森へ行こう(心とからだと子育てと)

2011/11/03(木)09:33

「人を助ける心」(“個人としての能力”と“社会人としての能力”)

人間がちゃんと仕事をして、ちゃんと社会人として自立して生きていくためには「個人としての能力」と「社会人としての能力」の二種類の能力が必要になります。 この二つはその質において異なるものです。そして、お互いに補い合うように働くものです。 でも、現代人は子育てや教育で育てるべきなのは「個人としての能力」だけだと思い込んでいます。 早期教育と呼ばれるものも、その対象は「個人としての能力」だけです。 だからみんな一生懸命になって子どもの「個人としての能力」を育てようとしています。様々な塾に通わせるのもそのためです。 それは、この社会の仕組みが「個人としての能力」が優秀な子どもの方が有利になるように出来ているからなのでしょう。 でも、「個人としての能力」が有利に働くのは、いい学校に入るまで、いい会社に就職するまでのことです。 どんなに成績優秀でも、同じレベルの子どもたちが集まる学校の中では、「個人としての能力」はそれほど有利に働きません。それどころか、「個人としての能力」しか育っていない子は孤立してしまうでしょう。そして落ちこぼれていくでしょう。 「個人としての能力」が似たようなレベルの集団の中では、「社会人としての能力」が高い子の方が有利になるのです。 これは会社に入ってからも同じです。 研究者やプログラマーのように「個人としての能力」だけが特別に重要視される職種でない限り、就職した後、その集団の中でうまくやっていくためには「社会人としての能力」が必要になります。 研究者やプログラマーといった職種の人でも、「社会人としての能力」が欠如している人は、ただ道具として使われるだけで、その集団の中で出世していくことは困難だと思います。 さらに、夫婦生活や子育ての場では「個人としての能力」は全く意味を持ちません。自分のパートナーに自分の能力を見せつけても、離婚が早まるだけです。本来、「夫婦という関係」は、競争する関係ではなく、助け合う関係だからです。 そして、その「助け合う能力」は「個人としての能力」ではなく、「社会人としての能力」に属するものなのです。 個人と個人の競争に勝つためには「個人としての能力」が高い方が有利です。でも、一人の人間として幸せに生きていくためには、「個人としての能力」よりむしろ「社会人としての能力」の方が必要なのです。 また、「社会人としての能力」が高い人が多くいる集団ほど「集団としての能力」は高くなります。 全員「東大卒」の社員ばかりでも、「社会人としての能力」が育っていない人ばかりの集団なら、「集団としての能力」は低くなってしまうのです。 ですから、企業としてはただ単に「個人としての能力」が高い人ではなく、同時に「社会人としての能力」も高い人を選びます。 でも最近、その「社会人としての能力」が育っていない若者が非常に多いのです。 大学に入っても「友達が出来ないから」という理由で退学してしまう若者が多くいるそうです。 トイレにこもって、一人でお弁当を食べる若者も珍しくないようです。 お母さん達に「子どもの仲間作りはお母さんの仲間作りからだよ」というと、「私はそういうのが苦手なんです。だから子どもの仲間だけ作ってあげたいのです。」と答えるお母さんも結構います。 公園で「ママ友」を作っても、そのつながりが表面的なので、お互いに縛り合うばかりで息苦しくなります。でも、「子どものために」と頑張っているお母さんも多くいます。 最近、悲惨な事件を起こした犯人を捕まえたら、周囲の評判としては「真面目でよい子だった」ということがよくあります。 学校に行けなくなってしまった子、引きこもりになってしまった子も同じでしょう。 学校が嫌いでも、仲間がいて、仲間の中に自分の居場所があれば、勉強はしなくても学校だけは行くものです。そしてその「仲間を作る能力」が「社会人としての能力」でもあるのです。 ただし、私はそのような若者やその親を責めているわけではありません。子どもは単なる被害者です。 そして、親にしても、社会全体の価値観があまりにも「個人としての能力」を育てることだけに偏ってしまっている中で、我が子にだけ「社会人としての能力」を育てようとするのは非常に困難なことです。仲間づくりをさせたいと思っても、みんなが塾や○○クラブで忙しくしていたら、仲間づくりは困難です。 友人の子は友だちを求めて自転車で公園巡りをしたそうですが、公園で遊んでいる子がほとんどいない状況のようです。 さらには、そういうものが必要だということすら知らない人がいっぱいいます。 それで私は我が子の子育てを、自分自身の仲間作りと平行して始めたのです。それが先日写真をお見せした「冒険クラブ」であり、「詩とお話で遊ぶ会」であり、その他様々な活動なのです。 では、その「社会人としての能力」とはどのようなものか分かりますか。それは簡単に言うと「助け合う能力」のことです。 コミュニケーション能力などはそのための道具に過ぎません。そして、道具の価値は使用目的によって決まります。 社会は契約や義務だけでつながっているわけではありません。そんなものは人と人のつながりの中ではほんの一部であり、例外的なつながりです。 本当に生き生きとしている集団は、お互いに助け合うつながりによって支えられているものです。これは、家族でも、地域でも、趣味のグループでも、その他様々な集団において共通した原理です。 それこそが「社会人としての能力」の基礎なんです。 そして、これは仲間との遊びの中でしか育たない能力なので、親や大人は教えることが出来ません。 「友だちに優しくしよう」と教えても、それだけでは実際に優しくできるようにはなりません。それは、現実の仲間との関わり合いの中で、ケンカしたり、優しくしたり、されたりという体験の中で学んでいくしかないのです。 昔の「わらべうた」などの遊びは、幼い子どもの「社会人としての能力」を育てるためには非常に効果的です。 だから、逆に「社会人としての能力」が育っていない子どもたちは全く「わらべうた」で遊ぶことが出来ません。 輪になることも、手をつなぐことも出来ないのですから。 ちなみに、うちの四人の子どもたちはみんな周囲の大人達に非常によく可愛がられています。私のつながり以外の場でも、多くの人に助けてもらっています。 上の二人は、社会人になってからも周囲に助けてくれる人がいっぱいいるようです。それはうちの子どもたちはみんな「人を助ける心」を持っているからなのでしょう。 親としてはそれが一番安心です。 ただし、家の仕事はあまり手伝いませんけど・・・・。 それと「社会人としての能力」が育った後でも、「個人としての能力」を育てることは出来ますが、その逆はなかなか困難です。

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