表している。・・・・・

・・・・・より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたものまたはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。

P63 L3
 すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、多面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

   第三節 価値形態または交換価値
     A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
  P65 L10
 X量の商品A=Y量の商品BまたはX量の商品AはY量の商品Bに値する。

     一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

  P65 L15
 ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表される。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。

     二 相対的価値形態
      a 相対的価値形態の内実 

  P69 L4
・・・・・ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。
 しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。
  P70 L18
・・・・・使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違った物であるが、価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。このようにして、リンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。リンネルの価値存在が上着とのその同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊とのその同等性に現れるようなものである。

      b 相対的価値形態の量的規定性

P74 L1

・・・諸商品の現実の価値変動は、同じ労働時間でいまでは一般的に以前よりもより多量かまたはより少量の商品が供給されるということから知られるであろう。・・・・・
・・・・・一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。そして最後に、その商品の価値量とこの価値量の想定的表現とに同時に生ずる変動が互いに一致する必要は少しもないのである。

     三 等価形態

  P75 L11
・・・上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にかかわりなく、規定されている。しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は、価値量としての表現を与えられてはいない。この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量として現れるだけである。

  P76 L10
 等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。

  P79 L10
 だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。
 しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。それだからこそ、この労働は、他の商品と織説に交換されうる生産物となって現れるのである。だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。

P80 L6
 しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって・・・・・
・・・・・アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」どこにあるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。

     四 単純な価値形態の全体

  P82 L3
・・・この章のはじめに、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密に言えばまちがいだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに{価値}なのである。・・・・・商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねに第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。

  P83 L10
 労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである。消費の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。

  P84 L6
・・・商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

    B 全体的な、または展開された価値形態
     一 展開された相対的価値形態

  P86 L1
 第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、具全的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現れてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表されようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。

     二 特殊的等価形態

  P86 L9
・・・これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態または現象形態として認められているのである。

    C 一般的価値形態
    一 価値形態の変化した性格

P89 L1
 第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=1/4トンの鉄などという価値形式を与えた。上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っているように違っている。この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。
 第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。なぜならば、ここではそれぞれの商品の価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。
 新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで実現し、こうして、すべての商品価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表わす。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。

     二 相対的価値形態と等価形態との発展関係

P91 L10
 相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。

     三 一般的価値形態から貨幣形態への移行

P93 L16
 一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品に付着してもよいものである。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とを得ているのである。
 そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合成する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である。そこで、形態3のなかで商品リンネルを商品金に取り替えれば、次のような形態が得られる。

    D 貨幣形態

P95 L5
 金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。すべての他の商品と同じように、金もまた、個々別々の交換行為で個別的等価物としてであれ、他のいろいろな商品等価物と並んで特殊的等価物であれ、等価物として機能していた。しだいに、金は、あるいはより狭いあるいはより広い範囲のなかで、一般的等価物として機能するようになった。それが商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとったとき、それは貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、はじめて形態4は形態3と区別されるのであり、言いかえれば一般的価値形態から貨幣形態に転化しているのである。 

    第四節 商品の呪物的性格とその秘密

P96 L16
・・・ところが、机が商品として現われるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。机は、自分の足で床の上に立っているだけでなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。
 だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまた、価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産労働がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうあろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。

P98 L13
 このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。

P99 L4
 労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。

P99 L19
 だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物をお互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろ違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである。それゆえ、価値の額に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な所産だからである。

P101 L5
・・・互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。
  P102 L2
・・・このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価値の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態――貨幣形態----こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。

P103 L16
 そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる----農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者、人的従属関係が、物質的生産関係をも、その上に築かれている生活の諸関係をも特徴づけている。しかし、まさに人的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。

P104 L8
 共同的な、すなわち直接に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の発端で見られるような労働の自然発生的な形態にまでさかのぼる必要はない。もっと手近な例は、・・・農民家族の素朴な家長制的な勤労である。これらのいろいろな物は、家族にたいしてその家族労働のいろいろな生産物として相対するが、しかし、それら自身が互いに商品として相対しはしない。・・・・・というのは、個人的労働力がはじめからただ家族の共同的労働力の諸器官としてさようするだけだからである。

P105 L6
 最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。・・・・・この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。・・・・・この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手に入る生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度として役だつ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。

P110 L10
 商品世界に付着している呪物崇拝、または社会的な労働規定の対象的概観によって、一部の経済学者がどんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の秘密についての長たらしくてつまらない争論である。交換価値は、ある物に投ぜられた労働を表わす一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。
P111 L3
もし商品がものが言えるとすれば、商品はこう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物としてのわれわれにそなわっているものではない。だが、物としてのわれわれにそなわっているものはわれわれの価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれはただ交換価値として互いに関係しあうだけだ。


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