森へ行こう(心とからだと子育てと)

2015/10/09(金)09:33

「普通ってなあに」

教室で子どもたちが「紙が欲しい」「木が欲しい」と言うとき、それだけではどんな紙、どんな木が欲しいのかが分からないので、「何に使うの?どんな紙(木)が欲しいの?」と聞くのですが、ほとんどの子が「普通の紙」とか「普通の木」と答えます。 それで、色々な紙を見せて「これも普通の紙(木)だし、これも普通の紙(木)なんだけど、どういう紙(木)が欲しいの」と再度聞き直します。 すると、「こういう紙(木)が欲しい」とその中から選びます。 でも、その「一つ」を説明できずに、みんな「普通」と表現するのです。 これが私には不思議なんですが、子どもたちはこの「普通」という言葉をどこで覚えるのでしょうか。 世の中には「普通の紙」や「普通の木」なんてものは存在していません。 それはあくまでも「その人にとって普通」というだけの話であって、「客観的な存在としての普通」などというものはこの世界には存在していないのです。 もちろん「普通の子」などというものも存在していません。 でも、多くのお母さんたちが我が子に「普通」を求めています。「他の子と目立って異なっているところ」や、「お母さんに理解できない部分」があると、必死になってその部分を直そうとします。 学校の先生も同じです。 そしてそれがしつけであり、教育であるとも考えています。 確かに「成績が優秀」、「ピアノが上手」、「英語が話せる」などの「人よりも優れたところ」は求めていますが、でも、「人と異なっている」のは困ることだと考えています。 そこには「教え込む」という考え方はありますが、「育てる」という考え方がありません。 学校の先生たちも、教員の資格を得る際に「マニュアル化された教え方」は学んでいますが、子ども一人一人の気質やら個性やら性格などを感じ取り、それらに合わせた育て方を学ぶような教育は受けていません。 実際、日本の教育システムではそのようなことをしたいと思っても出来ません。 「この子は数学が好きだから特に数学を十分にやらせてあげよう」とか、「この子は歴史が好きだから歴史に関する色々な物語をいっぱい教えてあげよう」などということは出来ないのです。 それは、日本の教育の目的が「普通の大人」を育てることだからです。 だから先生たちは子どもたちを「普通という型」にはめたがるのです。 でも実際には、「普通の子ども」なんかこの世に存在しません。 だから子どもたちは、学校にいる時には先生が求める「普通」という型に合わせようと「自分」を抑えながら頑張っています。 ですから当然、自己表現などしません。そんなことをしたら「普通」ではなくなってしまいますから。 私は中学生の頃は本ばかり読んでいました。 休み時間にも外に出て行かずに部屋で一人で本を読んでいることが多かったです。 それで、ホームルームで「友達の良いところ 悪いところ」というテーマで話し合ったとき、「しのくんは休み時間も外に出ないで本を読んでいます。それは良くないと思います」などと言われました。 余計なお世話です。 それに対して、「育てる」という方法では、相手に合わせます。 リンゴを育てる時には、リンゴに合わせた育て方をします。 犬を育てる時には、犬に合わせた育て方をします。 普通、そうですよね。 だから、「太郎くん」を育てる時には、「太郎くん」に合わせた育て方をする必要があるのです。 それが「育てる」ということです。 でもそのためには、「太郎くんの物語」を感じる能力が必要になります。その能力があるから合わせることが出来るのです。 「気質の学び」はそのためのものでもあります。 「教え込む」という方法では「教え方」や「教える側の都合」ばかりが優先され、肝心の「子どもの育ち」という視点がありません。 ちゃんと教えているのに、子どもの成績が上がらなければ、それは「子どものせい」なんです。 でもそのような考え方では子どもは育ちません。 ただ、人の評価や顔色ばかりを窺うような大人になるばかりです。

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