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現代社会では「心」というものを扱いません。
そもそも、文明というものが「心」を必要としないからです。文明を維持するのに必要なのは「知的な働き」と「従順な行動」だけです。 また、「自分の価値観」を持つ必要も、「自分の心」に従って判断する必要もありません。 トップに強力な指導者が一人いて、下の人はその人の価値観に従って行動し、判断しているだけで、文明は維持されるのです。 極端なことを言えば、人間が全てロボットに置き換わっても「文明社会」は維持できるのです。 でも、そうなってしまったら、「心」によって支えられている「文化」も「命の価値」も消滅してしまうでしょう。 その「心」を支えているのは「人間の言葉」です。 ですから、「人間の言葉」を失ったら、人間は「人間の心」を失います。 そして、「人間の心」は、古代から現代に至るまで、大人から子どもへと「言葉」を通して伝えられてきました。 でも、大人と子どものつながりが消えつつある現代社会では、「言葉の伝承」も、「心の伝承」も途絶えようとしています。 実際、現代人は「言葉を伝える」ということを大切にしていません。 「言葉」を伝えようとしているかどうかすら危うい感じです。 また、自分たち自身の言葉も非常に貧弱になってしまっています。 でも、「思考」も言葉で行われているので、自分の言葉の中にない概念は、考えることも、気付くことも出来ません。 だから、「言葉」を失ってしまった人には、何が問題なのかに気付くことが出来ないのです。 たとえば、「見えない世界を語る言葉」を持っていない人は、「見えない世界」が困った状態になってしまっていても認識出来ないのです。ちなみに「心」も「見えない世界」の存在です。 言葉は「心の世界を開くもの」であると同時に、「心を狭い世界の中に閉ざすもの」でもあるのです。 だからこそ「心育て」には「言葉育て」が重要なんです。 ちなみに、私の「子どもの心を育てよう」という言葉の意味は、「自由な心を育てよう」という意味です。 それは、「道徳教育」とか、「教育勅語」とか、「よい子」とは無関係な世界です。 「心」には、「上・下」も、「優・劣」もありませんが、「自由・不自由」はあるのです。 そして、「自由な心」は「喜び」を引き寄せ、「不自由な心」は「苦しみ」を引き寄せます。 だからこそ、子どもたちの「自由な心」を育てたいのです。 それはまた「平和な未来」のためでもあります。 でも、お母さん達は、子ども達に「あれやりなさい」「これやりなさい」「早くしなさい」「手を洗いなさい」「テレビを消しなさい」「大人しくしなさい」などと、行動に対する指示を出すだけで、ちゃんと「言葉」を伝えようとはしていません。 実際、多くのお母さんたちが、「しつけ」とは「大人の指示によって子どもの行動をコントロールすること」だと思い込んでいます。 虐待の増加もそれと関係していると思います。 そして、子どもが一人で遊んで、手がかからない、他の子とトラブルを起こさない、大人の指示に従う「よい子」の状態になっていると、お母さんは安心します。 そして、スマホを見たり「自分の仕事」をしたりします。 でも、これは「イヌの調教」と同じなんです。 このような子育てでは「言葉」を伝えることが出来ません。そして「言葉」が伝わらなければ、「心」も育たないのです。 イヌに求められるのは「従順な行動」だけです。 確かに犬はそれでOKです。 でも、人間はそれだけだと、あとで困った事になるのです。 飼い犬は死ぬまで「飼い犬」ですが、人間はやがて自立しなければならないからです。 そして、「人間としての心」が十分に育っていないと、「一人の人間」として自立できなくなってしまうのです。 そのような人は自分の意見や価値観を持っていないので、常に不安定で、自由に判断しなければならないような状況の中では不安を感じてしまいます。 そして、「指示や命令を与えてくれる人」を求め、すぐに依存しようとします。 だから、「子育て」のような「自分がリーダーになって、自分で判断しなければならない状況」に置かれると、どうしていいのか分からなくなり苦しむのです。 また、「従順な行動」だけが価値を持つ社会では、「心」は価値を持たないので、命令に従って行動出来ない「障害を持った人達」は単なる「やっかいもの」に過ぎなくなります。 どんなにきれい事を言っても、「心」というものに目を向けない人々や社会にとっては、社会的な活動が出来ず、人に依存しなければ生きていくことが出来ないような人は「やっかいもの」なんです。 相模原の、障害を持った人達の施設での大量虐殺の時の報道でも、マスメディアは「命の大切」を訴えていましたが、逆に言うと、現代人は「障害を持っている人」と「持っていない人」の共通項には「命」しか存在しなくなってしまっているのです。 だから、「19人の命が奪われた」と、「命の数」だけが報道されたのです。 でも、家族や友人の人たちが失って悲しかったのは「命」だけではなく、「その人の心」なんです。 そして「心」は「数」でまとめることが出来ないのです。 また、「行動」の方は障害の有無が大きく影響していますが、「心」は障害とは無関係です。 知的な障害を持っている人でも、素敵な心を持っている人はいっぱいいます。 逆に、障害を持っていない人でも、困った心を持っている人もいっぱいいます。 寝たきりで、何の自己表現も、反応も出来ないような状態の人にもちゃんと「心」があるという証拠もどんどん発見されてきています。 「心」は「私が私である存在根拠」なんです。 だから「命」には名前が必要ないのに対して、「心」には名前が必要なんです。 また、「命を大切にする」という言葉を聞いても、その意味は不明です。そもそも「命」というもの自体が抽象的で概念的です。 一方では工場のようなところで平気で「命」を殺しているのに、大人の都合の悪いところでは急に「命を大切にしよう」などと言われても、子どもは納得できません。 「在来種の命は守り、外来種は殺しましょう」というのも理解出来ません。 そもそも、「命」あるものは「命」を頂くことによってしか「自分の命」を維持することが出来ないのです。 だから、「命を大切にしよう」という単純な言葉では本質を語ることが出来ないのです。 現代人は「子育て」や「教育」の現場でも、「大人の指示に従う従順なよい子」にしようとしたり、様々な能力や機能育てばかりに熱心になっています。 それは子どもの「生命の働き」を無視した子育てであり、教育です。 それなのに、「命を大切にしよう」などと子どもには押しつけているのです。 本当に「命」を大切にするというのなら、大切にしなければいけないのは「心を大切にした子育てや教育」なんです。なぜなら、「命」を支えているのは「心」だからです。 それが人間の特徴なんです。 だから「心」が病むと「命」も病むのです。 発達障害の子どもたちの子育てでも、「行動」ばかりに目を向け「心」に目を向けないから、困った事になってしまっているのです。 そして療育ばかりに夢中になってしまうのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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