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テーマ:大学生の親のつぶやき(291)
カテゴリ:「血液型」だったのにいろいろになってる
先に述べたように、方介は音楽には一向に興味がない。中でも、クラシック音楽の静かな曲調は、方介に最も合わないものだった。
それでも、我慢して少しの間は聴いていたが、興奮は冷め、例の嫌な気持ちがまたぞろ蘇ってきたので、たまらずラジオを切ろうとした。大儀そうにゆっくりと音量ツマミを回していく。そのラジオは音量をゼロにすれば電源が切れるタイプのものだった。ラジオの音量が聴こえるか聴こえないかの境目になった時、ふと、クラシック音楽が途切れたような気がした。よく聴いてみると人の声のようなものも聴こえる。方介は音量を再び上げてみた。 「……のマンションで火災が発生しているとのことです。火の勢いはかなり激しいそうです。リポーターが到着し次第現場の状況を詳しくお伝えします……」 これには方介も面食らった。さっきまでクラシック音楽を流していたのに、なぜ再びニュース番組に戻っているのか。もしや方介の願いが超自然的な現象を引き起こしたのだろうか。 無論そんなことがあろうはずもない。ただの臨時ニュースである。方介もすぐにそれに思い当たった。しかし、わざわざ臨時ニュースにするほどならば、ただの引ったくりや麻薬の密売などよりも、遥かに大事件であることが予想できる。しかも、引ったくりにしても麻薬の密売にしても、いかに興味深いとはいえ、所詮は過去のニュースだった。それに対して、この火災というのはラジオを聴いているこの瞬間にも起きていることなのである。方介の興奮の度合いは自然とは高まっていった。 方介は続報を聴き逃すまいと、さらに音量を上げた。 「……こちら現場の石川です。かなり火の勢いが強いです! 火の粉がここまで飛んできます。この炎の音が聞こえるでしょうか。消防隊の消火活動にも関わらず、火の手はますます広がる一方です。このままではすぐに別の階にも引火するでしょう。何人かの住民はまだ中に取り残されているようです……」 リポーターの興奮した声がその火事の強さを如実に物語っていた。人々の悲鳴、弾ける火の粉、谷底から聴こえるような恐ろしい炎の音まで、余すところなくそのラジオは伝えていた。ごちゃ混ぜの音の塊は、方介の鼓膜を突き抜け、心臓までも震わせていた。この阿鼻叫喚の大事件こそ方介が求めていたものだった。その炎はマンションに留まらず、退屈と憂鬱すらも焼き尽くすのだと方介は信じて疑わなかった。そして、また、リポーターの声が聞こえてきた。 「ベランダに女性が立っています! 大声で助けを求めています。しかし、建物の立地の関係で、梯子車が入れないようです。かなり危険な状態です!」 方介は一心にその哀れな被害者の不幸を願った。炎が、完全にマンションを焼き尽くし、勝利することを祈った。心なしか、ラジオの向こうの炎の音が、それに応えるかのように一層激しくなった気がした。リポーターが大声で叫んでいるという被害者の声は、方介の耳には全くと言っていいほど聴こえない。方介の耳の中の世界には、強大な災害の前に、成すすべもなく右往左往している人々の姿が想像されていた。いや、もはや耳の中だけでなく、瞼を閉じれば眼の前にその光景が起こっているかのような幻覚さえ見えた。どういう状況か、消防隊は梯子車を出すことができないという。ならば、被害者の運命は決まったようなものだ。消防隊はただ指をくわえて見ているしかないに違いない。方介は残酷な想像に、にやりと口の両端を引きつらせた。 ところが、実際にはそうでなかったのだ。現実は、方介が想像したものとは違い、消防隊は極めて冷静に事態の収拾に努めていたことが、次のリポーターの言葉から分かった。 「消防隊員がベランダの下で何か広げています。マットのようなものです。空気式の救助用マットです」 方介はしばらくの間、その物体が何なのか想像できなかった。しばらく考えて、いつか何かの本で、高いところから要救助者が飛び降りる際、その衝撃を緩和するためのクッションの役割を果たす救助道具のことを読んだことがあるのを思い出した。この事実を咀嚼していくうちに、方介は、それが自分にとって不都合であるということに気が付いた。 「マットが設置されました。女性が飛び降りようとしています。あ、飛び降りました!マットの上に飛び降りました。消防隊員がすぐに保護します。無事なようです」 リポーターの歓喜の声と裏腹に、方介は失望の底に沈んでいた。救助用のマットのことを覚えていれば、淡い期待もせず、したがって落胆もなかったものを。 だが、どうしたことか、今の今までその存在をすっかり忘れてしまっていたのだ。方介には何故か、その度忘れが取り返しのつかない失敗のように思われた。方介の心の中の暗い情熱の炎が弱まると、今マンションを焼いている炎も弱まるような気がした。実際、その後も次々と同じ方法でマンションの住民は救助されていった。その様子を、方介はただ聴いていることしかできなかった。想像の世界は音を立てて崩れていった。結局この火事も、引ったくりや麻薬の密売などと同じ、取るに足らない小規模な事件に終わる予感がした。方介の心はまた、嫌な気分に支配された。そして、今夜はもうこの嫌な気分を吹き飛ばすようなニュースが出る確率は限りなく低いだろうということが絶望をさらに強くした。 「これで、住民はほとんど救助されました。あ、違います。今情報が入りました。あと一人、あと一人だけ取り残されているとのことです。繰り返します。マンションの5階にあと一人残されています。4階はもうほとんど火の手がまわっています。5階に燃え移るまで非常に時間は限られています」 この新たな情報も、特に方介の興味を引くことはなかった。あと一人だけでは、たとえ最悪の結果になったとしても、下手な交通事故よりも、被害は小さなものに終わるだろう。もはや方介にとって、ラジオを聴くことは失望を深めていくだけの行為に成り下がっていた。方介は耐えられず、ラジオの音量を下げていった。 そのとき、不思議なことが起こった。音量を下げるごとに、リポーターの声は小さくなっていくのに、炎の音や、火の粉の弾ける音は少しも小さくならない。それどころか大きくなっていくようにさえ感じられるのだ。それは、方介の炎への執着から来た幻聴か、はたまた、人間を餌食にすることができない炎が悔しさの叫びをあげたのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.05.13 00:56:12
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