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自分の心を大切に生きていない人は、他の人の心も大切にしません。
当然、子育ての場でも教育の場でも「子どもの心」を大切にしません。 そして、そのことを指摘しても「子どもを甘やかしたらダメな子になる」と言うばかりで、理解されません。 自分自身を鑑みて、心が育っていない人には、そうとしか思えないのだと思います。 そのような人もまた、子どもの頃に「心」を大切にされてこなかったのでしょう。 同じように、行動を管理されて育った人は、子どもの行動も管理しようとします。 大人の期待に応えることだけを求められて育った人は、自分自身の子育てや教育の場でも「大人の期待に応えるような子を育てること」を目的にします。 最近の政治の流れを見ていても、「政治家の人達はみんなこんな風に育てられたのだろうな」としか思えません。 そして、今の日本の社会システムでは、そういう教育を受けた人の方が「偉い人」になるように出来ています。 つまり、「自分の意見を言わずに偉い人の言うことに従順な人」が出世するのです。これは、中国でも韓国でも北朝鮮でも同じ状態だと思います。 (学校でも同じようです。) 中学校の武道に「銃剣道」を追加するなんて発想は全くのトンチンカンなのですが、「偉い人の気まぐれな思いつき」を誰も否定できなかったのでしょう。 全く、子どもや教育を馬鹿にした発想としか思えません。 それに「子どもの心やからだの成長」に関してあまりにも無知な発想です。 素人で無知な政治家の「先入観に基づいた思いつき」を、教育現場に押しつけているのが現代の日本の教育です。 だから教育現場が混乱して、先生達が苦しんでいるのです。 でも、誰もこの流れを止めることが出来ません。 この国には「偉い人には逆らってはいけない」という精神文化があるからです。 それは、儒教的な文化が育てた感覚なのでしょう。 でも、孔子が説いた言葉をまとめた論語には「自分が守らなければならないこと」が書かれているだけで、「それを人に押しつけなさい」とは書いていないのです。 孔子が説いたことは「自分で自分を育てるための方法」なんです。 (宗教もまた同じです) 例えば、 論語の「学而第一 1」の 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。 という部分を、下村湖人(1884~1955)が、 「先師がいわれた。聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。なんと生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、なんと人生は楽しいことだろう。 だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか」 と訳していますが、まさに自分自身に課した言葉ですよね。 「学而第一 2」は、以下のように訳されています。 有子曰。其爲人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作亂者。未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。 「有先生がいわれた。家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であったためしはめったにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何ごとにも根本を大切にし、まずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があったのではあるまいか」 これもまた自分自身への戒めの言葉であって、「だから子どもたちに親を大切にするように教育しろ」ということではないのです。 むしろ「子どもに大切にされるような親になれ」というのが孔子本来の教えなんです。 でも、権力者はこれらの言葉も、自分の都合の良いように解釈して、国民に押しつけようとしています。 (江戸時代にそのように作り替えられてしまったようです。) 教育勅語はその典型です。 自分でお手本を示そうとしない人ほど、相手にはよい子を求めるのです。 こんな状態を孔子先生が見たら怒るでしょうね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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