2016/05/24(火)14:09
「しつけとは何か、何のためにするものか」(人間らしさを育てる)
昔々、スフィンクスという怪物が、自分の所を通ろうとする旅人に難問を出していたそうです。
それは、
「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。 その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」
というなぞなぞで、それに答えることが出来ない旅人は食べられてしまったそうです。
これは有名ななぞなぞですから、皆さんも答えはご存じでしょう。
それは「人間」です。
赤ちゃんの時には四つ足(ハイハイ)で歩き、やがて二本足で歩き、老人になると杖をつくようになるので三本足になる、ということです。
ただ、わたし的にはこのなぞなぞはまだ不充分な気がします。
乳児の時にはお母さんに抱かれて移動するので、四つ足の前に「無足歩行」の状態があります。
さらに、老人になって車いすを使うようになれば、また乳児と同じ「無足歩行」に戻ります。
そして、人間においてはこの過程は自動的に起きます。お母さんに抱かれたままの状態の赤ちゃんは、別段お母さんがしつけなくても時期が来れば自分の力でハイハイをするようになります。
また、ハイハイで歩いている状態の赤ちゃんは、厳しいしつけなどしなくても、時期が来れば立って歩くことが出来るようになります。
最初はよろよろ歩き、次にしっかり歩き、3才頃には走り回ることが出来るようになります。
そして、走り回ることが喜びになるようになってくると、次第にお母さんから離れていきます。
お母さんが無理矢理自立をさせようと仕付けなくても、からだがしっかりとしてくると、次の段階として自然と自立が始まるのです。
言葉もそのようにして自然に学びます。
最初は何も出来なかった状態の赤ちゃんですが、人間らしい扱いを受けているだけで、誰でもみんな自然に一人前の大人になっていくのです。
ただ、その時に忘れられがちなのが「自分で考え、自分の意思で活動し行動する自由」を与えてあげるということです。
人間の人間らしさの根幹はその「自由意志」の中にあるので、それを発揮できないような状態では、人間としての成長全般が滞ってしまうからです。
自分で考え、自分の意思で活動する行為が、子どもの意識や意思の育ちを促してくれるのです。
ですから、「しつけ」と称した束縛で、子どもをがんじがらめにしてしまったら、子どもは自らの意思で成長する力が萎えてしまうのです。
そうなると、手本や目標を求めなくなります。
周囲にどんなに素敵な手本があっても、自由を与えられていない子どもにはそんなもの意味がないのです。
そのため、「厳しいしつけ」が必要と思われるような状態になってしまうのです。
また、室内で、人工的なオモチャでばかり遊んでいると、からだの発育も遅れ、「自立のための意思や意識の育ち」も遅れてしまう可能性があります。
ちなみに、この場合の「からだの発育」とは、身長とか体重のことではありません。「生命力」や、「からだを使いこなす能力」のことです。
これが子どもの意思や意識の成長と密接につながっているのです。
おっぱいも、トイレも、時期が来たら子どもは自分の意思で卒業します。
でも、意思や意識の育ちが遅れている子は、お母さんへの依存が抜けないため、いつまでも卒業することが出来ないのです。
また、ちゃんと成長していても、その時期を待つことが出来ないお母さんもいっぱいいます。
だから、大人の都合に合わせた「おっぱいトレーニング」、「トイレトレーニング」が必要になるのですが、でも、無理をすると子どもとの信頼関係に悪い影響を与えてしまう恐れもあります。
一見、「しつけ」とは無関係に思われることですが、自然の中で走り回ったり、木登りしたり、仲間と一緒にコマを回したり、竹馬をしたり、大きな声を出したり、ゴロゴロしたりするような活動や、家の中でもハサミや包丁を使いこなすような能力が、おっぱいやトイレの卒業を促す力になるのです。
これを、行動を制御する「しつけ」だけで乗り切ろうとすると、次の段階もまた「しつけ」で対応しなければならなくなります。子ども自身の成長が伴っていないのでキリがないのです。
でも、成長と共に子どもは「しつけ」から逃げたり、あからさまに反発するようになります。そうなると「しつけ」という方法はもう使えません。
さらに困ったことに、そのように幼い頃から「しつけ」などでがんじがらめに育ってきた子ほど、不安が強く、自分をコントロールする能力は低いため、親の束縛が届かない状態では不安と欲望に振り回され、非常に困った状態になってしまうことが多いのです。
また、室内でばかり遊んできた子は、自由を与えられても、自由に活動することが出来ません。オリの扉を開けても、慣れ親しんだオリから出て来ない動物のようです。
そのような子は依存心ばかりが強いです。
ただ、「しつけなんて必要がない」ということではありません。
子どもは放っておいても立って歩けるようになりますが、姿勢正しくちゃんと歩けるようになるためには「しつけ」が必要です。
言葉も勝手に覚えてしまいますが、正しい言葉を話すことが出来るようになるためには「しつけ」が必要です。
そして、それが本来の「しつけ」の意味だと思います。
「しつけ」というのは一種の美学なんです。
だから、「躾」という字も使ったのだと思います。
まただから、昔の人は、言葉遣いや、立ち居振る舞いにうるさかったのです。
でも、現代人はこのような「しつけ」には無頓着です。
現代人にとっては、大人の都合を押しつけるのが「しつけ」の目的になってしまっています。
そのため、多くのお母さんが動物を調教するような手段を「しつけ」として使っています。
でも、それが、子ども自身の「人間としての育ち」を支える働きをしないのなら、それは本当の意味での「しつけ」ではないのです。
最初のスフィンクスの言葉ではありませんが、人間は成長と共にその姿を変えていく生き物です。
でもその時変わっていくのは、姿・形だけではありません。
意識や、心や、からだの状態も変わっていきます。
ですから、三歳の時に必死になって頑張って仕付けたことでも、子どもが四歳になって意識も、心も、からだも変わってしまうと、全く役に立たなくなってしまうことが多いのです。
それで今度は、「四歳児対応のしつけ」をするのでしょうが、それも五歳になったら役に立たなくなってしまうかも知れません。
歯を磨く習慣も、手を洗う習慣も、お母さんが必死になって身につけさせても、成長と共に簡単に消えてしまうことが普通にあるのです。
そうやって、子どもがしつけから逃げたり、しつけに反発するようになるまでいたちごっこが始まります。
逆に、全然仕付けていないのに、お友達がやっているのを見て、手を洗うようになったり、歯を磨くようになったりすることも多いのです。
ちなみに、ちゃんと仕付けられた「正しい歩き方」や「美しい言葉」は、急に消えたりはしません。
本当の「しつけ」は「一生もの」なんです。