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現代人は「言葉」について大きな勘違いをしています。
それは「言葉」を単なる「コミュニケーションの道具」だと思い込んでいることです。 そして、コミュニケーションの道具だから、「コミュニケーション」で伝えることも出来ると思い込んでいます。 「リンゴ」という言葉を教えるためにはリンゴを見せて、「これがリンゴだよ」と教えれば済むと思っています。 確かに、そのように学んだ言葉でも、それなりにコミュニケーションの道具としては使うことが出来ます。 「リンゴを買ってきて」とか「リンゴジュース」という言葉も理解できるでしょう。そして現代人は「言葉とはそういうものだ」と思い込んでいます。 でも、この場合の「リンゴ」は、「言葉」ではなく、「リンゴ」というものを指し示すための「記号」に過ぎません。ですから、「リンゴ」ではなく「A301」でも同じです。 リンゴを見せて、「これはA301だよ」と教えても、そこには何の違いもありません。「A301を勝ってきて」と言えばちゃんとリンゴを買ってくるでしょうし、「A301ジュース」といえば「リンゴジュース」だということを理解するでしょう。 でも、この場合の「リンゴ」は「言葉としてのリンゴ」ではありません。 そもそも、皆さんが今お読みなっているこの「文字」も本来の意味の「言葉」ではないのです。 文字は「言葉」を記録するために作り出された記号に過ぎません。ですから、「文字=言葉」ではないのです。 実は、私たちの脳は、「文字」をいちいち「言葉」に変換して理解しているのです。脳は「文字」のままでは理解できないのです。 実際、ある種の障害によって「文字」を「言葉」に変換できない人たちがいるのです。そのような人は文字を読むことが出来ても、読んで理解することが出来ないのです。でも、同じ文章を人に読んでもらえば理解することが出来るのです。 そして障害がなくても、7才前の幼い子どもたちはみなそのような状態です。「言葉<->文字」という変換機能が未成熟なのです。(発達には個人差がありますから7才前後と言うことです。) その辺の機能がしっかりとしてくるのが7才を過ぎてからです。だから7才を過ぎるまでは文字を教えない方がいいのです。 確かに、7才前の子どもでも教えれば「文字」を書いたり読むことが出来るようにはなります。でも、文字を読んでも「言葉として」理解することが出来ないのです。 大人の常識としては理解しにくいかも知れませんが、大人に読んでもらえば理解できるような文章でも、幼い子どもは文字を通してでは理解できないのです。また、そのような作業は幼い子どもの脳に大きな負担になります。 人間にとって「言葉」はその生命の働きとつながった本能的、本質的な要素ですが、「文字」はその「言葉」の道具として発明された人工物なのです。 ですから、「文字」がなくなっても「言葉」は残りますが、「言葉」が消えてしまったら「文字」も消えてしまいます。 「文字」を教えるためには「言葉」が必要だからです。「言葉」だけで「言葉」を教えることは出来ますが、「文字」だけで「文字」を教えることは出来ないのです。 「言葉」は「文字を超えた世界」なのです。それが「言葉の世界」です。 でも、現代人は「文字を超えた言葉の世界」の存在が理解できなくなりつつあります。それは、現代社会が「言葉」ではなく「文字」によって機能しているからです。 でも、「子育て」や、「夫婦関係」や、「仲間作り」において重要なのは、何万年も前と同じように、「文字」ではなく「言葉」なのです。 実際、そのような場では「文字」はほとんど役に立ちません。子育てにおいては全く役に立ちません。 でも、「言葉の世界」を失ってしまった人は、子どもにどのようにして「言葉」を伝えたらいいのかが分からないのです。 だから、「言葉」を教える代わりに「文字」を教えようとします。言葉の道具として生まれた文字を、言葉よりも先に教えようとしているのです。 また、親子の間の言葉も「文字化」(記号化)しています。言葉が「言葉」として語られていないのです。 その結果、本来「言葉の育ち」を通して育つはずの「心」や、「からだ」や、「知性」が育たなくなってしまっているのです。 「言葉」は共有されるところから始まります。 赤ちゃんが「あー」と言った時、お母さんも「あー」と応えるのが「言葉の原点」です。 共有することが出来るから、伝えることも出来るのです。 でも、文字は共有できません。 *********** 「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。 ですから「詩」こそが「言葉の原型」なのです。 そしてだから、子どもの言葉は「詩」のようであり、また、言葉を得た古代の人たちはすぐに「神」について語り出したのです。 R.シュタイナーの言葉も、聖書の言葉もまた「内的な世界」を伝えるためのものです。でも、現代人はその言葉を「外的な言葉」を理解するように理解しようとしてしまいます。 そのような理解の仕方しか知らないからです。 だから話がおかしくなってしまうのです。 ************ 「言葉の世界」はそのままの状態では文字化できません。その文字化できない世界を説明するのはなかなか困難です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
心理学用語にレディネスという言葉があります。
つまり、子どもの中に芽生える知りたいという欲求です。 文字もそれに該当すると思います。 私は子どもが赤ちゃんの時から、絵本を一緒に楽しんでいました。 字のない絵本、少し字がある絵本、そして文字のある絵本と 順番があります。 子どもはいつか、その文字に関心が行くのです。 そして「これはなあに?」と疑問を持つ時が来るのです。 我が子においては、なん語から言葉の獲得も早くて、その分だけ文字に気がつくのも早かったと思います。 その時に、発声と言葉を繋ぐと子どもは文字という概念を 獲得するということではないでしょうか。 問題なのはその準備もない時に、親が教え込むことが 一番厄介なのだと思っています。 (2012.09.03 12:45:19)
みっこさん
>問題なのはその準備もない時に、親が教え込むことが >一番厄介なのだと思っています。 ----- そうです。 子どもが「これなんて読むの」と聞いてくることに答えることはOKです。 それは文字の勉強がしたいわけではなく、文字に対する単純な好奇心だからです。 私が「やめた方がいい」と言っているのは、子どもが聞いても来ないのに教えようとしたり、子どもの興味以上のことを教えようとしたり、自分一人で本を読ませようとしたりすることです。 一般的にお兄ちゃんやお姉ちゃんのいる子の方が早く興味を持ちます。 でもこれは自然なことです。 その時は、「聞かれたら答えてあげる」という対応でいいと思います。 (2012.09.03 14:08:11)
森の声さん
>その時は、「聞かれたら答えてあげる」という対応でいいと思います。 > ----- 文字を教える時は「記号」ではなく「絵の仲間」程度の意識で教えてあげるといいとおもいます。 (2012.09.03 14:10:23)
私も息子に対して「文字の教え込み」はしてきませんでした。
本人が文字に対して「知りたい」「読みたい」と感じるまでその最初味わう感覚、大切な芽を積む事はしたくありませんでした。 年長になって、クラスの子供達を見ていると、ほとんどが字を書けるようになっている感じでした。 幼稚園から母の日に「ままありがとう」と書いた手紙が来ましたが、明らかに書かされた感じのもので、なんというか・・・。 息子は自分の名前と毎日繰り返し使っている親しい言葉や好きな言葉「まま」とか「もも」とか・・・書くのはその程度です。最近、「自分は(他のみんなは結構読んだり書いたりしているのに)まだ読めないの」と言ってくることがありました。 私は気にしていないけれど、本人は「なんでなんだろう」って気持ち、やっぱりあるのかもしれない。まわりのみんながすらすら本を読んでたら、変な気持ちになるかもしれない。 なんで大人たちが子供たちの育ちの自然の流れにのってくれないのかなって思います。 すらすら読んだり書けたりする子は、やっぱり幼児向けの教材を購入していたり(しまじろうとか)、お勉強の教室に通ったりしているみたいです。 教材も、なんの苦にもならないで覚えられてしまうような、オモチャ感覚のものも沢山ありますしね。 私は、息子はまだまだ「本を自分で読んでみたい。文字が知りたい。」そういうところに全く達してない感じなので、このままのんびりいきたいです。今はまだ、私が絵本を読む時の音とか雰囲気とか、その音を聴いて物語に浸っていることが心地よいように見えます。「言葉」が、今は本人の世界の中でどんなものなんだろうなぁと想像すると楽しくなります。 それに、息子を見ていると(もうじき6歳ですが)このままの感じでいくと、やっぱりちょうど7歳くらいになったら、きっとスポンジに急に水が入るように、文字を習得しだすのかなって感じます。感覚的にそう感じるので、「なんでそう思うの」と言われたら、「だってずっと息子を見てきて、なんだかそう感じる」としか言えませんが。 (2012.09.03 15:09:27)
マシュマロさん
>やっぱりちょうど7歳くらいになったら、きっとスポンジに急に水が入るように、文字を習得しだすのかなって感じます。 7才前の子でも「字」に興味を持つことはあります。 でも、「文字を学びたい」と思う子は滅多にいないと思います。 「字に興味を持つ」ということと「文字を学びたいと思うこと」は同じではありません。 でも、7才を過ぎると「文字を学びたい」と思うようになるのです。 それは「文字」というものを認識できるようになるからです。 それまでは「字」に対する興味だけです。 ちなみに「文字」は「言葉」とつながっていますが、「字」は「絵」とつながっています。 ですから、幼い子どもが書く「字」は「絵」のようです。 (2012.09.03 21:35:41)
昨日の記事に関しての質問ですが、良いでしょうか?
「「虐待」とは「言葉を封じること」」の一文を見て、自分が母親にされて来たことも虐待と言えるのかも?と思えまして・・・。 小さい頃から母親が絶対で、母親も認める「良い子」でした。母親に身体的虐待をされた記憶もなく、手をかけて育ててもらったと思っています。 ですが、母親のために生きているような人生、早く終わらせたい・・・と常に思っておりました。 結婚を機に、旦那の手を借りて、絶縁状態になり、5年ほど経っています。 今の心境に達するまで、大変でしたが、正直、毎日の生活は幸せです。「人生早く終わらせたい」などという気持ちとは無縁に生きています。 ですが、時折、母親のことを思い出し、罪悪感がよみがえります。「いっそ、虐待でもされていれば、母親のことをスッパリ諦められるのに・・・」などと考えます。 なので、自分の気持ちを納得させたいという一心なのですが、森の声さんに、「それは虐待だよ」と言っていただきたいような気持ちになりまして。。 簡単に断言していただけるとは思いませんが、何かコメントいただけないでしょうか。。 (2012.09.03 22:23:58)
長男は、3月生まれで、6歳になってすぐ1年生になりました。
入学当初、自分の名前がやっと書けるくらいでしたが、今はかなり文字に対する興味が出てきて、いろんな場所の文字(ひらがなカタカナ)を音読しています。 文字が書けるようになったら、それまでずっと好きだったお絵かきが、あまり好きではなくなり、字ばかり描くようになりました。 あんなにのびのび描いていたのに・・・と、親としては少し複雑です。 そして、小さいうちに無理に字を教えなくてよかった、絵の世界にぎりぎりまで住まわせてあげられてよかったと感じています。 (2012.09.03 22:42:48)
いしちゃんさん
>なので、自分の気持ちを納得させたいという一心なのですが、森の声さんに、「それは虐待だよ」と言っていただきたいような気持ちになりまして。。 私は基本的に、今現在「子育て中のお母さんたち」に向けて、「言葉を封じるような子育ては虐待なんだよ。そのことに気付いて・・・。」という気持ちで書いています。 ですから、「いしちゃん」が過去に受けた子育てが「虐待かどうか」は判断できません。 お母さんの気持ちが分からないからです。 ただ、「虐待と同じような状態であったのだろう」ということは推測できます。 また、「苦しかったのでしょうね」ということも分かります。 でも、それが「虐待」であったかどうかは分かりません。 一度、お母さんに直接「苦しかった」ということを伝えてみてはどうでしょうか。 その時、「あんたの気持ちなんかどうでもいいの」という反応が返ってきたら、虐待だったのだろうと思います。 「そう、分からなかったわ、苦しかったのね。ごめんなさい」という反応が返ってくるなら、虐待ではなかったのです。 気質が違うと気持ちの理解が出来なくなるため、そのような誤解が生まれることもあるのです。 (2012.09.04 16:38:31)
プクプクさん
>文字が書けるようになったら、それまでずっと好きだったお絵かきが、あまり好きではなくなり、字ばかり描くようになりました。 そういう子はいっぱいいます。 絵への興味はファンタジーの世界とつながっているのですが、どうも「文字への興味」はそのファンタジーの世界と対立するようです。 (2012.09.04 16:42:02)
と、言うのであれば、長々と文字で綴る必要性あるんでしょうか?
(2012.09.08 01:06:52)
ぬまさん
>と、言うのであれば、長々と文字で綴る必要性あるんでしょうか? > ----- ネットの世界は「文字の世界」ですから。 「文字」では扱うことが出来ない世界もありますが、「文字」でしか扱えない世界もあるのです。 (2012.09.08 05:51:35) |