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元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第一篇第三章~五章

第三章 商品資本の循環
P107L1
 商品資本の循環を表わす一般的な定式は次のようになる。
     W´―G´―W・・・P・・・W´
・・・・・
 拡大された規模での再生産が行なわれるとすれば、終わりのW´は初めのW´よりも大きいのであり、したがってこの場合にはW´´で表わされなければならない。

P109L14
 それゆえ、W´は、単なるWとしては、資本価値の単なる商品形態としては、けっして循環を開始することはできないのである。商品資本としてはW´はつねに一つの二重物である。使用価値の観点からは、それはPの機能の生産物、ここでは糸であって、その要素であるAとPmは、商品として流通から出てきて、ただこの生産物の生産物形成者として機能しただけである。第二に、価値の観点からは、それは、資本価値P・プラス・Pの機能によって生産された剰余価値mである。
 ただ、W´そのものの循環のなかでのみ、W=P=資本価値は、W´のうちの剰余価値をなしている部分、すなわち剰余価値がひそんでいる剰余生産物から分離されることができるのであり、また分離されなければならないであって、この二つのものが糸の場合のように実際に分離可能であるか、それとも機械の場合のようにそうでないかということは、どちらでもかまわないのである。この二つのものは、W´がG´に転化しさえすれば、いつでも分離可能になるのである。

P114L9
 形態1、G・・・G´では、生産過程は、資本の二つの互いに補足し対立し合う流通段階の中間に現われる。それは、結びの段階W´―G´が現れる前に、過ぎ去っている。貨幣は、資本として前貸しされており、まず生産要素に転化し、生産要素から商品生産物に転化し、そしてこの商品生産物は再び貨幣に転換されている。これは、一つの完了した事業循環であって、その結果はなににでも使える貨幣である。したがって、新たな開始はただ可能性から見て与えられているだけである。G・・・P・・・G´は、一つの個別資本が事業から退くときにその機能を終結させる最後の循環でもありうるし、新たに機能を始める資本の最初の循環でもありうる。一般的な運動はここではG・・・G´であり、貨幣からより多くの貨幣へである。
 形態2、P・・・W´―G´―W・・・P(P´)では、総流通過程が第一のPのあとに続き、第二のPに先行している。しかし、それは形態1とは反対の順序で行なわれる。第一のPは生産資本であって、その機能は、あとに続く流通過程の先行条件としての流通過程である。これに反して、結びのPは生産過程ではない。それは、ただ、産業資本が再び生産資本の形態で存在しているだけのものである。しかも、それがこのようなものであるのは、最後の流通段階で資本価値がA+Pmに、すなわち相合して生産資本の存在形態をなす主体的要因と客体的要因とに、転化した結果としてである。資本は、PであろうとP´であろうと、最後には、再び、新たに生産資本として機能し生産過程を行なうのに必要な形態をそなえて現われている。運動の一般的形態、P・・・P´は、再生産の形態であって、G・・・G´のように価値増殖を過程の目的として示してはいない。・・・・・そして、全体としての生産循環が問題にされるときには、商品資本はただ商品の役割をするだけである。ところが、価値の構成部分が問題になると、それが商品資本として現われるのである。蓄積も、もちろん、生産と同じ仕方で現われる。
 形態3、W´―G´―W・・・P・・・W´では、流通過程の二つの段階が循環を開始しており、しかも二つの段階の順序は、形態2、P・・・Pとの場合と同じである。その次にPが続き、形態1でと同じにその機能として生産過程を伴っている。この生産過程の結果としてW´で循環は終わる。形態2では生産資本の単なる再生産としてのPで循環が終わったように、形態3では商品資本の再存在としてのW´で循環が終わる。形態2では終結形態Pにある資本が再び過程を生産過程として始めなければならないが、同様に、形態3では、商品資本の形態での産業資本の再現とともに、循環はまた新たに流通段階W´―G´から始まらなければならない。この二つの循環形態は完了していない。なぜならば、これらの形態は、G´、すなわち貨幣に再転化した増殖された資本価値で終わってはいないからである。だから、この二つの形態はさらに続行されなければならないのであり、したがって再生産を含んでいるのである。形態3では総循環はW´・・・W´である。

P121L11
 W´・・・W´という循環では、最初に前貸しされる資本価値はただ運動を開始する極の一部分をなしているだけであり、したがって運動ははじめから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような循環はただW´・・・W´だけである。この全体運動は、生産資本を補填する生産物部分の運動でもあれば、また剰余生産物をなしていて平均的に一部分は収入として支出され一部分は蓄積の要素として役だつべき生産物部分の運動でもある。収入としての剰余価値の支出がこの循環に含まれているかぎり、それには個人的消費も含まれている。しかしまた、この個人的消費は、出発点の商品Wが、なんらかの任意の使用財として存在するということによっても、含まれている。しかし、資本主義的に生産される物品は、その使用形態がそれを生産的消費向けにしようと個人的消費向けにしようと、あるいはまたその両方にしようと、とにかくすべて商品資本である。G・・・G´は、ただ、価値の面を、全過程の目的としての前貸資本価値の増殖を、さし示しているだけである。P・・・P(P´)は、生産資本の不変の大きさでの再生産過程かまたは増大した大きさでの再生産過程(蓄積)としての資本の生産過程をさし示している。W´・・・W´は、すでにその発端の極で資本主義的商品生産の姿として現われていて、はじめから生産的消費と個人的消費とを包括している。生産的消費とそれに含まれている価値増殖とは、ただこの循環の運動の分枝として現われるだけである。最後に、W´はもはやどの生産過程にもはいることのできない使用形態で存在することもありうるのだから、次のことははじめから示されているのである。すなわち、生産物の諸部分で表わされるW´のいろいろな価値成分は、W´・・・W´が社会的総資本の運動の形態とみなされるか、それとも一つの個別産業資本の独立な運動とみなされるかによって、違った地位を占めなければならないということである。すべてのこのような特性によって、この循環は、一つの単に個別的な資本の個別的な循環としてのそれ自身を越えて、それ以上のものをさし示しているのである。
 図式W´・・・W´では、商品資本すなわち資本主義的に生産された総生産物の運動は、個別資本の独立な循環の前提として現われるとともに、それ自身またこの循環によって制約されるものとしても現われる。それゆえ、この図式がその特性において把握されるならば、変態W´―G´とG-Wとは一方では資本の変態のなかの機能的に規定された区分であり、他方では一般的な商品流通の諸環であるということで満足しているだけでは、もはや十分ではないのである。一つの個別資本の諸変態と他のいくつもの個別資本の諸変態との、また総生産物のうちの個人的消費に向けられている部分との、からみ合いを明らかにすることが必要になる。それだから、われわれは、個別産業資本循環を分析するさいには、主として第一と第二の形態を基礎にするのである。
 循環W´・・・W´が一つの個別資本の形態として現われるのは、たとえば、収穫があるごとに計算が行なわれる農業の場合である。図式2では播種が、図式3では収穫が出発点になる。または、重農学派の言うところでは、前者では前貸[avances]が、後者では回収[reprises]が出発点になる。3では資本価値の運動ははじめからただ一般的な生産物量の運動の部分として現われるだけであるが、1と2ではW´の運動はただ個別資本の運動のなかの一つの契機をなしているだけである。
 図式3では、市場にある商品が生産・再生産過程の恒常的な前提をなしている。それゆえ、この図式を固定させれば、生産過程のすべての要素は、商品流通から出てくるように見え、ただ商品だけから成っているように見えるのである。このような一面的な把握は、生産過程の諸要素のうちで商品要素からは独立な要素を見落としているのである。
 W´・・・W´では総生産物(総価値)が出発点なのだから、そこでは、生産性に変化がなくても拡大された規模での再生産が行なわれうるのは、ただ、(外国貿易を無視すれば)剰余生産物中の資本化される部分のうちに追加生産資本の素材的諸要素がすでに含まれている場合だけだということが示されている。したがって、ある年の生産が次の年の生産の前提として役だつかぎり、またはそれが同年内の単純再生産過程と同時に行なわれうるかぎり、剰余生産物は、ただちに、追加資本として機能することができるような形態で生産されるということも、示されている。生産性の増大は、資本素材の価値を高くすることなしに、ただ資本素材の量だけをふやすことができる。しかし、それは、そうすることによって価値像増殖のための追加材料を形成するのである。
 W´・・・W´はケネーの経済表の基礎になっている。そして、彼がG・・・G´(重商主義がそれだけを切り離して固守した形態)に対比させてこの形態を選んだということ、そしてP・・・Pを選ばなかったということは、偉大な正確な手腕を示すものである。

 第四章 循環過程の三つの図式
P124L1
 三つの図式は、Ckを総流通過程とすれば、次のように表わすことができる。
     (1) G-W・・・P・・・W´―G´
     (2) P・・・Ck・・・P
     (3) Ck・・・P(W´)
三つの形態を総括してみれば、過程のすべての前提は、過程の結果として、仮定自身によって生産された前提として、現われている。それぞれの契機が出発点、通過点、帰着点として現われる。総過程は、生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者になり、また逆に後者が前者の媒介者になる。
三つの循環どれにも共通なものは、規定的目的としての、推進的動機としての、価値の増殖である。1ではそれが形態に表わされている。形態2は、Pで始まり、価値増殖過程そのもので始まる。3では、循環は増殖された価値で始まって、新たに増殖された価値で終わっており、運動が元のままの規模で繰り返される場合でもそうである。・・・・・
 絶えず回転している円では、すべての点が出発点であると同時に帰着点である。回転を中断してみれば、どの出発点も帰着点であるとはかぎらない。・・・・・
 これらの循環それぞれが、いろいろな個別的産業資本のとる特殊な運動形態と見られるかぎりでは、この相違もやはりただ個別的な相違として存在するだけである。しかし、現実には、どの個別産業資本も三つの循環のすべてを同時に行なっているのである。この三つの循環、資本の三つの姿の再生産形態は、連続的に相並んで行なわれる。たとえば、いま商品資本として機能している資本価値の一部分は貨幣資本に転化するが、それと同時に他の一部分は生産過程から出てきて新たな商品資本として流通にはいる。このようにしてW´・・・W´という円形が絶えまなく描かれる。他の二つの形態も同様である。どの形態、どの段階にある資本の再生産も、これらの形態の変態や次々になされる三つの段階の通過と同じに、連続的である。だから、ここでは総循環はその三つの形態の現実の統一なのである。・・・・・
 しかし、連続性は、資本主義的生産の特徴であって、その技術的基礎によって必然的にされている。といっても必ずしも無条件に達成されるのではないが。・・・・・
 それゆえ、連続的に行なわれる産業資本の現実の循環は、ただ単に流通過程と生産過程との統一であるだけではなく、その三つの循環全部の統一である。しかし、それがこのような統一でありうるのは、ただ資本のそれぞれの部分が循環の相続く諸段階を次々に通り過ぎることができ、一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移行することができ、したがってこれらの部分の全体としての産業資本が、同時に別々の段階にあって別々の機能を行ない、こうして三つの循環のすべてを同時に描くというかぎりでのことである。・・・・・個別産業資本はある一定の大きさを表わしており、この大きさは資本家の資力によって定まると同時に各産業部門について一定の最小限度があるのだから、資本の分割には一定の割合がなければならない。既存の資本の大きさは生産過程の規模を制約し、この規模は、生産過程と並んで機能するかぎりでの商品資本や貨幣資本の大きさを制約する。

P129L5
 そうだとすれば、資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々に一つの段階、一つの機能形態から次のそれに移って行き、こうして順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。どの形態も他の形態のあとに続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な諸契機をなしているだけである。
 三つの循環の統一のなかにはじめて総過程の連続性――前述のような中断ではない----は実現されている。社会的総資本はつねにこの連続性をもっているのであり、社会的総資本の過程はいつでもこの三つの循環の統一をもっているのである。・・・・・

P130L3
 自分を増殖する価値としての資本は、階級関係を、賃労働としての労働の存在にもとづく一定の社会的性格を、含んでいるだけではない。それは、一つの運動であり、いろいろな段階を通る循環過程であって、この過程はそれ自身また循環過程の三つの形態を含んでいる。だから、資本は、ただ運動としてのみ理解できるのであって、静止している物としては理解できないのである。価値の独立化を単なる抽象と見る人々は、産業資本の運動が現実における[in actu]この抽象だということを忘れているのである。価値はここではいろいろな形態、いろいろな運動を通って行くのであって、この運動のなかで自分を維持すると同時に自分を増殖し拡大するのである。われわれはここではまず第一に単なる運動形態を問題にしているのだから、資本価値がその循環過程のなかで経験することがありうる革命は顧慮されないのである。しかし、明らかなことであるが、あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が存在しているのは、また存在を続けることができるのは、ただ資本価値が増殖されるかぎりでのことであり、言い換えれば独立した価値としてその循環過程を描くかぎりでのことであり、したがって、ただ価値革命がどうにかして克服され埋め合わされるかぎりでのことである。資本の運動は個々の産業資本家の行為として現われる。すなわち、彼が商品と労働との買い手、商品の売り手、生産資本家として機能するのであり、つまり彼の活動によって循環を媒介するのである。もし社会的資本価値が価値革命にさらされれば、彼の個別資本がこの価値運動の諸条件をみたすことができないためにこの革命に敗れて埋没することも起こりうる。価値革命がいっそう急性になり頻繁になるにつれて、独立化された価値の自動的な運動、不可抗力的な自然過程の力で作用する運動は、個々の資本家の予見や計算に反してますます威力を発揮し、正常な生産の進行はますます非正常な投機に従属するようになり、個別資本の生存にとっての危険はますます大きくなる。こうして、このような周期的な価値革命は、それが否定すると称するものを、すなわち価値が資本として経験し自分の運動によって維持し強調する独立化を、確証するのである。

P132L3
 循環の定式を純粋に考察するためには、商品が価値どおりに売られると想定するだけでは十分ではなく、ほかの事情も変化することなしに価値どおりの売買が行なわれると想定しなければならない。たとえば形態P・・・Pをとり、そのさい、特定の一資本家の生産資本を減価させるかもしれない生産過程内の技術的革命はすべて無視することにしよう。また、既存の商品資本の価値は、もしその在庫があれば、生産資本の価値要素の変動の反作用によって高くなったり低くなったりすることがありうるのであるが、このような反作用もすべて無視することにしよう。W´である10,000ポンドの糸は、その価値どおりに500ポンド・スターリングで売れるものとし、8440ポンドの糸=422ポンド・スターリングは、W´に含まれている資本価値を補填するものとしよう。しかし、綿花や石炭などの価値が高くなれば(個々では単なる価格変動は問題にしないのだから)、おそらくこの422ポンド・スターリングは生産資本の諸要素を全部補填するには足りないであろう。追加貨幣資本が必要であり、貨幣資本は拘束される。かの綿花や石炭などの価格が下がれば、逆である。貨幣資本は遊離させられる。過程がまったく正常に進行するのは、価値関係が不変な場合だけである。実際には、循環が繰り返されるあいだに諸撹乱が相殺されるかぎり、過程は進行する。撹乱が大きければ大きいほど、それらが相殺されるまで待つことができるためには、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもっていなければならない。そして、資本主義的生産が進行するにつれて各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされる資本の最小限が拡大されるのだから、前述の事情が他の諸事情に加わって、ますます産業資本家の機能を個々別々の、または結合された、巨大な貨幣資本家の独占に転化させるのである。

P136L5
・・・・・そのかぎりでは、資本主義的生産様式はその発展段階の外にある諸生産様式によって制約されているのである。しかし、資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできるかぎり商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして、発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。産業資本の侵入はどこでもこの転化を促進するのであり、それとともにまたすべての直接生産者の賃労働者への転化をも促進するのである。・・・・・
 資本主義的生産様式は生産の大規模を前提するので、また必然的に販売の大規模をも前提する。つまり、個々の消費者へのではなく、商人への販売を前提する。この消費者自身が生産的消費者であり、産業資本家であるかぎりでは、つまり、ある生産部門の産業資本が他の部門に生産手段を供給するかぎりでは、一人の産業資本家から他の多くの産業資本家への直接販売も(注文などの形で)行なわれる。そのかぎりでは、どの産業資本家も直接の販売者であり、彼自身が商人である。あるいはまた商人に売るときにもやはりそうである。
 商人資本の機能としての商品取引は前提されており、それは資本主義的生産の発展につれてますます発展する。だから、われわれは、ときには資本主義的流通過程の個々の側面を説明するために商品取引を想定することがある。しかし、この流通過程の一般的な分析にさいしては、商品の介在しない直接販売を仮定する。なぜならば、商品の介在は運動のいろいろな契機をおおい隠すからである。

P147L1
 そこで再生産の問題になる。資本家は剰余価値gを全部消費して最初の資本量Cだけを再び生産資本に転換するとしよう。いまでは資本家の需要は彼の供給と同じ価値である。しかし、彼の資本の運動についてはそうではない。資本家としては彼は自分の供給の五分の四(価値量から見て)しか需要しない。五分の一を彼は非資本家として消費するのであり、資本家としての彼の機能においてではなく、自分の個人的な必要または享楽のために消費するのである。
 そうすれば彼の計算は百分比では次のようになる。
      資本家として 需要=100 供給=120
      享楽家として 需要= 20 供給=――
       合 計    需要=120 供給=120
 この前提は、資本主義的生産が存在しないという、したがって産業資本家そのものが存在しないという前提と同じである。なぜならば、致富そのものがではなく享楽が推進的動機として働くという前提によっては、資本主義はすでにその基礎において廃止されているからである。
 しかし、、この前提は技術的にも不可能である。資本家は、価格の変動にそなえて、また売買のために最も有利な市況を待つことができるようにするために、準備資本を設けなければならない、それだけではない。彼は、生産を拡張し技術的進歩を彼の生産有機体に合体するために、資本を蓄積しなければならない。
 資本を蓄積するためには、彼はまず第一に、流通から彼の手に流れてきた貨幣形態にある剰余価値の一部分を流通から引きあげて、それを、旧来の事業の拡張のためかまたは付属事業の開始のために必要な大きさに達するまで、蓄蔵貨幣として増大させなければならない。貨幣蓄蔵が続くあいだは、それは資本家の需要を増加させない。貨幣は不動化されている。この貨幣は、供給された商品と引き換えに貨幣等価を商品市場から引きあげたが、この貨幣等価に代わる商品での等価を商品市場から引きあげないのである。
 信用はここでは考慮されない。そして、たとえば、貨幣がたまるにしたがってそれを資本家が銀行に当座勘定で利子つきで預金するとすれば、それは信用の問題なのである。

 第五章 流通期間
P149L1
生産部面と流通部面の二つの段階とを通る資本の運動は、以上で見たように、時間的な順序をなして行なわれる。資本が生産部面に留まっている期間は資本の生産期間であり、流通部面に留まっている期間は資本の流通期間である。したがって、資本がその循環を描く総期間は、生産期間と流通期間との合計に等しい。
 生産期間はもちろん労働過程の期間を包括しているが、これに包括されてはいない。・・・・・したがって、その生産期間9とその機能期間との差が現われる。すなわち、一般に生産手段の生産期間は、(1)それが生産手段として機能している期間、つまり生産過程で役だっている期間と、(2)生産過程が中断され、したがって生産過程に合体されている生産手段の機能も中断されている中休み期間と、(3)生産手段が過程の条件として準備されており、したがってすでに生産資本を表わしてはいるが、まだ生産過程にはいっていない期間とを包括しているのである。
   9 ここで生産期間というのは、能動的な意味でのそれである。すなわち、生産手段の生産期間は、ここでは、それが生産される時間ではなく、それがある商品生産物の生産過程に参加している時間である。―-F・エンゲルス

P152L4
 生産期間が労働時間を越える原因がなんであろうと――生産手段がただ潜在的な生産資本になっているだけでまだ現実の生産過程への前段階にあるからであろうと、生産過程のなかでその中休みによって生産手段自身の機能が中断されるからであろうと、最後に、生産過程そのものが労働過程の中断を必要条件とするからであろうと――これらのうちのどの場合にも生産手段は労働吸収者として機能していない。労働を吸収しなければ、剰余労働も吸収しない。それゆえ、生産資本がその生産期間のうちの労働期間を越える部分にあるあいだは、たとえ価値増殖過程の遂行がこのようなその中休みとどんなに不可分であろうと、生産資本の価値増殖は行なわれないのである。生産期間と労働期間とが一致していればいるほど、与えられた期間のなかでの与えられた生産資本の生産性と価値増殖はそれだけ大きいということは、明らかである。それだからこそ、資本主義的生産では労働期間を越える生産期間の超過をできるだけ短縮しようとする傾向があるのである。

P153L3
 流通期間と生産期間とは互いに排除し合う。資本はその流通期間には生産資本としては機能せず、したがって商品も剰余価値も生産しない。総資本価値が毎回一度に一つの段階から次の段階に移るという最も単純な形態の循環を考察してみれば、資本の流通過程が続いているあいだは生産過程は中断されており、したがって資本の自己増殖も中断されているということ、また、流通期間の長さに応じて生産過程の更新が速くなったり遅くなったりするであろうということは、まったく明らかである。これに反して、資本の別々の部分が次々に循環を通って行き、したがって総資本価値の循環がその種々の部分の循環のなかで連続的に行なわれるとすれば、資本の可除部分のどれかがいつでも流通部面にとどまっている時間が長ければ長いほど、かわるがわる絶えず生産部面で機能している資本部分はそれだけ小さくならざるをえないということは、明らかである。それゆえ、流通期間の膨張と収縮は、生産期間の、または与えられた大きさの資本が生産資本として機能する範囲の、収縮や膨張にたいして、消極的な制限として働くのである。・・・・・
 こういうわけで、資本の流通期間は一般に資本の生産期間を制限し、したがって資本の価値増殖過程を制限する。・・・・・しかし、経済学の見るものは、現象として現われるもの、すなわち、流通期間が資本の価値増殖過程一般に及ぼす影響である。経済学はこの消極的な影響を、その結果が積極的だという理由から、積極的なものと考える。経済学がますますこのような外観に執着するのは、それが次のことの証明を与えるように見えるからである。すなわち、資本は自己増殖の神秘的な源泉をもっていて、この源泉は資本の生産過程にはかかわりなしに、したがって労働の搾取にはかかわりなしに、流通局面から資本のもとに流れてくるものだ、ということの証明を与えるように見えるからである。この外観には科学的な経済学でさえもだまされるということは、もっとあとで見るであろう。この外観は、やはりあとで示されるように、次のようないろいろな現象によって強固にされる。(1)資本家的な利潤計算の仕方。そこでは消極的な原因が積極的な原因として現われる。というのは、流通期間だけが違ういろいろな投下部面にあるいろいろな資本にとっては、より長い期間は、価格引き上げの要因として、要するに利潤の平均化の諸原因の一つとして、働くからである。(2)流通期間は回転期間の一つの契機であるにすぎない。ところが、回転期間は生産期間または再生産期間を含んでいる。生産期間のせいであることが、流通期間のせいであるように見える。(3)可変資本(労賃)への諸商品の転換は、前もって諸商品が貨幣に転化していることを必要条件とする。だから、資本の蓄積にさいしては追加可変資本への転化は、流通部面で、または流通期間中に、行なわれるのである。それゆえ、このようにして行なわれる蓄積は流通期間のおかげであるかのように見えるのである。

P156L7
 商品資本の流通W´―G´については、商品そのものの存在形態によって、使用価値としての商品の存在によって、一定の限界が引かれている。・・・・・使用価値は、一定の時間のうちにその古い使用形態を取り替えて、新しい使用形態で存在を続けなければならない。交換価値は、ただこのようなその肉体の不断の更新によってのみ維持される。いろいろな商品の使用価値の損傷は、あるものはより速く、あるものはよりおそい。したがって、それらの生産と消費とのあいだにはさまる中間期間は、より長いこともより短いこともありうる。・・・・・商品体そのものの損傷による商品資本の流通期間の限界は、流通期間のこの部分、すなわち商品資本が商品資本として過ごすことのできる流通期間の絶対的な限界である。それゆえ、ある商品がいたみやすいものであり、したがって生産されたらすぐ消費されなければならないものであり、したがってまたすぐ売られなければならないものであればあるほど、それだけその商品は生産場所からわずかしか離れられないのであり、それだけその空間的流通部面は狭く、それだけその販売市場は局地的な性質のものになるのである。だから、商品がいたみやすくてその物的性状のために商品としての流通期間の絶対的な制限が大きければ大きいほど、それだけその商品は資本主義的生産の対象として適当でないのである。


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