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テーマ:政治について(20207)
カテゴリ:「血液型」だったのにいろいろになってる
人々のしあわせを願うのが政治かな?
私は違うと思う。何がしあわせか、ってのは人によって違いすぎると思うのですよ。 こりゃあね、人々をしあわせにするのは宗教の方がいい。しあわせな気分にするだけなら、他にもいろいろあります。うまいもの食うとか温泉入るとか(笑) 極端な事をいえば「これがしあわせ」って言う事をすりこんでしまえば、それがしあわせになる。聖書読んでれば、それはフツー「不幸」だろ、ってな事をしあわせだと言って、神に感謝してたりするんですから。 試練も、結果として贈り物だったりする事はあるわけですよ。受け取る側の心構えの問題ですけどね。 じゃあなんでしょう。 税金を使う事で、最低の状態でも基本的人権を最低限保証できる状態を維持する。 つまり、食えなきゃいけないわけですよ。寝られなきゃいけないわけですよ。要は普通にいきられること。 当然、他国からの侵略を防ぐ事も必要です。 でもって、国家として最大の権力と暴力を制御して手の中に収めておく事。 国民の生きる状態を保証するためには、最大の権力と暴力が、国家以外のところに あってはまずい。当たり前ですよね。だから、逆に国家が持っているべきなのです。 この状態にあれば、それは当たり前であって、特にどうという事もないでしょう。 国家権力に対して文句も言えるし「あんなんじゃダメだ」って言ってれば済む状態です。あんなんじゃダメだ、って言ってても、どうすればいいか、という対案は出てこないものですけど(笑) 自分の生活が脅かされれば、国家に対して文句を言えば済む。 文句が言える時点で、しあわせな気分は遠くなる(笑) そりゃそうだ。しあわせな気分の時に文句は出ません。 文句をいわなければ、いい気分の日が増えるかも。 でも、文句すら言えない状態の人たちは、自由に話せるだけでもしあわせかもしれない。 自由に話せる状態を想像したら、しあわせな気分になるかもしれない。 自分たちが、自由に話せる状態に近づいてる、って思ったらしあわせな気分になれるかもしれない。 しあわせな気分を確実につかもうとするかもしれない。 そのために、そのしあわせをつかむために、自分にできる何かを思うかもしれない。 誰かがしてくれるのを待ってるかも(笑) ビジョンを見せる、ってこういう事だと思うのです。 現在の国に対して、国民が満足していなくてもどうって事はないと思う。 いちばんいいのは、今は満足できなくても、この国の未来は我々国民を満足させてくれるだろう、と思えるビジョンを見せ続けること。現在では「手に入ったらしあわせだろうな」と思う事が、未来に手に入ったとしても、やがてそれば当たり前のことになる。特にうれしい事でもなんでもなくなる。当事者ならまだしも、その子どもや孫にいたっては、当たり前のことになる。 携帯電話、今では当たり前ですよね。パソコン、それほど特別なものではありませんよね。 これらが一般家庭にはない国もある。でも、手に入れてしまった我々にとって、携帯やパソコンは特別なものでも何でもない。 だから、ビジョンを見せ続けなくてはならない。 苦しい未来でも、その中に明るいビジョンは見せなければならない。 この国は、ここ何年かの間に、持っていたはずのものをかなり失ってしまいました。 それをただ「取り返してあげる」というビジョンを見せても、誰も喜びません。 なくなったものが返ってきても、それはただ当たり前のことである、という事です。 とりかえしてさらに。 その先のビジョンを描いてみせないとね。 ま、国家にたよらず、自分の人生のビジョンは自分で描いておかないと、現状への不満ばかりがたまってしまって、楽しくもなんともない毎日を積み重ねてしまうよ。 ちなみに、ビジョンもしあわせも人それぞれであり、基準も感じ方も違います。 それぞれに描くモノは違います。 たとえば。 イスラム教の聖地を取り返すために戦った。 キリスト教の聖地を取り返すために戦った。 目的は、同じ場所を取り返す事。 エルサレムですよね。 戦って散った人たちに祈るの時、どちらの神様でいのるのか? それ、強制しちゃあだめですよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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