2011/04/17(日)08:10
「原発を止める方法」(今こそ文化の再生を)
最近、「私たちはこんなに電気を使わなくても、便利な生活でなくても生きていけるのではないか」という言葉をよく聞きます。原発の事故をきっかけにして人々の意識に変化が起きようとしているのかも知れません。
でも、私はそんなに簡単に変化は起きないと思っています。
人間は、「今まで必要だったもの」、「今まであこがれだったもの」、「今まで依存してきたもの」をそんなに簡単に捨てることなど出来ないからです。
それは、ゲーム機に夢中になっている子にゲームを止めさせるようなものです。「ゲームなどなくてもいい」と考える子は、最初からあまりゲームにのめり込んでいない子です。だから、なくなっても大丈夫なんです。
でも、思いっきりゲームに依存してしまっている子は決してゲームを手放しません。ゲーム不要論者がいくら「ゲームは子どもの成長に悪影響を及ぼすから」と説得しても、ゲームに夢中になっている子や大人はその言葉を「自分たちへの攻撃」と受け取り、よけい頑なにゲームにしがみつきます。そういう人にとってはゲームこそが自分たちのアイデンティティーだからです。
「親」という子どもにとっては権力者である存在が必死になっても、子どものゲーム依存を止めさせることは出来ません。それなのに、ゲームよりも遙かに多くの利点を持ち、もっと私たちの生活の基盤になってしまっている電気や、便利な機械類や、安全な生活を止めさせることが出来るわけないのです。
じゃあ、ゲームに夢中になっている子をゲーム機から引き離すためにはどうしたらいいのかということです。
それは、生活の中にゲーム以外の遊びや、人と人がつながることの楽しさ、気持ちよさを取り入れ、子どもの興味をゲーム以外のものにも向けてあげることです。
それは、ゲームに夢中になっている子は、心の深いところでは孤独だからです。これは、電気や科学に依存している人達も同じです。便利な科学文明は人を孤独にするのです。そして、孤独だからますます依存するようになるのです。
その際、「否定」や「対立」によって相手を変えようとするのは逆効果です。孤独な人間は必死になって自分を守ろうとするからです。そして、逆に攻撃してくるでしょう。
電気や科学文明に依存している人達が反撃してきたら、「もっと自然に即して生きよう派」は間違いなく負けます。なぜなら、日本の場合は、権力の中枢にいるのも、また社会の多数派も彼らの方だからです。
つまり、「対立」という方法では何も変えることが出来ないということです。
また、別のやっかいな問題もあります。
空気や水の汚染が広がると、なぜか空気や水をきれいな状態に戻そうとするのではなく、空気清浄機や浄水器を作ることでその状態から逃れようとします。
それはつまり、空気清浄機や浄水器の会社が生まれ、そこに新しい経済が発生するということです。簡単に言うと、空気や水が汚れると、経済は豊かになるのです。
人と人のつながりが切れてくると、人々が孤独でも寂しさを感じないようにゲーム機や様々なものが開発されます。
ネットやネットゲームなどはその象徴です。ネットの世界では孤独な人間が擬似的につながりを得ることが出来ます。ですから、孤独な人ほどネットの世界にのめり込みます。そしてネット産業はますます豊かになります。
リアルに触れ合うことが出来ないつながりは、「ガラス越しのキス」のようなもので、欲望が部分的に満たされるが故に、かえって余計に孤独が深くなるのです。
経済はよっぽどしっかりとした理念の元にコントロールされないと、人を不幸にする道具になってしまうのです。なぜなら、近代的な経済システムでは、人が不幸になればなるほど新しい需要が生まれて、経済は豊かになるからです。
そして、この流れは逆戻り出来ません。なぜなら、逆戻りは、経済的破綻を意味するからです。空気清浄機会社や、浄水器会社の社員を路頭に迷わせることになってしまうのです。
じゃあどうしたらいいのかというと、それはゲーム漬けになっている子どもをゲームから引き離す場合と同じです。
生活の中に経済や科学文明に依存しない喜びや、楽しさや、人と人がつながる心地よさを取り入れ、みんなの興味を経済や、お金や、便利さ以外のものにも向けてあげることです。そのことで、科学や経済に対する習慣化した依存から抜け出すことから始める必要があるのです。
実は、そこで必要になるのが「文化の再生」なんです。
近代的な科学文明、経済社会は、それまで何百年と受け継がれてきた「文化」をあっという間にズタズタにしてしまいました。
ちなみにここで言う「近代的経済」とは「大量生産と大量消費によって支えられている経済」のことです。
人間は科学的な文明を持たなくても、近代的な経済社会などなくても、親から子へと受け継がれてきた「文化」さえ持っていれば、人間らしく生きることが出来ます。
実際、産業革命が起きる前までは、人々の生活を支えていたのは「消費経済」でも「科学」でもなく、「必要なだけを作って売る経済」と、人々の喜びを支える「文化」だったのです。
世界には、つい最近までそのような生活をしている人達がいっぱいいたのですが、20世紀後半に入ると、ものすごい勢いでそのような人々の中にも「近代的経済システム」や「科学文明」が入り込み始めました。
その結果、もともと国としての形態を持っていない人々、国という概念を持っていない人々はあっという間につながりや文化も喪失し、奪い合いを始めました。それまで平和に共存していた人々や部族の間に戦いが始まりました。そして、今でもその戦いは続き、多くの人が死んでいます。
だからといって私は単純に経済活動や科学文明を否定しているわけではありません。そうではなく、そういうものは、しっかりとした「理性」や「哲学」のもとにコントロールされるべきだと考えているだけです。
けっして「欲望」に支配させてはいけないのです。