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元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第三篇第十八章~十九章

第三篇 社会的総資本の再生産と流通
 第十八章 緒 論
  第一節 研究の対象
P429L1
 資本の直接的生産過程は、資本の労働・価値増殖過程であって、この過程の結果は商品生産物であり、その決定的な動機は剰余価値の生産である。

P431L1
・・・・・一般的な商品流通は元来ただ二つの成分だけから成り立ちうる。すなわち、(1)資本の固有の循環と、(2)個人的消費にはいる諸商品の循環、すなわち労働者が彼の賃金を支出して手に入れ資本家が彼の剰余価値(またはその一部分)を支出して手に入れる諸商品の循環とからである。

P431L8
 第一部では資本主義的生産過程が個別的な過程としても再生産過程としても分析された。すなわち、剰余価値の生産と資本そのものの生産とが分析された。つまり、資本家は一方では生産物をその価値どおりに売り、他方では過程を新たに始めるかまたは連続して行うための物的生産手段を流通部面のなかで見いだすということが前提されたのである。・・・・・
 この第二部の第一篇では、資本がその循環中にとるいろいろな形態と、この循環そのもののさまざまな形態とが考察された。第一部で考察された労働期間に、今度は流通期間が加わる。
 第二篇では、循環が周期的な循環として、すなわち回転として考察された。・・・・・
 しかし、第一篇でも第二篇でも、問題にされたのは、いつでも、ただ、一つの個別資本だけだったし、社会的資本の一つの独立化された部分の運動だけだった。
 しかし、個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成するのである。単純な商品流通の場合に一商品の総変態が商品世界の諸変態の列の一環として現われたように、ここでは個別資本の変態が社会的資本の諸変態の列の一環として現われるのである。しかし、単純な商品流通はけっして必然的に資本の流通を含んではいなかったが――というのはそれは資本主義的でない生産の基礎の上でも行なわれうるのだから――すでに述べたように、社会的総資本の循環は、個別資本の循環にはいらない商品流通、すなわち資本を形成しない商品の流通をも含んでいるのである。
 そこで、今度は、社会的総資本の構成部分としての個別的諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形態をなすもの)が、したがってこの社会的総資本の流通過程が、考察されなければならないのである。

  第二節 貨幣資本の役割
P433L3
 個別資本の回転を考察したときには、貨幣資本は二つの側面から明らかにされた。
 第一に、貨幣資本は、どの個別資本が舞台に現われて資本としてその過程を開始するときにもその形態をなしている。それだから、貨幣資本は、全過程に衝撃を加える起動力として現われるのである。
 第二に、回転期間の長さが違えば、またその二つの構成部分――労働期間と流通期間と――の割合が違えば、前貸資本価値のうちの絶えず貨幣形態で前貸しされ更新されなければならない構成部分と、それによって動かされる生産資本すなわち連続的な生産規模との割合も違ってくる。しかし、この割合がどうであろうと、どんな事情のもとでも、過程進行中の資本価値のうち絶えず生産資本として機能することができる部分は、前貸資本価値のうち絶えず生産資本と並んで貨幣形態で存在しなければならない部分によって、制限されている。ここで問題にされるのは、ただ、正常な回転、抽象的な平均だけである。そのさい、流通の停滞を調整するための追加貨幣資本は別問題とされるのである。

 第十九章 対象についての従来の諸論述
  第一節 重農学派
P440L1
・・・・・しかし、彼は、人間労働の投下部面のうちでただ一つ農業だけが剰余価値を生産するのであり、したがって資本主義的立場からすればただ農業だけが真に生産的な投下部面だという彼の限界の狭さのおかげで、かえって要点を射当てているのである。経済的再生産過程は、その独自な社会的性格がどうであろうと、この領域(農業)ではつねに自然的再生産過程とからみ合っている。自然的生産過程の一見して明らかな諸条件は、経済的再生産過程の諸条件をも明らかにするのであって、ただ流通の手品によってひき起こされるにすぎない思考の混乱を取り除くのである。

P443L5
 ここでは次の点に見解の狭さがある。すなわち、スミスは、不変資本の価値が更新された形態で再現することを、すでにケネーがしたように再生産過程の重要な契機として見ようとはしないで、ただ、流動資本と固定資本とについて自分がしている区別のためのもう一つの例証を、しかもまちがった例証を、見ているだけだという点がそれである。――“advances primitives”[原前貸]と“advances annuelies”[年前貸]とをスミスが“fixed capital”[固定資本]と“circulating capital”[流動資本]と翻訳したことのうちにある進歩は、「資本」という語の概念が「農業的」適用範囲への重農学派の特別な顧慮にかかわりなく一般化されているということであり、そのうちにある退歩は、「固定」と「流動」とが決定的な区別として理解され固執されているということである。

  第二節 アダム・スミス
   一 スミスの一般的観点
P443L12
 アダム・スミスは第一篇第六章四二ページ[岩波文庫版、1、191-192ページ] で次のように言っている。
   「どの社会でも、各商品の価格は、結局、これらの三つの部分」(労賃、利潤、地代)「のどれか一つ、または三つのすべてに分解される。そして、どの進歩した社会でも、これらの三つのすべてが、多かれ少なかれ、大多数の商品の価格のなかに構成部分としてはいる。三八」また、さらに43ページ[岩波文庫版、1、196ページ]で言うところでは、「労賃と利潤と地代とは、すべての収入の、またすべての交換価値の、三つの根源である。」
 このようなアダム・スミスの「諸商品の価格の」または「すべての交換価値の構成部分」についての説を、われわれはもっとあとでもっと詳しく検討するであろう。――さらに彼は次のように言う。
   「このことは、個別的に見たそれぞれの特殊な商品について言えるのだから、各国の土地と労働との年間生産物全体を構成する総体としてのすべての商品についてもそう言えるにちがいない。この年間生産物の総価格または総交換価値は、同じ三つの部分に分解されなければならない。そして、その国のさまざまな住民のあいだに、彼らの労働の賃金としてか、または彼らの資本の利潤としてか、または彼らの土地所有の地代として、分配されなければならない。」(第二篇第二章、190ページ。[岩波文庫版、2、249-250ページ。])
    三八「大多数の商品の価格」という文句を読者が誤解しないように一言すれば、次のことは、アダム・スミス自身がこの言い方をどのように説明するかを示している。たとえば、海の魚の価格には地代ははいらないで、ただ労賃と利潤だけがはいる。瑪瑙の価格には労賃だけがはいる。すなわち、「スコットランドのいくつかの地方では、農民は、スコットランドの小石[瑪瑙]という名で知られた雑多な色の小石を海岸で集めることを業としている。石細工人がその代価として彼らに支払う価格は、ただ彼らの労賃だけから成っている。というのは、地代と利潤はその価格のどの部分をもなしていないからである。」[岩波文庫版、1、195ページ。]
 アダム・スミスは、こうして、個別的に見たすべての商品の価格をも、「各国の土地と労働との年間生産物・・・・・の総価格または総交換価値」をも賃金労働者と資本家と土地所有者との収入の三つの源泉に、つまり労賃と利潤と地代とに分解しておいてから、一つの回り道をして第四の要素を、すなわち資本という要素を密輸入しなければならない。それは、総収入と純収入とを区別することによって行われる。
   「一つの大きな国の全住民の収入は、そのうちに彼らの土地と労働と都の年間生産物の全体を含んでいる。純収入は、第一には彼らの固定資本の、第二には彼らの流動資本の維持費を控除したあとになお彼らが処分できるものとして残る部分を含んでいる。すなわち、彼らが自分の資本に手をつけることなしに自分の消費財源に加えることのできる部分、すなわち自分の生計や便益や慰楽のために支出することのできる部分を含んでいる。彼らの実質的な富もやはり彼らの総収入にではなく彼らの純収入に比例する。」(同前、190ページ。[岩波文庫版、2、251ページ。])
 これには次のことをつけ加えておこう。
 (1) アダム・スミスはここでは明白にただ単純再生産を論じているだけで、拡大された規模での再生産または蓄積を論じているのではない。彼は、機能している資本の維持(maintaining)のための支出について述べているだけである。「純」収入は、社会なり個別資本家なりの年間生産物のうちの、「消費財源」にはいることのできる部分に等しいが、この財源の範囲は機能している資本に食いこんでは(encroach upon capital)ならない。つまり、個人的生産物でも社会的生産物でもその価値の一部分は、労賃にも利潤や地代にもなってしまわないで、資本になるのである。
 (2) アダム・スミスは、gross revenueとnet revenueとの、すなわち総収入と純収入との区別という言葉の遊戯によって、彼自身の理論から逃げてしまう。個別資本家も資本家階級全体も、またはいわゆる国民も、生産で消費された資本のかわりに商品生産物を収得するのであるが、その価値――この生産物そのものの比例配分的部分で表わされうる――は、一方では消費された資本価値を補填し、したがって収入[Einkommen=はいってくるもの]を形成する。そして、いっそう文字どおりにはRevenue(revenir[再びくる]の分詞revenu)を、といっても、注意せよ、資本収入を、形成する。他方、その価値は、「その国のさまざまな住民のあいだに、彼らの労働の賃金としてか、または彼らの資本の利潤としてか、または彼らの土地所有の地代として配分される」価値成分――日常生活で収入と考えられているもの――を形成する。したがって、全生産物の価値は、個別資本家にとってであろうと、その国全体にとってであろうと、だれかにとって収入を形成する。こうして、商品の価値をその諸成分に分析するときには遠ざけられるのものが、裏口から――「収入」という語の二義性によって――再び持ちこまれるのである。しかし、「収得」されることのできるものは、ただ、すでに生産物のなかにある価値成分だけである。もし資本が収入として収得されるのだとすれば、資本は前もって支出されていなければならないのである。

P449L7
 アダム・スミスは、固定資本をこのように一国の「純収入」からすっかり除外してしまってから、さらに次のように続ける。
    「このように固定資本の維持のための全支出は必然的に社会の純収入から除外されているとはいえ、流動
資本の維持のための支出はそうではない。この流動資本を構成する四つの部分、すなわち貨幣、生活手段、原料、完成生産物のうち、あとのほうの三つは、すでに述べたように、規則的に流動資本から取り出されて、社会の固定資本のなかに移されるか、または直接的消費に向けられた財源のなかに移される。消費のできる物品のうち、前者の」{固定資本の}「維持のために使用されない部分は残らず後者のなかに」{直接的消費に向けられた財源のなかに}「はいって、社会の純収入の一部分をなす。それゆえ、流動資本のこの三つの部分の維持は、社会の純収入のうちから、年間生産物のうちで固定資本の維持のために必要な部分のほかにはどんな部分も減らさないのである。」(第二篇第二章、191,192ページ。[岩波文庫版、2、254ページ。])
 これは、流動資本のうちで生産手段の生産に役だたない部分は、消費手段の生産に、つまり年間生産物のうちで社会の消費財源になるように定められた部分に、はいる、という同義反復でしかない。しかし、すぐその次に言っていることは重要である。
   「一社会の流動資本は、この点では一個人の流動資本とは異なっている。一個人のそれは、彼の純収入からまったく除外されていて、けっしてその一部分をなしていることはありえない。彼の純収入はただ彼の利潤だけから成っていることができるだけである。しかし、各個人の流動資本は、その個人が属している社会の流動資本の一部分をなしているとはいえ、それだからといってけっして無条件に社会の純収入から除外されているのではなく、その一部分をなすことができるのである。小売商人の店にある全商品は、けっして彼自身の直接的消費に向けられた財源のなかに入れられてはならないが、しかし他の人々の消費財源にはいることはできる。他の人々というのは、別の財源から得た収入によって、小売商人の資本も自分たちの資本も減らすことなしに、小売商人のためにそれらの商品を彼の利潤といっしょに規則的に補填してやる人々である。」(同前。)
つまり、ここでわれわれは次のことを聞くわけである。
(1) 各個の資本家の固定資本と同様に、またその再生産(機能のとは彼は忘れている)と維持とに必要な流動資本と同様に、消費手段の生産で働いている彼の流動資本もすべて彼の純収入からは除外されているのであって、彼の純収入はただ彼の利潤でしかありえない。だから、彼の商品生産物のうち彼の資本を補填する部分は、彼の収入を構成する価値部分には分解できないのである。
 (2) 各個の資本家の流動資本が社会の流動資本の一部分をなしていることは、各個の固定資本の場合とまったく同じである。
 (3) 社会の流動資本は、個別流動資本の総計でしかないとはいえ、各個の資本家の流動資本とは違った性格を持っている。個別資本家の流動資本はけっして彼の収入の一部分をなすことはできない。これに反して、社会の流動資本の一部分(すなわち消費手段から成っている部分)は、同時に社会の収入の一部分をなすことができる。または、スミスが前に言ったように、それは必ずしも社会の純収入を年間生産物の一部分だけ減らすとは限らない。ここでスミスが流動資本と呼んでいるものは、じつは、消費手段を生産する資本家が一年間に流通に投ずるところの一年間に生産される商品資本なのである。この彼らの年間生産物の全体は、消費できる物品から成っており、したがって、社会の純収入(労賃をも含めて)がそれに実現または支出される財源をなしている。スミスは、小売商人の店にある商品を例に選ばないで、産業資本家の倉庫に積んである大量の財貨を選ぶべきだったであろう。
 もしA・スミスが、前には彼が固定資本と呼ぶものの再生産を考察したときに、そして次には彼が流動資本と呼ぶものの再生産を考察したときに、彼の頭に浮かんだ思想のいくつかの断片を総括してみたとすれば、彼は次のような結論に達したであろう。
 1 社会の年間生産物は二つの部類から成っている。第一の部類は生産手段を包括し、第二の部類は消費手段を包括する。両者は別々に取り扱われなければならない。
 2 年間生産物のうち生産手段から成っている部分の総価値は次のように分かれる。一つの価値部分は、ただこれらの生産手段の生産に消費された生産手段の価値でしかなく、したがって、ただ更新された形態で再現する資本価値でしかない。第二の部分は、労働力に投ぜられた資本の価値に等しい。すなわち、この生産部面の資本家によって支払われた労賃の総額に等しい。最後に、第三の価値部分は、この部類の産業資本家の、地代を含めて、利潤の源泉をなしている。
 第一の成分、すなわちA・スミスによればこの第一の部類で使用される個別資本全体の固定資本部分が再生産されたものは、個別資本家なり社会なりの「純収入からは明らかに除外されていて、けっしてその一部分をなしていることはありえない」。それは、つねに資本として機能し、けっして収入として機能しない。そのかぎりでは、各個の資本家の「固定資本」も社会の固定資本と少しも違ってはいない。しかし、社会の年間生産物中の生産手段から成っている部分の他の価値部分――したがってまたこの生産手段総量の加除部分のうちに存在する価値部分――は、同時に、この生産に参加したすべての当事者にとっての収入、すなわち労働者にとっての賃金、資本家にとっての利潤と地代とをなしている。しかし、これらの価値部分は、社会にとっては収入をなしているのではなく資本をなしている。といっても、社会の年間生産物は、ただ、その社会に属する個別資本家たちの生産物の総計から成っているだけではあるが。これらの価値部分は、たいていはすでにその性質からもただ生産手段として機能できるだけであって、必要な場合には消費手段として機能できる部分でも、新たな生産の原料か補助材料として役だつように定められているのである。しかし、それらがこういうものとして――つまり資本として――機能するのは、その生産者の手のなかでのことではなく、その使用者の手のなかでのことである。すなわち、
 3 第二の部類の資本家、直接に消費手段を生産する資本家の手のなかでのことである。それらの部分は、第二の部類の資本家のために、消費手段の生産に消費された資本を(それが労働力に転換されないかぎりで、すなわちこの第二の部類の労働者の労賃の総額ではないかぎりで)補填するのであるが、他方、この消費された資本、すなわち今では消費手段を生産する資本家の手のなかに消費手段の形態で存在する資本は、それとしては――つまり社会的な立場からは――第一の部類の資本家と労働者とが彼らの収入を実現する消費財源をなすのである。
 もしアダム・スミスがここまで分析を進めたとすれば、全問題の解決にほんのわずか足りないだけだったであろう。彼は事実上問題を解決しかけていた。というのは、すでに次のことに気がついていたからである。すなわち、社会の年間生産物をなしている商品資本の一方の種類(生産手段)の価値の一定の部分は、その生産に従事する個々の労働者や資本家にとっての収入をなしてはいるが、しかし社会の収入の成分をなしてはいないのであり、また、他方の種類(消費手段)の価値の一部分は、この種類の商品資本の個別的所有者すなわちこの投資部面で仕事をする資本家にとっての資本価値をなしてはいるが、それにもかかわらずそれはただ社会的収入の一部分でしかない、ということにスミスは気がついていたのである。
 しかし、次のことだけは、これまでに述べたことからもすでに明らかである。
 第一に、社会的資本はただ個別的諸資本の総計に等しいだけであり、したがって社会の年間商品生産物(または商品資本)もこれらの個別資本の商品生産物の総計に等しいだけであり、したがってまた、各個の商品資本にあてはまる商品価値のその諸成分への分解は、全社会の商品資本にもあてはまらなければならないし、また結局は実際にもあてはまるのであるが、それにもかかわらず、これらの成分が社会的総再生産過程で現われるときにとる現象形態は、違った形態なのである。
 第二に、単純再生産の基礎の上でも、ただ労賃(可変資本)と剰余価値との生産が行なわれるだけではなく、新たな不変資本価値の直接的生産も行なわれるのである。といっても、労働日はただ二つの成分から成っているだけであって、その一方の部分では労働者は可変資本を補填し、事実上は彼の労働力の買い入れのための等価を生産し、第二の部分では剰余価値(利潤、地代など)を生産するのではあるが。――すなわち、生産手段の再生産に支出される――そしてその価値が労賃と剰余価値とに分かれる――日々の労働は、消費手段の生産に支出された不変資本部分を補填する新たな生産手段に実現されるのである。
 主要な困難、といってもその最大の部分はこれまでに述べたことによってすでに解決されているのであるが、それは、蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現われる。それだからこそ、アダム・スミス(第二篇)の場合にも、またそれ以前にはケネー(経済表)の場合にも、社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときには、いつでも単純再生産が出発点にされるのである。

   二 スミスによる交換価値のv+m への分解
P454L1
 アダム・スミスの説(ドグマ)では、各個の商品――酢たがってまた社会の年間生産物を構成するすべての商品の合計(彼はどこでも正当に資本主義的生産を前提している)――の価格または交換価値(exchangeable value)は、三つの成分(component)から成っているとか、労賃と利潤と地代とに分解する(resolves itself into)とかいうのであるが、この説は、結局、商品価値はv+mすなわち前貸可変資本価値・プラス・剰余価値に等しいということに帰着させることができる。・・・・・
 こうして、アダム・スミスは、製造工業の生産物の価値はv+m(ここではm=資本家の利潤)に等しいということをわれわれに示した後に、次のように言う。農業では労働者は
 「彼ら自身の消費に、または彼らを働かせる」{可変}「資本と資本家の利潤とに、等しい価値の再生産」のほかに、――さらに「借地農業者と彼の全利潤とを越えて、規則的に土地所有者の地代の再生産をも行なう。」(第二篇第五章、243ページ。[岩波文庫版、2、396-397ページ。])
 地代が土地所有者の手にはいるということは、われわれが考察している問題にとっては、まったくどうでもよいことである。それは、彼の手にはいる前に、借地農業者の手のなかに、すなわち産業資本家の手のなかに、存在していなければならない。地代は、だれかにとっての収入となる前に、生産物の価値の一成分をなしていなければならない。だから、アダム・スミス自身にあっては、地代も利潤も、ただ、生産的労働者が彼自身の労賃すなわち可変資本の価値といっしょに絶えず再生産する剰余価値成分でしかないのである。つまり、地代も利潤も剰余価値mの諸成分なのであり、したがってアダム・スミスにあってはすべての商品の価値がv+mに分解されるのである。

   三 不変資本部分
P463L9
 ところで、アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物のほうは、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値のほうは、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産されたすべての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段――その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段――の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変価値部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的見解のなかにあるもう一つの誤りにもとづいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくるかぎりでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくるかぎりでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働がいろいろな有用労働の多くの枝に分かれた体系のなかで支出されたということによってのみ、すべてこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値のほうは、ただその一部分だけがその一年間につくりだされたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表わす年間価値生産物なのである。

   四 アダム・スミスにおける資本と収入
P470L8
 しかし、ここでアダム・スミスにとってすべての災いのもとになるものは、「収入」という範疇なのである。彼にあってはいろいろな種類の収入が、一年間に生産され新たにつくりだされる商品価値の“component parts”すなわち諸成分をなすのであるが、他方では、逆に、この商品価値が資本家にとって二つに分かれるその二つの部分――労働を買うときに貨幣形態で前貸しされた彼の可変資本の等価と、やはり彼のものではあるが彼にとってはなんの費用もかかっていないもう一つの価値部分すなわち剰余価値と――が収入源泉を形成するのである。可変資本の等価は、あらためて労働力に前貸しされ、そのかぎりでは彼の労賃という形で労働者の収入を形成する。他方の部分――剰余価値――は、資本家のために資本前貸を補填する必要のないものだから、どんな種類の資本価値も形成しないで彼によって消費手段(必需品や奢移品)に支出されてよいのであり、収入として消費されてよいのである。この収入の前提は商品価値のそのものであって。この商品価値の諸成分が資本家にとって区別されるのは、ただ、それらの成分が彼の前貸しした可変資本価値に相当する等価をなしているか、それともこの可変資本価値を越える超過分をなしているかによってである。どちらの成分も、商品生産で支出され流動化されて労働になった労働力以外のなにものからも成ってはいない。どちらの成分も、収入からではなく、支出から――労働の支出から――成っているのである。

P472L1
 しかし、実際には、スミスの説明のなかの正しい点、すなわち、社会の年間商品生産物(各個の商品でも一日とか一週間とかの生産物でも同じことだが)に含まれている年間労働によって新たにつくりだされた価値は、前貸資本の価値(つまり再び労働力の買い入れにあてられる価値部分)と、資本家が――単純再生産およびその他の不変な事情のもとで――自分の個人的消費の手段に実現することのできる剰余価値との合計に等しいということをわれわれが忘れないかぎり、さらにまた、価値をつくるものであり労働力の支出であるかぎりでの労働と、使用価値をつくるものであり有用な合目的的な形態で支出されるかぎりでの労働とをスミスが混同しているということを忘れないならば、全見解の帰着するところは次のようになる。それぞれの商品の価値は労働の生産物であり、したがってまた年間労働の生産物の価値または年間の社会的商品生産物の価値もそうである。ところが、すべての労働は、(1)労働者がただ彼の労働力の購入に前貸しされた資本の等価を再生産するだけの必要労働時間と、(2)資本家がなんの等価も支払わない価値つまり剰余価値を労働者が資本家に提供する剰余労働とに分かれるのだから、すべての商品価値はただこの二つの違った成分に分解されうるだけであり、したがって、結局、労賃として労働者階級の収入をなし、剰余価値として資本家階級の収入をなすのである。しかし、不変資本価値、すなわち年間生産物の生産に消費される生産手段の価値については、どうしてこの価値が新たな生産物の価値にはいってくるのかは(資本家が自分の商品を売るときにそれを買い手に負担させるのだというきまり文句のほかには)言えないのであるが、しかし結局――ultimately――この価値部分も、生産手段そのものが労働の生産物なのだから、それ自身やはり可変資本の等価と剰余価値とから、必要労働の生産物と剰余労働の生産物とから、なっているよりほかはないのである。

   五 要 約
P477L13
 しかし、もしアダム・スミスが、実際に彼がやっているように、すでに商品価値の考察にさいして、総再生産過程で商品価値のいろいろな部分にどんな役割が割り当たるかを問題にしようとしたならば、特殊な諸部分が収入として機能しているときに他の諸部分は同様に絶えず資本として機能しているということは明らかであったのであり、――したがってまた、それらの部分は、彼の論理によれば、商品価値を構成する諸部分または商品価値が分解される諸部分として示されなければならなかったであろう。
 アダム・スミスは、商品生産一般を資本主義的生産と同一視している。生産手段はもとから「資本」であり、労働はもとから賃労働なのであって、したがって、・・・・・こうして、この立場から互いに比較された商品価値の諸断片が、いつのまにか商品価値の独立な「諸成分」に転化し、結局は「いっさいの価値の源泉」に転化するのである。また、もう一つの帰結は、商品価値が各種の収入から構成されるということ、したがって、収入が商品価値から成っているのではなく、商品価値が「収入」から成っているということである。しかし、商品価値または貨幣が資本価値として機能しても、商品価値としての商品価値または貨幣としての貨幣の性質が変わるものではないように、商品価値があとでだれかにとって収入として機能しても、それによって商品価値が変わるものではない。アダム・スミスが問題にする商品は、はじめから商品資本(それは商品の生産に消費された資本価値のほかに剰余価値を含んでいる)であり、つまり、資本主義的に生産された商品であり、資本主義的生産過程の結果である。だから、この過程が、したがってまたそれに含まれている価値増殖・価値形成過程が、前もって分析されなければならなかったであろう。この過程の前提そのものがまた商品流通なのだから、この過程の説明はまた、それからは独立な、それに先行する商品分析を必要とするのである。アダム・スミスが「新奥」にたまたま正しい点を射あてているかぎりでも、いつでも彼はただ商品分析のついでに、すなわち商品資本の分析のついでに、価値生産を考慮するだけなのである。

  第三節 アダム・スミス以後の人々
P481L19
 結論。スミスの思想的混乱は今日まで存続しており、彼の説(ドグマ)は経済学の正統派的信条になっている。


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