ウサギをとってみたい少年
「ウサギを獲って食べる!」と言った少年がいました。当時の私は、心のなかのどこかで“無理だろう”と思ってしまいました。だけど、この「ウサギを獲って食べる!」というひと言を受け取れなかったという思いが、ずっと残っていました。この言葉を深めることができたら彼の学びに触れ一緒に考えていく時間を持てたと思うのです。“ウサギをとって食べる”ということを考えてみました。まず、ウサギをどうやって獲りましょうか。ウサギを知らなくては、ウサギを見つけることも難しいかもしれません。ウサギの生活を知れば、どうやって獲ったらいいかは見当がついて、わかるかもしれません。ウサギの生活をどうやって調べましょう。ウサギに詳しい専門家に話を聞いてみたり本で調べたり、フィールド調査をしたりしてウサギのことがわかってくるかもしれません。うっすらとウサギのことがわかって捕まえ方も同じように調べたり、試したりなんとか捕獲に成功したウサギはどうしましょう。生きたウサギを肉にするには、どうしたらいいのでしょう。きっとウサギは跳ねるでしょうしつぶらな瞳でこちらを見つめるでしょう。私たちの目にウサギは、可愛く映ってしまうかもしれません。食べるのか、食べないのか殺すのか、生かすのか物凄い葛藤に苦しむかもしれません。肉にする方法を知ってどうにか勇気を振り絞って、決断して肉にすることができたらその肉にどんな気持ちを持つのでしょう。そして、その肉をどうやって食べましょう。ウサギをどうやっていただいたら美味しくいただけるのでしょう。生きた命を前に“命をいただくこと”そのものを少年と一緒に真剣に語りあう時間を持つことの意味を感じています。将来同じ少年には、出会えなくとも“無理だろう”と始めからあきらめずに一緒に考えてみる姿勢を持ちたいです。できるできないでは量れない世界が広がっているのだなぁと少年のそばに寄り添いたいです。先日ラジオから「どうして食べ物を残したら “もったいない”のかわからない。」そういう子どもの声が聞こえてきて私はドキッとしました。どうして“もったいない”のか(それとも“もったいなくないのか”)一緒に考えてみたいと思いました。ウサギをとってみたい少年に出会えたこと感謝しています。