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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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2020.09.18
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カテゴリ:カテゴリ未分類
人は、自分の頭や心の中にあるものを観たり感じたりすることが出来ます。「悩み」、「苦しみ」、「不安」といったものはその世界からやってきます。

でも、「悩み」や、「苦しみ」や、「不安」はそれ自体では存在出来ません。「からだ」の手助けが必要だからです。

悩んでいる時には悩みやすいようにからだの状態が調節されています。姿勢や、緊張や、表情や,仕草や、動きや、内蔵の働きなどが手助けしてくれるから人は悩むことが出来るのです。
そして役者は、その姿勢や、緊張や、表情や、仕草や、動きといったからだの状態を真似ることで悩んでいる人を模倣しようとします。

これは「悩み」だけでなく「苦しみ」や「不安」でも同じです。
自分にとっては「頭や心の中だけの問題」なんですが、他の人はその人の「頭や心の中の状態」を「からだの状態」として見ることが出来るのです。実は、「からだ」は、「他の人が見ることが出来るその人の心」でもあるのです。

ですから逆に、お酒や、薬や、麻薬や、何らかのエクササイズなどでからだの状態を変えてしまうと、「悩み」の原因は消えていなくても「悩み」は居場所を失い消えてしまいます。
楽しくなくても笑ってしまうことで苦しみが和らぐこともあります。

ただ、ほとんどの場合それらの効果は一時的なものです。頭や心の中の世界は「デジタルワールド」と同じで実体がありませんが「からだ」には実体があるので、そう簡単に変わることが出来ないからです。

記憶は頭の中だけでなくからだの中にも残るのです。というか、「からだの記憶」が「心の記憶」を支え、「心の記憶」が「頭の記憶」を支えているのです。「からだの記憶」や「心の記憶」と繋がっていない「頭の記憶」はRAM(Random Access Memory)に書き込まれた情報と同じで、ちょっとしたトラブルや時間経過で簡単に揮発してしまいます。

実際には、「からだ」というハードに組み込まれた「からだの記憶」の方が、脳細胞に情報として記録されているだけの「頭の記憶」よりもはるかに強力なんです。

だから痴呆症になって自分の子どもの顔を忘れても、さっき食べたご飯のことを忘れても、話したり、歩いたり、日常生活の方は普通に送ることが出来るのです。

でも現代人は「頭の記憶」ばかりを大切にして、「心の記憶」のことも、「からだの記憶」のことも忘れています。学校でも「頭の記憶」ばかりを育てようとしています。でも、そんなもの、必要がなくなったら簡単に消えてしまうのです。

(シュタイナー教育ではその逆に、「頭の記憶」よりも「心の記憶」や「からだの記憶」の方を大切にしています。そして、「からだの記憶」が無意識を作りだしています。宮沢賢治もからだの記憶を大切に考えていました。)

お酒や麻薬などで一時的にからだの状態を狂わせて悩みや苦しみを心の中から消しても、それらの働きが消えると共にからだの状態も元に戻ってしまいます。そして、からだの状態が戻ると悩みも戻ってきます。だから麻薬やお酒を飲み続ける事になってしまうのです。

ただし、何らかの「心とからだに同時に働きかけるようなエクササイズ」で不可逆的にからだの状態を変えることが出来れば悩みはそう簡単に戻って来なくなります。でも、これを実現するためにはちゃんとした指導者と本人の継続的な努力が必要になります。

なぜ指導者が必要なのかというと、
人は自分で「自分のからだの状態」を感じることがなかなか出来ないからです。からだの状態の結果としての「快・不快」は感じることが出来ても、その「快・不快」がからだのどのような状態によって生まれているのかまでは分からないのです。

人はちょっと姿勢が変わるだけで、意識の働きも、心や感覚の状態も、思考回路も変わってしまうのですが、そのような「自分そのもの」に属するようなことは、その変化を自分では感じることが出来ないのです。

そのため、人は自分のことなのに自分が普段どういう姿勢でどういう歩き方をして、どういう表情で話しているのかを知らないのです。また、自分と他の人とを同じ基準で比較することも出来ないので客観的に自分のことを見ることも出来ません。
だから「心とからだのつながり」のことをよく知っている指導者に見てもらう必要があるのです。

まただから、自分でyoutubeを見たり、本を読んだり、本の付録の動画を見て真似するだけでは、表面的な部分しか変わらないのです。

ただ、幼い子どもたちはまだ「悩み」や、「苦しみ」や、「不安」に伴うからだの状態が「からだの記憶」として固定されていないので、一時的に悩んでも、苦しんでも、不安を感じても、またすぐに元に戻ります。

時々「子どもを打ってしまった、子どもに怒鳴ってしまった、これが心の傷になって一生続くのではないか」と心配するお母さんもいますが、そんなことはないので安心して下さい。

ただし、その状態が日常的に継続してしまうと、そのからだの状態が「からだの記憶」として固定されてしまうため、悩み、苦しみ、不安の原因が消えてもそう簡単には元に戻らなくなります。
その結果、具体的な悩みの原因や,苦しみの原因や、不安の原因が存在していないのにも関わらず、漠然とした悩みや、苦しみや、不安が消えなくなってしまいます。
そのような状態になっていると、子どものちょっとした言動がきっかけとなって、過去の、悩みや、苦しみや、不安が再現されてしまいます。

その場合、その元々の原因はズーッと過去にあるのに、それを想い出すきっかけになった子どもがその原因であるかのように勘違いしてしまうのです。
そして、子どもを責めます。






Last updated  2020.09.18 10:34:12
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2020.09.17
カテゴリ:カテゴリ未分類
私たちは常に何かを考えています。過去のこと、未来のこと、遠くのこと、近くのこと、自分のこと、子どものこと、パートナーのこと、仕事のこと、健康のこと、コロナのことなどなどです。

それらは全て「頭の中」や「心の中」の出来事であり、「頭や心の中にしか存在していない主観的現実」です。「命やからだが存在している客観的な現実世界」の中での現実ではありません。

そして、「頭や心の働き」は「命やからだの働き」の結果に過ぎないのですから、本来は「頭や心の中の現実」よりも「命やからだの現実」の方を大切に考えなければならないはずなんですが、なぜか多くの人が「命やからだが存在している世界の現実」よりも、自分の「頭や心の中にしか存在していない現実」の方を大切にして生きています。

そもそも、「命やからだが存在している世界の現実」に気付いていない人すらいっぱいいます。

でも、頭や心の中のことばかりに囚われ、「命やからだが存在する世界」の事を忘れたら、「命やからだの状態」が狂ってきます。そして、命やからだの状態が狂ってきたら、命やからだの状態だけでなく、その働きの結果としての頭や心の働きも狂ってきます。

それは当然の結果なんですが、現代人はその状態を薬や機械などで何とかしようとしています。

そしてさらに泥沼に入り込もうとしています。


以下、山のように書いたのですが、言いたいことが散漫になってしまったので削除しました。

続きは明日書きます。


***********

noteの方の記事を更新しました。
新しい記事を三本書きました。
・子育ては子ども理解から
・年齢による違い
・心ではなく感覚に働きかけるのです。
最初の一本は無料ですが、二本目以降は有料(100円)になります。

https://note.com/morinokoe?fbclid=IwAR3n5e-sl18rc5glyIQkJijvbiQfXa8KnG26t7QHIkV4VfrHGsN7Xjo9ERM






Last updated  2020.09.17 10:14:18
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2020.09.16
カテゴリ:カテゴリ未分類
大坂なおみが全米オープンを制して二度目の優勝をしました。その優勝インタビューでブラック・ライブズ・マター運動へのメッセージを込めた7枚のマスクについて、その意味を問われると大坂なおみは以下のように答えたそうです。

「あなたが受け取ったメッセージは何でしたか?会話を始めることが目的でした。メッセージをあなた方がどのように受け取ったかに興味があります。話し合いが起きれば良いと。USオープン会場の外で起きていることについては詳しくないですが、より多くの人がこのことを語る(きっかけになる)といいと思います」

と語ったそうです。

Yahooニュースよりhttps://news.yahoo.co.jp/articles/fe39dee10696f8d35c5625a6314129b8bdbc24b5

「自分の頭で考える」とはこういうことです。

人の言葉や行動の是非を論じたり、揚げ足取りをしたり、評論を語る人は多いですが、多くの場合そういう人は単に、その言葉や行動に対して感じた個人的な感想を語っているだけです。

テレビでも「個人的な感想」ばかりが流れています。

「相手に対する個人的な感想」と、ちゃんとした思考の結果としての「考え」は全く異なるものなんですが、実際には「感覚的、感情的な感想」を「自分の考え」だと思い込んでしまっている人が非常に多いのです。

「感想」と「考え」はどう違うのかというと、「感想」は個人的なものです。それに対して、「考え」は個人を超えたものです。

感想は個人的なものですから、お互いの感想を紹介し合うことは出来ても、どの感想が正しいのかを論じることは出来ません。みんな正しいのです。
それを「自分の感想が一番正しい」とやると対立や差別が起きます。

「ゴーヤはまずい」とか、「ゴーヤは美味しい」というのは個人的な感想です。ですから、どちらの方が正しいのかを論じることは出来ません。でも、そのような感想の前提になっている「私にとっては」という自覚がない人は、それを「普遍的な事実」であったり「自分のちゃんとした考え」だと思い込んでしまいます。そして「ゴーヤは美味しいのになんで食べないの」と他の人にも押しつけようとします。

それに対して、「考え」は個人の感想や、個人的な視点を超えたものです。だからそれについて話し合うことが出来ます。逆に言うと、人を非難、批評するばかりで、冷静に話し合うことが出来ない人は「自分の考え」を持っていない人だということでもあります。

もちろん「自分は何を感じたのか」とかいうことも大切です。それがちゃんと自覚出来ていないと自分の生き方が定まりませんから。でも、自分を超えた視点がないと、他の人と話し合うことが出来ないのです。

「自分」という視点を超えたところで、物事を理解しようとする時「考える」ということが発生するのです。それは人間にしか出来ない能力です。
自分中心の思考はイヌやネコにも出来るのです。

「子どもが言うことを聞かない、きっと私に反抗しているんだ」というのは自分だけの視点から見た「感想」です。そこに子どもの視点が入ると「考え」になるのです。

子どもに対して「なんでこんなことも出来ないの」「なんでこんなことも分からないの」と言っているだけの人は、「自分」を超えた視点を持っていない人です。つまり自分の頭で考えていない人です。
そのような状態の人は、子どもとコミュニケーションを取ることも、話し合うことも出来ません。

そのような子育てを受けて、子どもも同じような状態に育ってしまうと、子育ての場が、親と子の「勝つか負けるかの修羅場」になってしまいます。

それに対して、子どもや他の人の言葉にも耳を傾けることが出来る人は「自分の考え」をちゃんと持っている人です。そのような子育てを受けた子は、親や他の人や仲間の言葉にも耳を傾けることも話し合うことも出来るので、子育てが修羅場になりません。






Last updated  2020.09.16 16:18:04
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2020.09.15
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日書いた「重いものをぶら下げる」とか「下でクマさんが」というのは正解ではありませんからね。もともと、子どもの「なぜ?」「どうして?」への答え方に正解などないのですから。

ただ私が言いたかったのは「考えるためのヒントヒントを与えてあげて下さい」ということです。

子どもは考えることは大好きですが、知識も体験もありません。そのため、どこからどのように考えたらいいのかが分からないのです。でも、ちょっとしたヒントさえあれば、そこから自分の考えを広げるのは得意なんです。

これは工作や、遊びの場合でも同じです。工作の仕方や遊び方を教えるというよりも、工作や遊び方のヒントを教えてあげればいいのです。すると子どもは勝手に作り始め、遊び始めるのです。

昔の子ども達は仲間と群れて遊んでいましたから、他の子や年長の子がやることを見て、それをヒントにして自分の考えや遊びを広げていましたが、一人だけで遊ぶことが多い現代の子の場合は、そのヒントがないため、考え方も遊びも広がりにくいのです。

大人の目にはテレビやネットの世界にも様々なヒントがあるように思えますが、一方的に流れる映像を、自分自身の現実世界の中でのヒントとして取り込むのは至難の業なんです。
別世界の出来事ですから。

そのため、ほとんどの場合、「ヒント」ではなく単なる「情報」としてしか取り込めないのです。
それは、ヒントを「ヒント」として取り込むためには取り込む「母体」が必要を持っていないからでもあります。

例えば、私が何かを作っていてうまく行かなかったとします。「どうやったらいいかな」と考え続けている時に動画を見ることでヒントを得ることは出来ます。

でも、自分の中に何の課題もない時に動画を見てもヒントは得られません。ヒントを受け入れる母体がないからです。

テレビや動画を見ていて、「こういうの作りたい」という気持ちが起きることはよくありますが、でも、それまでに「何かを作る」という体験を積み重ねていない子は、どうやって作ったらいいのかが分かりません。

失敗しても、どこがどう悪かったのかの分析も、改善も、工夫も出来ません。実体験がないからです。

椅子を作って足がガタガタでも、しょっちゅう作っている子はどこが悪かったのかがすぐ分かるのですが、大人の指導と手助けで作った子は、どこが悪くてガタガタするのかが分からないのです。原因が分かったとしてもどうしていいのかが分かりません。

テレビや動画がヒントになるためには、実体験という受け皿が必要になるのです。

そして、実体験を促すためには作ったり、遊んだりするヒントが必要になるのです。

でも、大人は、ヒントを与えるのではなく、正解を教えようとしてしまいます。「車のタイヤはこう作るとクルクル回るよ」とヒントを与えるだけならいいのですが、「車はこうやって作るんだよ」と、作り方まで教えてしまうのです。

すると子どもは急に嫌になってしまうのです。子どもは押しつけが大嫌いですから。

ヒントを与えるのは非常に大切です。
でも、「それを取り入れるか取り入れないか」とか、「実際にどう使うのか」というようなことは、子どもに任せた方がいいのです。

そうでないと、子どもは「自分の頭で考える」とか、「自分と対話する」という機会を失うことになります。

***********

noteの方の記事を更新しました。
新しい記事を三本書きました。
・子育ては子ども理解から
・年齢による違い
・心ではなく感覚に働きかけるのです。
最初の一本は無料ですが、二本目以降は有料(100円)になります。

https://note.com/morinokoe?fbclid=IwAR3n5e-sl18rc5glyIQkJijvbiQfXa8KnG26t7QHIkV4VfrHGsN7Xjo9ERM






Last updated  2020.09.15 08:34:48
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2020.09.14
カテゴリ:カテゴリ未分類
子育ての勉強会でお母さん達に、「もし、子どもがニュートンみたいに、〝どうしてリンゴは落ちてくるの?〟と聞いてきたらどのように答えますか?」と聞くと、「重力があるからよ」とか、「熟したからよ」とか、「風が吹いたからよ」などと答える人が多いです。

でもこれは大人の理解の仕方に過ぎません。
それは「知識による説明」です。大人は知識で説明されると分かった気になってしまうのです。

でも、知識は単なるラベルに過ぎないので、ラベルを貼っただけの空っぽのビンを与えられた子どもは、次第に「なんで?」「どうして?」を聞かなくなります。聞いても「空っぽの答え」しか返ってこないのですから。

「空っぽの答え」しか与えられなかった子どもは、「空っぽの言葉」で「空っぽの思考」をするようになります。でも、その「空っぽの言葉」や「空っぽの思考」では、自分の人生や、命や、自然のことを考えることも、語ることも出来ません。子どもと話し合うことも出来ません。子育ても出来ません。

「なぜ?」「どうして?」と聞いてくる子どもは「正しい答え」が欲しいのではなく、「考えるヒント」が欲しいだけなんです。つまり,本質的には自分で考えたいのです。子どもは「知識を集める」ことよりも「考える」ことをしたいのです。

自分の頭で考えるから理解が進むのです。そして、自分の頭で理解したから納得が生まれ、納得することで自分の世界が広がり、さらには安心が生まれるのです。

「理解」は子どもの成長につながりますが、ただ「知識」を得るだけでは子どもの成長に繋がらないのです。「知識を得ること」と「理解すること」は違うのです。
だから子どもは「知識」を求めないのです。


古代の人も、「どうして毎日、日は昇り日が沈むのだろう」とか「どうして雨が降るのだろう」とか「どうして病気になるのだろう」と考えました。それは考え、「納得する答え」を見つけることで「安心」(つながりの感覚)を手に入れることが出来たからです。

「正しい知識」が得たかった訳ではありません。そのような文化の人の所に現代の教科書を持って行って色々な「正しい知識」を教えても、その人達の考えは変わらないと思います。納得出来ないからです。

古代の人と同じ感性を持っている子どもたちも、知識を得たくて「なんで?」「どうして?」と聞いてくるわけではないのです。

それに、幼い子どもは「知識」の意味や価値をまだ知りません。「知識」と「現実」がどのように繋がっているのかも知りません。
大人の世界では「知識」は価値を持っていますが、子どもの世界では「知識」には何の価値もないのです。


実は、「知識」がどのような価値を持つのかは、お金の価値と同じで社会が決めているのです。私たちは「知識が価値を持つ社会」に生きているから知識に価値があるように感じているだけなんです。
アマゾンの奥地で自然と共に暮らしている人の所に行って「地球は丸いんだよ」と言ってもバカにされるだけです。

そして子どもたちもまた知識が価値を持たない世界に生きているのです。

社会というものがちゃんと理解出来るようにならないと知識の価値も分からないのです。
子ども達が群れて遊んでいる場をよく観察してみて下さい。子どもたちが大切にしているのは「知っているか知っていないか」(知識)ではなく「出来るか出来ないか」です。それは「理解出来ているか理解出来ていないか」の違いでもあります。

子ども:  「どうして落ちてくるの?」
お母さん: 「重力があるからよ」
子ども:  「重力ってなあに?」
お母さん: 「地球がものを引っ張る力の事よ」
子ども:  「地球ってなあに、どうして地球はものを引っ張るの?」

この先説明できる人いますか。
説明できない人は知識は持っていても理解は出来ていない人です。

こんな時、子どもとちょっと体験できる事があります。
例えばちょっと重いものをヒモにつり下げて子どもに持ってもらいます。子どもが「重いよ」と言ったらヒモを切ります。そこで「どう、何か変わった?」と聞けば「楽になった」「軽くなった」と答えるかも知れません。

木の実を落とすと木が楽になるのです。物理的にはこれはエネルギーがより安定化するための現象です。
それを「重力」と名付けているだけです。
リンゴとは逆に、ヘリウムや水素が詰まった風船が空に上がっていくのも重力があるからなんです。(分かりますか?)

立っているより寝ている方が楽ですよね。それも同じです。そのようなことを意識的に体験をさせるだけで子どもは自分で考え始めるのです。

また、別の説明の仕方もあります。

  リンゴの実が落ちるとお腹をすかせているクマさんが喜ぶの。
  そして、リンゴの実を食べて、色々なところでウンコするでしょ。
  するとそこからリンゴの芽が出て、新しいリンゴの木が生えるの。
  すると、リンゴの木は自分の子どもが広がるから喜ぶの。

こういう説明の仕方もあります。「知識」ではなく「物語」で答えるのです。
科学的ではありませんが、命の実相にあった答えではあります。そして、この説明なら子どもも納得できます。
リンゴが実を落とす理由は一つではないのです。

どちらの説明の方を好むかは子どもによって違います。知的な思考を好む子は前者のような「自分でも体験できるような説明」の方を好むと思います。

そして、こういう体験を通して子どもは「考える言葉」を身につけていくのです。
いくら知識をいっぱい溜め込んでも「考える言葉」は身につかないのです。

でも、子どもに考える言葉を身につけさせるためには、大人がまず自分の頭で考える必要があるのです。

そんな時、「正解を求める人」は「自分の頭で考えていない人」です。






Last updated  2020.09.14 09:01:52
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2020.09.13
カテゴリ:カテゴリ未分類
現代の教育は知識を教え、覚えることで成り立っています。でも「知識の発見の仕方」や「知識の伝え方」は伝えてもいないし、学ぶことも出来ません。

「知識を疑う」ということも、「知識の確認の仕方」も伝えていません。

それどころか「学校で教えられた知識」を疑うことすら禁止されています。教えられた通りに覚えないと叱られてしまうのです。
そこにあるのは、「正解の押しつけ」だけです。それはまた「思想の管理」につながります。

でも子どもたちは本能的に自分で発見したいのです。自分で発見するから自分の世界が広がり、学ぶことが喜びになるのです。

ですから、「知識」(正解)を押しつけられているだけの子どもたちは苦しくなります。先生の言うことにも納得できません。でも、そのことに違和感を感じてもそのことを言ったり反発したりすることは許されません。
また、先生が言った通りに覚えたり行動したりしないと、成績が悪くなったり、先生からの評価が悪くなり、それが親に伝えられると、親から叱られたり、親からの評価も低くなってしまいます。

そういう状況で子どもに出来るのは、「勉強をしない」とか「宿題をしない」というサボタージュ(消極的自己表現)だけです。

また子ども自身も、自分の考えや、感覚や、感情を表現する能力が育つような子育てや教育を受けていないので、どうしたらいいのかが分かりません。

ただし、幼い頃から仲間と群れて遊んで育った子どもはそういう言葉を持っているので、ちゃんと自分の意見を言ったり、親や先生に反発することも出来ます。

「僕には学校の勉強が必要がない」とか「学校に行く必要を感じない」とはっきりと言う子もいます。

私の知っている範囲では、そういうことがちゃんと言えるのは、自然の中などで仲間といっぱい遊んで育った子どもたちだけです。仲間との遊びの中で「自分の感情を相手に伝える言葉」が育ったのではないかと思います。

でも、そんな風に子どもが自分の素直な感情を言い出すと、お母さんも先生もその子を「問題児」として扱い始めます。

そんな時は、その子の言葉に耳を傾け、話し合い、お互いに出来ることを模索すればいいのですが、大人達がそういう学びをしてこなかったので、そういう対応が出来ません。さらには、「子どものワガママを許していいのか」などというようなトンチンカンなことを言い出す大人までいます。

子どもたちのサボタージュも、反発も、みんな大人がやっていることの結果に過ぎないのですが、でも、ほとんどの大人はそのことに気付かないのです。

「疑う」ということが肯定されない子育てや教育を受けてきたからなのでしょう。「どうしてこんな校則があるんですか?」と聞いただけで「反抗的だ」と扱われてしまうのです。

正解を覚えるだけの教育を受けてきた人は、子どもが思い通りに行動しなかったり、育たなかったりしても自分たちがやっていることを疑うことが出来ません。
その結果、子どもたちの正当な欲求や、反応や、サボタージュを「矯正しなければいけないこと」と考え、説得したり、脅したり、アメとムチで調教しようとします。

そして、子どもたちはそのような子育てや教育を受けているうちに「長いものには巻かれろ」とか、「偉い人の言うことは疑うな」という習性が身について行きます。

その結果、多くの人が「先生」や「政治家」や「テレビ」といった「ある種の権威を持つもの」が言うことをそのまま信じるようになりました。

疑問を呈したり、対話や議論を求めること自体が「反抗」として受け取られてしまう社会が作られてしまいました。

テレビに出ている人がみんな「早くワクチンが出来るといいですね、私も早く打ちたいです」と言っているのを聞くとぞっとします。世の中にはワクチンに対して否定的な意見もあるのですが、そういう意見は肯定的には扱われていません。
有無を言わさない状態で「ワクチンありき」で話が進んでいるのです。

と書くと、反社会的だとか反抗的だと思われるのかも知れませんが、私は「何かを決めるためにはもっとちゃんとした情報開示と議論が必要なんではないですか」ということを言いたいだけです。

「ワクチンなんて必要がない」とか、「ワクチン止めろ」ということを言っているわけではありません。私が言いたいのは、「そういう過程を踏まないと後で後悔しますよ」ということだけです。






Last updated  2020.09.13 08:12:33
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2020.09.12
カテゴリ:カテゴリ未分類
現代人は先祖代々受け継がれてきた「人と人をつなぐ言葉」を失いました。
生活の中から「人と人が繋がる必要性」が失われて来たからです。

そんな現代人の言葉は、「意味を理解し、意味を伝えるため」だけのものです。

言葉の中に「頭で解釈出来る意味」はあっても、「心や、感覚や、からだと響き合うような中味」がないのです。生活の中でそれ以上のことを言葉に求めなくなってしまったからです。

そしてそれは、心や、感覚や、からだを持たないAIが使っている言葉とよく似ています。

本来言葉には、

「意味を理解し伝える機能」と、
「自分の感情や感覚や考えを他者と共有する機能」と、
「自分の思考や、感覚や、感情を表現する機能」と、
「自分自身や、他者や、過去や、未来や、世界や、自然と繋がる機能

などがあったはずなのですが、現代人の言葉の中には「意味を理解し伝える機能」しか残っていないのです。(正確に言うと、他の機能が消えたというわけではなく、非常に弱くなってしまったということです。)

それは、現代社会では「意味を理解し、意味を伝える」ことだけが大切にされていることの表れでもあるのでしょう。現代人は、心や、感覚や、からだで感じことに対してあまり価値を感じないのです。

だから、そういうことを積極的に体験する場も減ってきているし、それらを扱う言葉も消えてきているのです。子育てや教育の場でもそういうことは大切にされていません。

確かに、いくら深く感じることが出来てもテストの成績が良くなるわけではありません。むしろ競争の場では、「感じる能力」は弱点にすらなってしまう事もあるでしょう。
相手に共感していたら、競争など出来ないからです。

その結果、「言葉」も「情報を記述し、伝え、理解するためのもの」になってしまいました。それは相手の心や、感覚や、からだにではなく、頭にだけ届くような言葉です。

「頭から出た言葉」は相手の頭に響きます。
「心から出た言葉」は相手の心に響きます。
「からだから出た言葉」は相手のからだに響きます。
「思考から出た言葉」は相手の思考に響きます。
「記憶から出た言葉」は相手の記憶に響きます。

これが言葉の原則です。

この原則があるから、幼い子どもはお母さんから言葉を学ぶ過程で、心育て、感覚育て、からだ育てが出来るのです。また、思考力や記憶力もお母さんとの言葉のやり取りで成長して行くのです。

教科書で学んでいるのは「頭から出た言葉」に過ぎません。

仕付けや子どもとの関係作りがうまく行かないのは,お母さんが「頭から出た言葉」だけで子どもに話かけ、頭の働きだけで子どもの言葉を理解しようとしているからです。






Last updated  2020.09.12 15:31:58
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2020.09.11
カテゴリ:カテゴリ未分類
人間にとって「言葉」ほど大切なものはありません。

現代人は「言葉」を単なる「コミュニケーションのための道具」としてしか考えていませんが、実際には、言葉は「人間」そのものなんです。

その人の心の状態、感覚の状態、意識の状態がその人の「言葉」に働きかけるだけでなく、その人の「言葉」が、その人の心の状態、感覚の状態、意識の状態に働きかけてもいるのです。
ですから、異なった言葉を持っている人は異なった心の状態、感覚の状態、意識の状態を持っているのです。


そして、人間が言葉を失ったら全ての「人間らしさ」は失われ、ただ本能のままに行動する動物になってしまうのです。

それはプログラムやOSを失ってしまったら、どんなに高機能なAIでもただの機械の固まりになってしまうのと同じです。
またそのため、「その人がどのような言葉を持っているのか」ということが、「その人がどのような人間らしさを持った人間であるのか」ということと直結しています。

またその人の言葉は、その人がどのような子ども時代を過ごしたのかという事とも大きく関係しています。室内でばかり遊んで育った子と、自然の中で遊んで育った子とでは使っている言葉が違うのです。そしてそれは、その子達の意識や、心や、思考や、感覚の違いでもあります。

ただし、この場合の「違う」というのは日本語と英語のような音や構造の違いではありません。両者とも同じ音と構造を持った日本語です。でも、言葉一つ一つの意味も言葉の使い方も違うのです。

「言葉」というのはビンに貼られたラベルのようなものです。

「木」という言葉を聴くと、「木のイメージ」が湧いたり、「木の記憶」が想い出されたりします。普段はそんなこと意識しませんが、私たちは無意識的にそういう作業をしているのです。だから言葉を使ったり、理解したりすることが出来るのです。
でも、「木」という言葉を聴いて「命」を思い浮かべる人もいれば、「資源」を思い浮かべる人もいます。それが「ビンの中味」です。

オウムも言葉を話しますが、オウムの言葉にはその中身がありません。ですから、人まねは出来ても自分の言葉としては使うことが出来ないのです。

でも最近、そのオウムのような言葉しか話せない子どもが増えてきているのです。饒舌だし、色々な情報や言葉も知っているのですが、話をしていても言葉に中身を感じないのです。

そういう言葉を使っている本人も、「自分の言葉」で「自分の想い」を伝えることが出来ていないことは感じています。でも、自分の想いをどうやって自分の言葉で伝えたらいいのかが分からないのです。「自分の心やからだと繋がった言葉」を持っていないからです。

昔から幼い子どもたちは最初からそのような状態です。
だから時々気持ちが通じなくてカンシャクを起こしたりします。でも、様々な体験を繰り返しながらその言葉に中身を入れて行ったのです。でも最近は、言葉に中身を入れることが出来ないまま大人になってしまう人が多いのです。

子どもたちは「何か作りたい」と言います。でも、「何か」では手伝いも出来ないし、本人も何も出来ないので、「その何かってどんなもの?」と聞き返すのですが、心の中のその「何か」を具体的に説明できない子が多いのです。で結局、イライラして、「もういい」と言って作るのを止めてしまいます。

テレビや教科書やゲームでだけ「木」を知った子も、いつもリアルな森の中などで木登りをして遊んだ子も、同じ「木」という言葉を使いますが、その言葉の中身は全く違います。そのため、「木」という言葉の使い方も全く違って来ます。

テレビや教科書やゲームでだけ「木」を知った子は、「木」を情報として扱おうとします。「情報としての木」しか知らないからです。
その「情報としての木」には、心や、感覚や、からだに響くような匂いも、肌触りも、葉っぱのそよぐ音も、木漏れ日にキラキラする葉っぱもありません。

そのような「情報としての言葉」しか使えない人が生きている世界には、「木」に関する情報はあっても、心や感覚やからだに響くような「木」の実態がないのです。そのため、言葉の論理としては正しくても、現実の世界とのつながりを持たない空理空論しか語ることが出来ないのです。

自分自身のことに対しても、頭の中の論理だけで自分のことを考えようとします。「現実的な存在としての自分」のことを知らないため、ありのままの自分と向き合うことも出来ません。

実は、「言葉の中身と出会うような体験がない」ということは、「自分自身との出会い」もないということでもあるのです。

人が自分の顔を知るためには「鏡」が必要ですよね。そして実は「体験」がその「鏡」の役割をしてくれているのです。子どもはお花を摘んだり、ドロンコ遊びをしたり、コマを回したり、仲間と鬼ごっこをしながら「自分」と出会っているのです。

でも、ゲームの世界ではリアルな自分と出会えません。ゲームの世界も鏡としての働きを持っていますが、自分がどのようにその鏡に映し出されるかを決めているのは「現実の論理」ではなくゲーム作者だからです。

そのため、リアルな体験が少ない子は自分のこともよく分からなくなってしまうのです。そして、「頭の中の自分」と「思い通りにならない自分」との乖離に苦しむことになります。時々、「なんでこんなことも出来ないのか」と自分を責めている人がいますが、そういう人も同じです。

ですから、子育ての根幹は「言葉育て」であるべきなんです。

ただし、だからといってただ言葉を教え覚えさせれば「言葉育て」が出来るというわけではありません。そこが「言葉」を育てることの難しさなんです。






Last updated  2020.09.11 09:38:55
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2020.09.10
カテゴリ:カテゴリ未分類
目も見えず、耳も聞こえなかったヘレンケラーは、当然のことながら人間らしいことは何も学べず、7才になっても本能のままに行動する野生動物のようでした。

お腹がすけば、匂いをかぎつけて、他の人が食べているものでも取って食べてしまいました。もちろん手づかみです。自分の本能のままに行動し、それを止められると暴れました。止められる理由も分かりませんでした。

そんな状態のヘレンを救うためにサリバン先生がやったことは「言葉」を教えることでした。

ただし、目も見えず、耳も聞こえないのですから普通の教え方は出来ません。手話も使えません。そこで使われたのが「指文字」というものです。
相手の手に触れながら指で様々な形を作り、その指の形で言葉を伝えるものです。

NHK ハートネット 福祉情報総合サイトhttps://www.nhk.or.jp/heart-net/article/114/

に指文字のことと、サリバン先生とヘレンのことが詳しく書かれています。
簡単に言うと「触覚を使った言葉」です。点字を指の形でやるようなものです。

ヘレンは、五感のうちの視覚も聴覚も使えませんでしたが、嗅覚、味覚、触覚は使えたので、その使える感覚を使ってコミュニケーションを取ろうとしたのです。

またそれが可能だったのは、ヘレンが嗅覚、味覚、触覚だけでこの世界を感じ取り、また、それを楽しむ能力を持っていたからです。ヘレンは、嗅覚、味覚、触覚を使って、観て、聴いていたのです。

でも、その世界には「体験」はあっても「言葉」がありません。そのため、ヘレンは「心の世界」を育てることが出来ませんでした。「豊かな感情」はあったのですが、その感情に振り回されているだけで、「感情を超えた意識」を持つことが出来なかったのです。

そして、その「感情を超えた意識」を持つことが出来なければ、人間らしさを育てることも出来ません。イヌも感情は持っています。でも、イヌには人らしさが理解出来ません。なぜなら,その「感情を超えた意識」というものを持っていないからです。

子育てでも,豊かな感情を育てるだけでは、人間らしさを育てることは出来ないのです。人間らしさを育てるためには「言葉」の学びが絶対的に必要なんです。

しかもそれは、「体験と繋がった言葉」でなければなりません。
具体的な体験と繋がらない言葉は、自分が生きている世界とのつながりを持っていないため、他者とのコミュニケーションに使えない「自分語」に過ぎないからです。


一歳半までは正常だったヘレンが唯一覚えていたのが、水と関係していると思われる「ウォー」(water)という言葉でした。
でもそれが、「水を入れる器」のことなのか、「中の液体」のことなのか、「水を飲む」という動作のことなのかが分かりませんでした。(前出のサイトより)

「水という言葉」と「水という存在」が一対一対応していなかったからです。

幼い子どもが「水」と言えば、ママは「水が飲みたいんだね」と理解して水を持ってきてくれます。「パイパイ」と言えばおっぱいをくれます。

この場合、自分の欲求を伝えるサインとして「水」とか「パイパイ」という言葉(音)を使っているだけです。水が欲しい時に「水!」と叫ぶのは言葉としては正しい使い方ではないのです。(でも今、そういう言葉しか使えない子が多いですけど。)

でも、「水」という言葉や「パイパイ」という言葉が、具体的に何と一対一対応しているのかは分かっていません。ヘレンの「ウォー」もそのレベルでした。
それ以前からヘレンは「水」というもの、「water」という言葉自体は知っていたそうです。でも、その「ウォー](water)」が「水の感触」とは繋がっていなかったのです。

そして「リアルな感触(体験)」とつながっていなければ、いくらいっぱい言葉を知っていてもそれは「思考の道具として使える言葉」ではないのです。

ちなみに、幼い子どもは、「紙に小さなグチャグチャを描く」ことを「文字」だと思い込んでいます。
子どもの言葉の認識の仕方と、大人のそれは同じではないのです。

水道から出てくる水しか知らない子は、「水」とは「水道から出てくるもの」という理解をしてしまうことがあります。そういう理解をしてしまった子には、川の水も、雨も「水」ではないのです。(自閉症の子はそういう理解の仕方をする傾向が強いということを読んだことがあります。)
学校の先生と町中で会うと、それが先生だと分からないというようなことはよくありますよね。
子どもはなんでもセットにして覚えてしまう傾向があるので、そのセットの中から「水」や「個人」を分離出来ないのです。それが出来るようになるためには言葉の学びが必要になるのです。

それでサリバン先生は、「ウォー(water)とは水そのもののことなんだ」ということを伝えようとしました。

そして、例の有名な井戸端のシーンになるのです。ヘレンが水に触れる、そしてサリバン先生が指文字で「water」と書く、それを繰り返しているうち、ある瞬間、幼い頃の記憶の中にあった「ウォー」(water)」が、この手で触れている感触をもららしているもの、そのものの名前であることを理解するのです。

「言葉」と「もの」が一対一でつながった瞬間です。ヘレンが「言葉」を発見したのです。そこから「感情を超えた意識の世界」が目覚め始めたのです。

そして、これはヘレンだけの問題ではありません。子どもは体験と共に言葉を覚えることで、心が育ち始めるのです。体験抜きの言葉を山のように覚えても、心は育たないのです。
他の人とのコミュニケーションも出来ません。






Last updated  2020.09.10 09:38:25
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2020.09.09
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昨日、テレビを見ていたら箱根の富士屋ホテルの建物や歴史を紹介している番組をやっていました。昔からある有名なホテルなので、様々な有名人も訪れていたのですが、壁にはヘレンケラーやチャーリー・チャップリンの写真が飾ってありました。

みなさん、ヘレンケラーのことはご存じですか。ウィキペディアには以下のように書かれています。

1882年 - 1歳半の時に高熱(現在では猩紅熱と考えられている)に伴う髄膜炎に罹患する。医師と家族の懸命な治療により一命は取り留めたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなった。そのため両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。
1887年(7歳) - ヘレンの両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、ベルの紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。サリヴァンは小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はすでに視力があった)、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンはあきらめかけていた「話すこと」ができるようになった。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。


「奇跡の人」というタイトルで何回か映画にもなっています。昔、私が見たのは多分1962版のものです。youtubeでその一部を見ることが出来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=UXCpr6fmSFg

皆さん、子育てに悩んでいらっしゃいますが、でも、ほとんどの場合皆さんのお子さんは、ちゃんと見えて、ちゃんと聞こえていますよね。でも、ヘレンケラーはその「見る」「聞く」自体が出来なかったのです。

皆さんだったら、自分の子どもの目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、それ以外にも知的な障害などを持っていたらどうしますか。
多分、今やっている子育ての方法、仕付けの方法の全てが使えなくなってしまうでしょうね。

子どもに何の異常もなく、見えていても、聞こえていても、知的な障害がなくても、仕付けや子育てが思い通りにならなくて苦しんでいるのに、それらのどれか一つでも欠けている子どもをどう教育したらいいかなど分かりませんよね。

(最近は思い通りにならない我が子を「障害があるのではないか」と疑る親も多いようです。また、幼稚園などでもただ単に、扱いにくかったり、聞き分けが悪い子を「障害のある子」として扱おうとするケースも増えて来ているように感じます。「みんなと一緒」が出来ないだけで「発達障害児」に分類されてしまうのです。

そこにあるのは「思い通りにならない=障害があるのではないか」という短絡的な発想です。それは、大人の「自己中心的なものの考え方」から生まれています。

それは例えば、日本語が分からない相手に日本語だけで説明して、相手が理解出来ないと「この人、障害があるのではないのかしら」と判断してしまうようなものです。
相手が理解出来ない原因は自分の方にあるのに、それに気付かないのです。そして今、そういう人が増えて来ています。

その結果、全体としての子どもの数は減っているのに、そのような「特別な子」を扱うクラスや学校は数が足らない状態になってしまっています。

でも、サリバン先生は子どもの言葉に自分の言葉を合わせたのです。だからサリバン先生の意思や思考や感覚をヘレンに伝えることが出来たのです。

でも、一般的にはこのような場合は、アメとムチで動物のように調教しようとしてしまいます。やって見せても、言って聞かせても通じない相手ですからね。

でも、調教のような子育てを受けた人は従順にはなったとしても、精神的に自立することが困難になってしまうのです。

それに対して、ヘレンはサリバン先生によって自分なりの言葉を得、精神的な自立と、豊かな心と知性を得ることが出来たのです。

そして、障害を持った子を相手に教育をしてそこから教育の本質を感じ取った教育家は、サリバン先生だけではありません。

実は、「シュタイナー教育」を始めたR.シュタイナーも、「モンテッソーリ教育」を始めたM.モンテッソーリも、その原点は障害児教育なんです。
彼らは、ちゃんと見ることも、聞くことも、考えることも困難な子どもととの関わり合いを通して、人間の成長の本質に気付いたのです。

そして、ちゃんと見ることも、聞くことも、考えることも困難なのは、障害児でなくても、幼児はみな似たような状態ですよね。
それなのに多くのお母さんが「やって見せれば分かるだろう」、「言って聞かせれば分かるだろう」、「考えさせれば分かるだろう」という子育てをしているのです。

でも、それが子育てや教育における問題と苦しみの原因なんです。

子どもは大人と同じようには見ません。大人と同じようには聞きません。大人と同じようには考えません。それは障害があるからではなく、それが子どもの自然な状態だからです。

その問題を乗り越えるためには子ども自身から学ぶしかないのです。大人の理解の仕方を子どもに求めるような子育てや教育では、子どもが育たないのです。






Last updated  2020.09.09 08:57:15
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