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オンブや添い寝をするということは、「からだ」への働きかけであり、それは特に「無意識」の育ちに強く影響します。3才頃までの体験の多くが、この「無意識の育ち」につながっています。
そのため、この時期にどのような子育てをしても、子どもの意識的な記憶にはあまり残りません。 それで、「この時期には動物の仕付けのように厳しくしても、多少叩いても、無視しても、独りぼっちで寝かせても、親の都合を優先した子育てをしても、子どもの記憶には残らないから大丈夫」と考える人もいます。 でも、この時期に体験した「孤独」や、「哀しさ」や、「苦しさ」や、「不安」は、無意識の世界の中にしっかりと刻み込まれ、一生消えることがありません。 そして、その人の人生に大きな影響を与えています。 欧米の人の「個を大切にする生き方」は、この幼児期に作られた無意識の働きとつながっているのではないかと思います。 「個」の感覚は「孤」の感覚とつながっています。 日本人の「自他分離が困難な生き方」もまた同じです。 近代的な価値観では、「自他分離が困難な生き方」は否定されますが、欧米的な価値観以外の世界や、人間以外の生き物たちの世界の中では、むしろこっちの方が普通です。 自然界では一般的に、「個」よりも「群れ」の方が大切にされているのです。 欧米的な価値観は自然界では普通ではないのです。でもだから、欧米以外の世界に生きている人達は、基本的に「自然」と共存して生きていたのに、欧米の人達だけが「自然」の働きと対立するような「機械文明」を創り出すことが出来たのだろうと思います。 ですから、これは「良い」とか「悪い」という事ではありません。ただ、「人間は両方の生き方が出来る生き物だ」ということです。 でも、その自覚は必要です。 そうでないと、欧米的価値観の広がりと共に、人間はますます自然を破壊し続けることになってしまいます。でもそれは自滅への道です。 そこで、「意識への働きかけ」が必要になるのです。 「人間」のことしか知らなければ、「人間」のことを中心にした考え方しか出来ないでしょう。 でも、そんな「人間中心の世界」に生まれても、「自然のこと」や、「人間と自然のつながりのこと」を学ぶことで、「人間中心ではない考え方」も出来るようになるのです。 「無意識の働き」は「意識の働き」に強い影響を与えています。でも同時に、「意識の働き」の方も「無意識の働き」に強い影響を与えているのです。 そこに、「教育」というものの意味があるのです。 アリを踏みつぶして遊んでいる幼い子どもの行動は、衝動的、本能的なものです。それらは「無意識の世界」からやってくるものです。 ですから、その行為そのものを否定したり、叱ったりしても、子どもはその行動をやめません。強く叱れば親の前ではやらなくなるかも知れませんが、そのような衝動が消えたわけではありません。 そんな時、行為そのものを禁止するのではなく、「アリさんのお話」を聞かせて上げることで、子どもは「アリも仲間なんだ」というような意識が目覚め、無意味に殺したりはしなくなるのです。 これが、「意識の働き」が「無意識の働き」に働きかけるということであり、「学ぶ」ということの意味です。 「森の子育て」という考え方があります。 確かに、子ども達を森の中で育てる事で、子ども達の「無意識の世界」は豊かになります。それは豊かな人間性や創造性の源になるでしょう。 でも、そこに「大人からの学び」がなければ、子ども達の「意識の世界」が育ちません。そして、「意識の世界」が育たなければ「井の中の蛙」になるばかりで、近代的な社会の中で自己を実現させて生きて行くのは困難になってしまうでしょう。 これは森の中で育った子ども達だけの問題ではありません。近代的な幼稚園で、いっぱい勉強を教え込まれて育った子でも 「大人からの学び」をしていない子は「井の中の蛙」になります。 「知識を覚える」ということと「学ぶ」ということは本質的に別物なのです。 実際、100年前の子ども達はみんな森や野原といった自然の中で遊んでいましたが、みんなが「素敵な人間」に成長したわけではないですよね。 「学ぶ」という「プラスアルファ」が必要なのです。 と書くと、昨日書いたレイチェルカーソンの「“知ること”は“感じること”の半分も重要ではないのです」という言葉と矛盾するようですが、実は「学ぶ」ことが「感じること」への入り口なんです。 学校教育では「覚えて終わり」ですが、それが「感じること」へとつながる時「子どもの育ちを支える学び」になるのです。 それはテストなど出来るようなことではないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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