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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2012.09.05
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今の子どもたちは雑巾を絞るのが苦手です。

「雑巾を絞って」と言うと、似たような行為はするのですが、全然絞れていないのです。

それはつまり、「絞る」という言葉の正確な意味が分かっていないということです。

この「正確な意味」が分かっていないと、「気力を振り絞る」、「声を振り絞る」などという言葉が理解できません。

このような身体感覚とつながった言葉は、映像で見せても、言葉で説明しても、大人がやって見せても伝えることが出来ません。

本人にやらせてみて、ちゃんと出来ているかどうかチェックすることでしか、この言葉の意味を伝えることが出来ないのです。

子どもに「雑巾を絞って」と言うと、見かけ的には「絞るような行為」をします。テレビを見たり、お母さんのやっていることを見たりしてその程度の意味は分かっているからです。

でも、ベチャベチャで全然絞れていません。

そこで「もっと絞って」と指示します。すると、前よりも水が出てきます。
でも、まだまだベチャベチャです。

そこで「もっと力を入れて」と言います。すると、もっと頑張って絞ります。

でも、そこでやめさせずに、子どもが「もうこれ以上無理です」と言うまで絞らせる時、初めて子どもは「絞る」という言葉の「感覚的意味」が分かるのです。

そのような、「感覚的意味」は実際に自分でやってみないことには理解できないのです。

その「感覚的意味」が分かるようになって初めて、「声を振り絞る」とか「気力を振り絞る」という言葉の意味が感覚的に分かるようになるのです。

そして「自分の言葉」として使うことが出来るようになるのです。

「拭く」「払う」「抱く」「丁寧に」「心を込めて」「そーっと」「力を抜く」「腰を据える」「気持ちを落ち着かせる」「姿勢を正しくする」などというような「心や感覚とつながった言葉」はみな同じです。

これらの言葉は、授業のような一方的な教え方では絶対に伝えることが出来ないのです。

確かに、その「感覚的意味」が分からなくても、「説明的意味」を伝えることは出来ます。そして「説明的意味」が理解できていれば会話には困りません。もちろん試験でも困りません。でも、「感覚的意味」を喪失した言葉は「母国語」ではないのです。

「母国語」とは、自分の心やからだの感覚とつながった言葉のことだからです。だからこそ感覚が成長する幼児期に学んだ言葉が母国語になるのです。説明できるだけでは「母国語」ではないのです。

そして、そのような言葉を身につけることで初めて、自分たちの祖先の心や、考え方や、生活様式や文化を受け継ぐことが出来るのです。そのための基礎を育てるのが、「7才まで」という時期でもあるのです。

子どもたちは感覚が成長する7才までに、その感覚の成長と共に言葉と出会うことで、「母国語」を身につけて来たのです。

その「母国語」を失った子どもたちは、自分の心や、からだや、感覚の状態を「自分の言葉」で言い表すことが出来ません。そのため、「ムカツク」というような簡単な言葉だけで、自分の感覚や、感情や、からだの違和感をひとくくりにして表現しようとします。

でもそれは、感覚に支配されているばかりで、まだ「言葉」と「感覚」がつながっていない幼稚園児の状態と同じなのです。7才までに「母国語」を学ぶことが出来ていないため、そのような表現しか出来ないのです。

「言葉の成長」と「心の成長」は密接につながっているのです。「心」が成長すれば「言葉」も成長するし、「言葉」が成長すれば「心」も成長するのです。

ですから、「言葉を失う」ということは「心を失う」ことと同じなのです。

だから、本当の意味での「日本」を守るためには言葉を守らなければならないのです。言葉が失われてしまったら、たとえ国土は残っていても、それはもう「日本」ではないのです。

日本人はあまりにも「言葉を守ることの大切さ」に対する認識がなさ過ぎるのです。だから悪意も感じず、時には善意で、平気で他国の人たちの言葉を奪ってきたのでしょう。

でも、「母国語」を失った後に残るのは「表現されることのない悲しみや苦しみ」と「本能的な欲求と感情」だけです。

(「母国語なんていらない」という考え方は、「自分は人間でなくてもよい」という考え方と同じです。あらゆる「人間的な心」は母国語とつながっているからです。)

そして今、「心」が成長していない子どもたちがどんどん増えてきています。

それは子どもたちの生活の中から「体験」と「言葉」が失われてしまったことから来る、必然的結果なのです。

「便利な生活」は「体験と言葉」を不要化し、「心の成長」を阻害するのです。

今の子どもたちと会話していて感じるのは、あまりにも語彙が少ないことです。また、言葉の使い方も日本語的ではありません。そのこと自体は、多くの大人が気付いていると思いますが、でも、そのことの問題点について気付いている人は多くないと思います。

そして、そのまま大人になってしまった人も増えています。

そのような人は幼稚園児のように自分中心にしか考えることが出来ません。ですから、助け合うことが出来ません。また、夫婦関係や子育てもおかしくなります。

離婚や虐待の増加の背景には「母国語の喪失」の問題が隠れているのです。





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Last updated  2012.09.05 11:43:46
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