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昨日は“心を込めて丁寧に手を使って下さい”と書きました。
でも、現代人の生活の中からこのように“心を込めて手を使う”ことが消えてしまいましたね。 ちょっと前までは、みんな日常生活の中でも“手仕事”を普通にやっていましたから、“心を込めて手を使う”体験は誰でもやっていたわけです。 子どもたちはお手玉、けん玉、工作という遊びを通して手の使い方を学んでいました。自分の頭と、感覚と、手先だけで竹ひごを作るところから凧やゴム動力飛行機を作っていたのです。 竹とんぼも昔は子どもたちが自分たちで作っていたのです。 時々やって来て立ち話をしていく「ものみの塔」の男の人(塾の先生で、雑談だけして帰っていきます)も、昔は竹から“竹ひご”を作り、それで“鳥かご”を作ったと言っていました。 先日、茅ヶ崎で「冒険遊び場」をやりました。 その時、私は“弓矢”と“竹とんぼ”の工作を子どもたちに用意していきました。 それで、竹とんぼの作り方を子どもたちに教えようとしたのですが、“ナイフ”は使ったことがない、中心(重心)の調べ方も分からない、“バランス”ということが理解できない子どもたちばかりだったので、あきらめました。 (集まった子どもたちの年齢が低かったということもあるのですが・・・。) それで、最初の3人だけはほとんど私が作ってあげて、そこで竹とんぼ作りは閉店にしてしまいました。 今では、作るどころか飛ばすことさえうまくできない子もいっぱいいます。 ナイフを使う時には手先に集中します。そうしないとケガをするからです。 そして、昔の子はそのような体験を通して自然に手先の使い方を学んでいたわけです。 ちなみに、私が4年生くらいの時までは鉛筆はナイフで削るものでした。「肥後の守」というナイフも持っていましたが、「ボンナイフ」というものもあって、普段はそれで鉛筆を削っていました。 私は上手でしたよ。断面積が正六角形になるようにきちんと削れました。 大人の人も、裁縫は普通にやっていました。セーターは小さくなったりするとほどいてまた編み直していました。 ほどく時に、両腕に毛糸を絡めていくのは子どもの仕事でした。 また、着物をほどいて、洗って、板にはって乾かして、また縫ってという作業もやっていたようです。私が子どもの頃、洗った反物を板に貼って乾かしていた風景を覚えています。 昔の人は手を使うことが“苦”ではなかったのです。 でも、現代人はどうも手を使うことが苦手なようです。 そして、子どもたちは苦手どころか、手が使えなくなってしまっています。 ひもも結べない、輪ゴムもつなげない、弓矢も飛ばせない、竹とんぼも飛ばせない子どもたちがいっぱいいるのです。 もちろん、ノコギリもトンカチも使えません。 ナイフどころじゃないのです。 トンカチなんて、クギの頭を叩くだけだから簡単だろうとお思いでしょうが、でも、その簡単なことができないのです。 多くの子が、トンカチを渡すと、先っちょの鉄に近いところを持ちます。 そうでないと、叩いてもクギに当たらないからです。 また、当たっても真っ直ぐに振り下ろせないので、クギが曲がってばかりいます。 なんべん、教えても真っ直ぐに振り下ろせないのです。 そして、そういう子どもたちは手先を使わせるとすぐに“疲れた”と言います。 確かにちゃんと手が使える子もいます。でも、少数になりつつあります。 そんな子どもたちの状況に“ぶきっちょでもいいじゃないですか”と思っている人も多いように感じます。 実際に、日常生活には困らないわけですから。 でも、“手が使える子”と“手が使えない子”とでは他の能力にも違いがあるように感じるのです。 これは私の個人的な印象ですが、簡単に言うと“手が使える子”は言葉が使えるのです。だから、そういう子とは話が通じるのです。 でも、“手が使えない子”とコミニケーションを取るのはなかなか難しいのです。 うまく“言葉のキャッチボール”ができないのです。 私は、手の感覚には言葉とつながる働きがあるように感じるのです。 ですから、豊かな手の感覚を持った人は、豊かな言葉の感覚を持ち、また豊かな言葉の感覚を持った人は、豊かな手の感覚を持っているように思うのです。 (“おしゃべり”ということではありませんからね。) 皆さんの周りの人をご覧になって下さい。 どうでしょうか。そんな風に感じられないでしょうか。 (ただ、ある種の障害を持った子は、こだわりが強いため非常に器用なことがあります。でも、それは学習によって得た器用さではないので、応用は利かないみたいです。) 補足) 友人のかめおかさんより、自分も不器用だったとのコメントが入りました。 でも、彼女は今言葉に関係する仕事をしています。(演劇) ですから、“不器用=言葉が苦手”ということではないようです。 でも、私自身の感覚を調べていくと、どうも言葉を使う時と、指先を使う時とでは同じ感覚を使っているように感じるのです。 皆さんのご意見もお知らせ下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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